文/河北大法弟子 大山
【明慧日本2012年1月10日】
三、内に向けて探し、完全に師を信じ、法を信じることまで達する
紆余曲折の十数年の修煉を経て、転んでは起き、起きてはまた転びながら、試練を繰り返し経験してきました。どんな魔難、どんな試練に遭っても、修煉の最初から最後まで、私たちが師と法を信じているか否かという同じ問題が問われています。あなたにいくら執着があっても、いくら正念があっても、あなたが完全に師を信じ、法を信じる基点にあれば、すべてのトラブル、困難がみな解け、すべての妨害がなくなり、すべての不純不正もみな大法に正され、善解されます。どのように師を信じ、法を信じる正念を守るのか、それは私たちが人の執着と観念を放下し続け、完全に師を信じ、法を信じることにまで達する過程です。
この前、私はオートバイに乗っていた時に転倒し、手首を脱臼し胸を怪我しました。家に着いた後、手首が大きく腫れて激痛が走りました。家族に整骨院に行くことを強く勧められたとき、私は楽を求める心が重くて反対しませんでした。しかし、整骨院に着くと、まだ整骨院は開いておらず、私は始めて醒めました。自分は大法弟子で、どうして常人に整骨をしてもらうでしょうか? 自分に何か問題があったら大法で自らを正します。大法は万能ではないでしょうか? それで私は落ち着いてきて内に向けて探し、一部の明らかな執着以外に、ある問題を見つけました。最も根本なものですが、師を堅く信じ、法を堅く信じる程度が足りなかったから、何かトラブルに遭うと、肝心なときに師父の教えに従ってやらず、人の思惟で問題を考え問題を見ていたのです。これを悟った後、私は度胸を決め、師父の教えを聞くだけで、師父は修煉者には病気がないとおっしゃいましたから、病気がなく、やるべきことをやると考えました。私は煉功し始めましたが、激痛のため一部の動作がしっかりできませんでしたが煉功し続け、下へ沖灌するとき、脱臼した骨からがたがた音をたてて辛かったのですが、毎回下へ沖灌するとき、辛くならないように意識的にスピードを落としました。実際、人為的に常人の方法を用いてこの問題を対応していました。三度目の沖灌をするとき、私は無意識的にこの人為的な意識を緩めました。すると突然、がたと1つの音を聞こえ、瞬間に気持がよくなり、脱臼した手首が煉功の中で回復しました。煉功の後、激痛が完全になくなり、幸せな涙が目に充満して流れました。私は泣き、自分に意気地がなかったために泣き、自分が金のお碗を持ってあちこちで乞食していたかのように感じて泣きました。万能の大法に大事にせず、俗世の名利情を抱いて放下できなかったため恥ずかしかったです。
このことを悟ってから、私は修煉が本当に難しくないと感じました。私たちの全ての修煉過程は師を信じ、法を信じる過程です。私たちがいかなることでも完全に師を信じ、大法を信じ、完全に動揺しないとき、私たちはすでに異なる次元の覚者の境界に在ります。
四、いつも何事も内に向けて探し、勇猛精進する
内に向けて探すのことは、修煉の一つ一つことに表れ、大小を問わず、自分の心に触れた時、さらに一念がちらっと出た時、内に向けて探すチャンスを逃してはいけません。あなたは気持がよくないと感じるとき、あるいは嬉しいと感じたとき、内に向けて探すべきです。必ず自分に執着があるから、世間の一部のことに動かされたのです。私たちにこれらの執着、または人の観念がなければ、常人社会のいかなることでも心が動ぜず 師が法を正すのを助け、衆生を救い済度する正念が妨害されなくなります。もちろん、私たちは人間が修煉しているので、人の執着と観念が一つもないというのは不可能です。執着自体は恐ろしいことではないのですが、本当に恐ろしいのは、トラブルの中で自分の執着が現れたとき、内に向けて探さず自分を修めないことです。それでは本当の修煉者と言えるでしょうか? 大法弟子ですが、大法の要求に従ってやらないことは、妨害と迫害された根本的な原因かもしれません。
『九評共産党』が発表され、三退を勧め始めたとき、同修たちははっきりと認識できなかったため、様々なトラブルと妨害に遭いました。例えば、あなたたちは党に反対していると言った人、あなたたちは政治をやっていると言った人、聞こうとも読もうともしない人、通報すると言った人などがいました。ある村の役人は以前、大法の真相をよく認識していましたが、『九評』を勧められた後、がらりと態度を変え、政治をやっているのだと思い、大法の真相さえも認めなくなり同修を家から追い出しました。
この件を通じて私たちは重点的に交流し、法に従って内に向けて探しました。内に向けて探さなければ分かりませんが、探すと驚きました。常人の反応を問わず、私たち多くの同修は皆このような良くない考えがあり、師父が私たちにやらせることは必ず正しいのだと分かっていましたが、心の中に揺れがあり、政治に参与しているのではないか、修煉と何の関係があのか? と考えました。これらの人心を持って大法のことをやったため、常人に党に反対しており、政治に参与していると言われたのも当然でした。実際、常人の様々な反応は私たちの心によって助長されたのです。これらを悟った後、同修たちは自分の人心と観念が衆生を救い済度することを妨害していると、一瞬にして分かりました。この方面から見て、自分をしっかり修めなければ、自分が向上できないだけではなく、衆生を救い済度することも妨害しているのです。従って、一人一人の大法弟子には皆、この問題に関して責任があり、その主な原因は師を信じ、大法を信じる程度が足りず、そして法の勉強が少なく、観念と人心を持って学法し、大法を評価したからです。実際、大法を評価することはできないのです。これらの認識上の不足を見つけた後、村のこの役人の反応を再び見ると、一目瞭然でした。旧勢力の邪悪は、大法弟子の人心を利用してトラブルを起こし妨害しました。また完全に解体される中共邪霊は自らの消滅を望まず、中共に対する常人の小さな幻想を利用して常人をコントロールしました。これらをきれいにした後、私たちはさらに常人がかわいそうだと感じ、正念を発し、常人が救われ済度されるのを妨害している中共邪霊を解体し、世人を救い済度するようにしました。しばらくして、私はその役人に会い、三退を勧めました。邪霊のコントロールがなくなった彼は、喜んで三退を表明しました。
総括して言えば、内に向けて探すことは真の宝物で、師父が私たちの修煉道に賜られた、妖魔を退治し、勇猛精進するための宝物です。この宝物は見えませんが、いつも存在し、至る所に在るのです。「内に向けて探す」ことを身につけ、いつもこの宝物を使うと、その作用を果たすことができます。迫害や妨害されているとき、内に向けて探せば、妨害の要素が解体されたり、トラブルや困難が解決したり、魔性が爆発している世人が突然落ち着いて真相を受け入れて救い済度されたり、病の身体が瞬間に病業がなくなって軽くなったりするかもしれません。通れない道、閉じているドアが奇跡的に開いたりするかもしれません。私は毎回、山が重なり水が連なり、路が無いのではないかと疑う状態のとき、法に従い、内に向けて探すことができると、柳暗花明又一村の美妙な境界が現われました。
(完)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)