日本明慧
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貴重な記憶:永遠の見証(四)
三、1993年、広州にて
1993年4月13日から22日まで、法輪功広州第一回伝授クラスは、広州市で行われました。最初は40人の修煉者しか参加しておらず、主催者も地元の気功学校でした。伝授クラスの際、師父は自ら修煉者と一緒に功法を教えていました。
講習の時、師父の泊まっていた安いホテルは非常に古く、ホテルの食堂も貧しいものでした。ある日の夕方、同州の甲さんは、茶碗一杯のごはんと、油揚げのない白菜を見て、どうしても食べられないような表情で周りの同修を見ていました。「こんなの食べられるのか?」と訪ねました。しかし振り返ってみれば、後ろに座っていた師父は、既に全く同じメニューの料理を食べ終えて、微笑みながら次の授業へ向かっているところでした。ただちに同修の甲さんは、恥ずかしく感じました。
また、ある時食事の際、師父は目玉焼きを同修乙の茶碗に箸で入れてくださいました。同修乙は、その場にいた修煉者たちが急いで手で自分の茶碗を塞いで、師父がこれ以上食べ物を分けられないようにしたのを見ました。この目玉焼きは同修丙が、師父の伝授クラスでの大変さに感動して買ってきたものです。師父は微笑みながら、「皆さん、食べて下さい」と言いました。師父の心のなかで、常に他の人を思っています。
伝授クラスの後、師父は笑いながら隣に座っていたスタッフに「さあ、一緒にレストランに食事をしにいきましょう」と言いました。師父が5人の弟子を連れて、広州の街中でラーメンを食べに行きました。それは、私たちのためではなく、スタッフのためでした。師父は決して外食せず、いつもカップラーメンばかり食べていました。
伝授クラスの期間中、師父は様々なお寺を回りました。お寺の入口で僧侶の服を着た和尚が、派手なメガネを掛け、バイクに乗ってお寺の中に入って行きました。それを見て修煉者たちは「なんと今の出家者は、こんな様子なのか」と思わず口に出しました。
広州の伝授クラスが終わった後、法輪功は瞬く間に広がりました。
四、1993年8月、貴州にて
1993年8月15日から8月21日、貴州省の気功協会の招待により、師父は再び伝授クラスを開きました。私も幸運にも、この伝授クラスに参加することができました。師父は、娘さんの美歌ちゃんも一緒に連れていきました。美歌ちゃんは毎日、リュックサックの大量の資料を入れていまいした。それを見て、皆が「資料がこんなに重いのに大丈夫?」と聞くと、美歌ちゃんはいつも「大丈夫、大丈夫」と言いました。美歌ちゃんは大きなかばんを背負っていながら、毎日師父と一緒におり、卒業証書を作るときも美歌ちゃんは皆と一緒に徹夜して、卒業証書の判子を押していました。
貴州省での伝授クラスの期間中のことです。貴州省の地元の法輪功の責任者の話によると「山の中に人間の形を修めて得た蛇がいました。蛇のせいは、326歳だそうです。師父が伝授クラスを行う際、その蛇がいつも妨害していました。しかしその後、師父の説法を聞き、自分が間違ったことに気づいたようです」と話しました。貴州の伝授クラスが終わった後、師父は貴州を離れる前にスタッフたちと一緒に荷物を整理し、スタッフたちを助けて下さいました。
五、1993年11月、1994年4月、安徽にて
法輪大法の広まり方は普通ではありません。安徽省で法輪大法の素晴らしさが伝えられたのは、1993年11月19日の合肥での第一回伝授クラスでした。11月19日、合肥は突然雪が降りました。さらにヒョウが降った日もあり、丸一日振りました。22日になると空が晴れ、積雪も消え、師父は安徽省農業大学のホールで第一回伝授クラスを開きました。参加者たちは、合肥市内の人が260人ほどでした。よそからの参加者もたくさんおり、合計すると511人いました。
1993年12月2日、師父は九華山に行きました。九華山は菩薩の道場だと言われていました。そこには、三人の長年修煉していた僧侶の数百年経っても腐らない遺体がありました。師父は、九華山の和尚のような体はいずれも数百年が経っており、千年経っても壊れないのは、それらの体が既に高エネルギー物質によって変えられており、常人の体ではないから、壊れないのだとおっしゃいました。
山の道を上るのは大変ですが、しかし、まるで天に登っているかのようでした。師父は、既にその時点で3層目の天に登ったとおっしゃいました。また、突然周りから沢山の金色に輝く円が現れてきて、まるで神話世界に行ったように感じました。
山に登っている途中、喉が乾いたので、他の修煉者は缶ジュースを買ってきて、師父に飲ませようとしました。師父は「皆さんも喉が乾いていないでしょうか? 皆さんも一緒に飲みましょう」と誘ってくれました。師父は常に弟子を思っているのです。このようなことはしょっちゅうありました。
1回目の伝授クラスが終わる前に、何人かの修煉者が師父に、いつまた合肥に来るのかと訪ねました。師父は「合肥は将来、また来るでしょう」と微笑みながら答えられました。地元の気功協会の再三による招待により、師父は来年の4月15日にもう一度合肥を訪れ、第二回伝授クラスを行うと言いました。その当時師父は、「1500人ほどが参加するでしょう」とおっしゃいました。
なんと、1994年4月15日から24日、安徽省の合肥で二回目の伝授クラスが行われる際、本当に1500人が集まりました。初日の授業で修煉者たちは非常に興奮していました。師父の説法を聞きながら、しょっちゅう会場内で拍手が贈られました。しかも参加者たちは常に立って拍手を送り、さらに手を高く上げて拍手を贈っていました。なぜなら、師父の説法を聞き、自分の次元が向上していることを全員が感じたからです。師父は「説法を始めます。もはや気功の形式はとりません」とおっしゃいました。師父の放った功は非常に強く、たとえ体が敏感でない修煉者でも、形のない力が自分を押しているように感じていました。
伝授クラスの期間内、ある農村出身のまだ30代の修煉者がいて、腰が酷く曲がっていました。ある日、その人は、私たちの所へ嬉しそうに走って来て、私たちに背を向け「見て! 見て!」と言いました。私たちがどういう事なのかと疑問に思っていると、この男性は「ほら、私の背中を触ってみてください」と言いました。なんと、私たちは彼の背骨がまっすぐになっていることに気づきました。男性は涙を流しながら、「昨日の夜、寝るときに夢の中で背中が何度もドンドンという音がしたのを覚えています。その後、気にしていませんでしたが、朝起きたら妹がとても驚いて、私に『お兄さん、なんで!? あんたの腰、真っ直ぐになってるよ』と言い、初めて気づきました。(彼の妹も法輪功の伝授クラスに参加していました)
師父の説法が始まってから、師父の着ている服は常に質素そのものでした。ダークブルーの古くなったスーツと模様付きのシャツは何度も洗われたため既に白くなり、袖と襟の部分が毛羽立っていました。そのためある修煉者は、師父のために新しいスーツを作らせました。その後、師父はそのスーツを着て写真を取りました。その写真が、『転法輪』の一番最初のページにある、「作者について」の説明の写真となりました。
ある日、私は合肥の伝授クラスのスタッフとして、師父と一緒に食事をする機会がありました。地方の修煉者も子供のようにお風呂に入り、綺麗な服に着替えて食事をしました。何人かのスタッフが円卓に座って師父が来るのを待っていました。きっとおいしい料理だろうと思っていました。しかし、出されたのは、一皿の野菜料理とご飯だけでした。修煉者たちは非常に驚きました。これだけ? と涙する人もいました。ある修煉者は師父の真正面に座っていて、常に下を向いて食べていましたが、時折頭を上げて師父を見ると、師父はまだ脱穀されていない一粒の米の皮を剥いているのが見えました。この光景を見た修煉者は大変感動しました。私たちの師父はどれほど、食べ物を大切にしているのでしょう。師父は迷われる衆生を救われるため、そして人類の道徳を向上させ、宇宙を正し衆生を済度する辛さのなか、毎日このような食事をしているのに、衆生に与えられているものは最も貴重なものばかりでした。
(続く)
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