明慧法会|師を信じ、法を信じる中で立ち直る(二)
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文/中国の大法弟子 遠山

 【明慧日本2011年12月17日】

 二、師を信じ、法を信じる中で立ち直る

   邪悪の気が狂ったかのような迫害の下で、私が立ち直ろうとした時、警官は私の周りを監視し始めました。散歩する時ですら警官たちはついてきました。私は、これは恐怖心を取り除くよい機会で、私を監視する警官が多ければ多いほど、他の同修を邪魔する警官が少なくなるのではないかと思いました。このように考え直す中で、「大法に円融する」という内涵がいく分か分かってきました。

  私が立ち直った初期、ある警官が私を監視することは大変だと話していました。私は平然として、「職場から自宅へ、自宅からまた職場へ、しかも私の退勤時間は決まっていて、容易なことではありませんか」と尋ねました。私生活の時間について、私は一切話しませんでした。これは個人的な生活のことであり、他人に問われる必要はなく、また私には法律の知識があることを間接的に伝えたかったのです。後になって、自分の意思を相手に伝える時、明確にしておかなければならないことは、「私は大法弟子である」ということです。いかなる生命の言行も大法の法理に従うべきです。家族(修煉していない)は私のことが心配で、私が外出することを喜びませんでした。私は婉曲に、「これは私の権利だ」と告げました。心に法があり、揺るぎなく行う過程で、周囲の人たちも次第に認めてくれるようになりました。

 学法する中で、真相を伝え、法を実証するには、正々堂々と行うべきだと次第に分かってきました。最初のころ、私が外に出て真相を伝えた時、人々の異様な視線を感じました。大法弟子として、私は決して道徳に欠けることはしないし、私たちは無条件に良い人間になるようにと師父から教わっています。さらに、法輪功を煉煉することは私の権利であり、私の選択です。相手が理解できないと思うことは、まだ真相を知らないからで、私が伝えるべきことです。

 外で真相を伝える時、私はいつも師父の『洪吟』を暗誦します。すると、次第に私の表情は落ち着いてきて、常人に話しかける機会も多くなりました。大法の支えがなければ、邪悪の虚言が天地を覆うかのような重圧の中で、外へ出て行くことさえ、私にはとても苦しいことでした。私が正々堂々と街を歩き、知人に私の被った不当な扱いを伝え、世間の人に法輪功が無実の罪を受けていると伝えるようになった時、それは今までとはまた違う光景でした。かつて大法に対して良くないことをしてきた警官たちも、私を見かけると、頭を下げてすれ違ったり、目をそらしたりしました。私は神への道を歩む人であり、私は胸を張り、誇りと自信をもって出て行くべきだと常に思っています。

  職場で、困難なことに直面すると、一番前を歩き、トラブルに遭ったら自分の不足を探します。厄介な問題を前にして、大法の口訣「智慧を生み力を増し、心は融けて体は軽く」(『大圓満法』)を思い出します。師父は私に対処方法を授けてくださいました。名利を前にしても、私は気楽に優先権を相手に譲りました。そうすると、職場の環境は比較的和やかでした。

 当初、何も躊躇することなく私が法輪功を選んだのは、師父が『転法輪』の中で説かれた法理に深く惹きつけられたためで、どのような環境でも自分は無条件で師父の法理に従って行おうと思いました。それにより、同僚たちも私と仕事をすることを好んでいます。7.20以降、邪悪の虚言の中で、私は同僚たちが法輪功を理解する唯一の窓口になりました。中共が作った、白黒を転倒し、うそ偽りで人々を騙してきた歴史を人々はよく知っており、インテリの中ではなおさらのことです。ただ、中共の手段を選ばない恐怖の悪行は人々をぞっとさせ、多くの人は、自分と関係のないことに巻き込まれないように心がけています。しかし、彼らには是非、善悪を計る尺度があります。一部の人は法輪功に対する偏見を持っていますが、それは真相を知らず、真剣に考えていないからです。私が正念を持って、自分がやるべきことをしっかり行なっていれば、私を通して、それらの人も法輪功に対して再認識するはずです。私の立場は明確で、それは、法輪功が正しいからです。かつて、ある同僚が公の場で師父と大法に対して不敬な話をしましたが、私はきっぱりと批判しました。その後、私は彼に辛抱強く真相を伝え、このようなことに対する自分の態度を明確にしました。

  (続く)

  (明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/12/9/249490.html)     更新日:2012年2月28日
 
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