明慧法会|師を信じ、法を信じる中で立ち直る(一)
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文/中国の大法弟子 遠山

 【明慧日本2011年12月16日】師父こんにちは! 同修の皆さんこんにちは!

 私はとても喜んで、「明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会」に参加しました。これまでの16年間、大法を修煉する中で、私は谷底まで落ちたことがあります。師父の慈悲なるご加護と同修たちの心からの支援により私は立ち直り、再び修煉の道を歩み始めることができました。師父の無辺の法理に導かれ、今日まで歩んで来ることができ、とても嬉しく思っています。明慧ネットに携わる同修と周囲の同修たちのおかげで、私は師父の無辺の法理をさらによく理解することができました。自分の過去と現在との比較、また大法を修煉していない常人たちと比較してみても、私はこの上なく幸運で幸せだと感じています。

 次に師父と同修たちに、法を師とする私の修煉体験を報告させていただきます。

 一、私はなぜつまずいたのか

 私は19958月に大法の修煉を始めました。私は修煉を始めたころの状態から急速に抜け出し、学法と、法を弘めるようになりました。学法の中でどのように努力しても、理解できない法の内涵がとても多くありました。私はいつの間にか責任者としての心がますます重くなり、自分ではそれに気づきませんでした。中共(中国共産党)政府による迫害が日々激化する中で、私は人心がまっ先に働いて、どうすればいいのか分からず、ただ呆然としていました。トラブルに出遭った時、私は師父と大法を第一位に考えるのではなく、完全に自分を常人の位置に置いてしまいました。

 7.20前後、中共による大法と大法弟子への狂気の迫害の中で、私は重い人心と恐怖心があり、表面上では依然として大法の修煉を堅持しているかのようでしたが、常人の心と勇気で無理して頑張っていたのです。実際には、邪悪勢力の迫害を否定できず、すぐに中共の罠にはまってしまいました。夢の中でさえも自分が高い山から一歩一歩下へと落ちていきました。中共の邪悪が作り出した恐怖の中で、は師父の法理を忘れ、師父の無辺の法理の前で、「それらは何者でもない」ということを忘れていました。人類史上最も邪悪な迫害の中で、大法弟子として、法を実証する重要な時期であることを、私は認識することができませんでした。

 その時、母(大法弟子)が私に婉曲に指摘してくれました。私が再び、『転法輪』を手にしたとき、恐怖心は弱くなっていました。これは師父と大法が私に与えてくださった力と勇気でした。

 1999年末ごろ、派出所の警官たちの「定期訪問」に、私ははじめて正々堂々と答えることができました。「あなたたちの『定期訪問』は、私の仕事や生活に大きな差し障りとなります。あなたたちは人を傷つけた後、傷の程度が気になって、また見に来ます。傷が治りかけていたら、もう一度傷つけます。これがあなたたちの言う『定期訪問』のことですね」と言うと、数人の警官たちは、何も言うことができず、そのまま帰って行きました。その後、誰も「定期訪問」に来なくなり、このことはこれで終わりになりました。

 大法修煉者として、私が落ちた原因は人心があまりにも重く、法を忘れてしまっていたからです。心に法がなく、これは常人です。ただの常人の善良、正直と勇気だけでは、中共の邪悪な迫害を乗り越えることはできないのです。

(続く)

(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/9/249490.html)     更新日:2012年2月28日
 
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