日本明慧
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新唐人の仕事に関わる中での修煉体験(三)

人心を取り除き協調できるように努力する

 去年の年末、ニュース部門の協調人が私に、私が担当している番組を15分まで短縮できないかと聞いてきました。私は笑って「前回の番組は60分を越えたのに、それを15分に短縮してしまえば、もはやこの番組は成り立たないのではないですか」と言いました。協調人は躊躇いながらも私に対して「この番組にこれ以上テレビ局の資源を費やすべきではないのです」と言いました。私は心の中で考えましたが、理由がわかりませんでした。なぜこの番組のためにテレビ局の資源を費やすべきではないのでしょうか。その後、ニュース部門の二人の協調人はいずれも、他の仕事に2人のメンバーを採用して、新たな番組の製作に取り組もうとしていることがわかりました。

 私は協調人と交流する時、自分には関係がなく、まるで他人事のように交流していました。しかし家に戻ってから考えると、ますますテレビ局の資源を使うべきではないという、協調人の話はおかしいと思いました。私は自分自身のために番組を製作しているのでしょうか。新しく採用される2人の同修は、もともとこの番組の制作とは関係ありませんでした。しかし、彼女の容姿が注目され始めてから、彼女はトレーニングを受け始めました。もう一人の同修も、もともとこの番組の担当ではなかったので、私はこのテレビ局は人材がいないのではないかと思いました。テレビ局の資源を使ってしまっていることを考えると、私に怒りの気持ちはありませんが、協調人に言われた言葉を、私は何度も頭の中で浮かべていました。

 3週間後、協調人が私に、ニューヨークで撮影されていたこの番組をやめて、私も含め全てのスタッフを新しい番組に配属することになったと告げました。

 私はスタッフにこの番組が解散されることを伝え、さらに新しい番組を制作するための会議の時間を伝えました。会議の時私は、自分が担当する新しい仕事を任されました。表面的には、全てが落ち着いて進みましたが、私の心はそうではありませんでした。

 師父は内に向けて探すようにとおっしゃっています。私はなぜ自分を放下できないのでしょうか。私は協調人に言われた言葉をどうしても忘れることができませんでした。私はなぜ他の人の仕事に執着するのでしょうか。師父は私達に協調するようにとおっしゃっています。私は表面的にはできました。しかし心の中ではまだできていません。自分がしたくないからこそ、私達の協調が必要なのです。さらにテレビ局がこの番組に対してあまり協調的でないので、この番組は必要ではないと言われているかのように思えました。私がいくら努力しても人にはわかりません。番組は前よりだいぶ良くなりましたが、このような結果になりました。私は自分自身に問いかけました。自分だけが努力をして、他の人は努力をしていないのでしょうか。協調人は全面的に物事を見ていますが、自分は一つの番組しか担当していないので、自分の視野が狭いのではないかと考えました

 とにかくあの時期、人心が色々と現れてきました。師父の説法を学法すると、人心は抑えられましたが、また時間が経つと現れて、このように2カ月の間、完全にこの難を乗り越えることはできませんでした。自分の長年の努力が否定されたことを、やはり受け入れることができませんでした。

 普段何かのでき事により、心の中で人心が動いたとしても、数日か長くても1週間が経てば消えてしまいます。しかし今回は2カ月も続きました。私は心の中で、自分のどのような人心を取り除くべきかわかりませんでした。私は焦りだしました。心の中で執着を持ちながら番組の仕事をすると、その執着の物質が視聴者に影響を与えてしまうからです。もう一つは2カ月経ってもこの関を乗り越えられないのは、現状に留まっており、修煉において向上していません。早くこの関を乗り越える唯一の方法は、法を学ぶしかないと私は思いました。

私は師父の『マンハッタン説法』が比較的に厳しく説法されていると思い、繰り返し何度も『マンハッタン説法』を読みました。大法を通して自分が精進できるような状態に戻りたいと思いました。何度説法を読み通したことでしょう。あるとき、師父は「師父はあなたが修煉の過程におり、最終的に正しく対処できるようになり、これは修煉過程の中のことだと分かっています」(『マンハッタン説法』)と、おっしゃいました。この師父の説法を見た時、私は涙を流しました。その瞬間、この一行は師父が広大な慈悲をもって、私に対して説法されたように感じました。まるで師父の目の中に、私に対する限りない期待と信頼があるように感じました。努力しても関を乗り越えられず、自分自身に対して自身を失っているにもかかわらず、師父は私に期待をよせ、私がよくできることを信じてくださっています。師父が私を認めてくださっているので、誰が私を否定しても問題ありません。この考えが出ると、心の中は落ち着きました。私はこの関を乗り越えたとわかりました。

 私はできるだけ新しい番組の中で、時間がとれるように時間の調整をしました。新しい番組の中で、私は何を言われてもできるように努力しました。文章を書くように言われた時はネットで情報収集をし、文章を書くようにしました。取材の前に質問を用意するように言われた時は、自分は何を質問するのかわかりませんでしたが、問題を考え、さらに経験のある同修に教えていただきました。質問の内容が準備できると製作者に「彼女よりも質問の準備がよくできている」と言われました。この突然の褒め言葉を通して、私は何をどのように答えればよいかわかりませんでした。皆で一緒に学校の撮影に行った時、私が校長である年配の女性と会話をするように調整されました。彼女は近づき難い方で、私は恐れの気持ちが出てきました。しかたなく私は、彼女の態度を気にせずに交流をしました。カメラマンが撮影をする中、私は彼女と雑談をしたりテレビ局について紹介たり、真相を伝えました。普段、初対面の人と一緒にいるとあまり話す内容もありませんが、あの日はなぜか、たくさんのことを話すことができました。彼女も私たちをつれて別のところにいく途中、うれしそうに歌いだしました。さらにあるレストランを取材に行く際、取材をする前に電話をするように言われました。私はなんとかして受話器をとり、相手はどのように反応するのだろうと思いながらも電話をし、質問をしながら取材の時間を決めました。制作チームは仕事が相次いでやってきて忙しいので、できるだけ制作チームの空いている時間帯に取材ができるように、レストランの方に話をしました。後になってわかったことですが、その日の取材は非常に順調でした。

 新しい仕事の内容も加わって、多くの時間を番組の制作にあてられなくなりました。しかし、この番組のニュース報道がますます良くなり、世界各国の記者から、このニュースに関する情報提供があったため、番組の内容はさらに豊富になりました。私が以前協調していた時よりも効果は良くなったと思います。

 最近、同修から、私が綺麗になったと言われています。整形したのではないかと言われることもありました。美容院に行く時、いつもカットしてくれる美容師の方に「頭が小さくなりましたね。」と言われることがあります。これまで私は自分の頭の大きさはどうにもならず、生まれつきのもので改善できないと思っていました。しかし、今日の全ては大法が与えてくださったものです。私が、大法の要求に従って心を修めて執着を取り除き、心性が向上したからこそ、大法が私に素晴らしい全てをみせてくださいました。

 テレビ局の開局から10年の歳月が経ちました。さまざまな出来事は、まるで一瞬のように過ぎ去り、記憶さえ残っていないかのようです。私は番組をさらに良くできるようにして、より多くの視聴者を惹きつけられたらいいなと思います。

 修煉の道には苦難もありますが、大法弟子は法をもって師とし、衆生を済度をすることを目的としているので苦難を乗り越えることができます。自分自身を放下し、人心を放下する大法弟子だからこそ、無私無我の心で衆生を済度することができるのです。

 衆生を救い済度すること、それは私達のいにしえからの誓いです、衆生を救い済度すること、それはこの人生の中での唯一の願いです。衆生を救い済度すること、それは師父の恩に報いる唯一の方法です。

師父に感謝します。皆さんに感謝します。

(完)

(2011年ニューヨーク法会での発表原稿)

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/9/2/246157.html)
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