【明慧日本2012年2月23日】山東省招遠(しょうえん)市に住んでいた法輪功修煉者・傅深利さん(47歳男性)は12年来、中共(中国共産党)当局から残酷に迫害され、見るに忍びないほど悲惨な姿になってしまった。傅さんは迫害から逃れるために、4年間の放浪生活を余儀なくされた。2011年10月25日、繰り返し迫害された傅さんは、無念な思いを晴らせないまま死亡した。
1996年、傅さんとその家族十数人は法輪功の修煉を始め、恩恵を受けた。傅さんの父親は胃がんが治り、母親も患っていた様々な病気が治り、健康を取り戻した。傅さん一家は「真・善・忍」の原則に基づき、良い人になるよう努力していた。傅さん一家は、町内で「法輪功の家庭」と呼ばれ、「仲良しで良い家庭」として有名だった。
しかし1999年7.20以降、中共当局は法輪功弾圧を開始した。傅さん一家は法輪功への信念を堅持し、人々に法輪功の真相を伝えていた。そのため、一家は迫害された。傅さんの一番上の姉・傅金霞さんは労働教養2年を宣告され、2番目の姉・傅彩霞さんは迫害から逃れるため、5年の放浪生活を余儀なくされた。2番目の姉の夫は山東省王村労働教養所に拘禁され、妹夫婦は3年の放浪生活を余儀なくされたあげくに、警官に不当に身柄を拘束された。その後、妹夫婦は不当に懲役8年と7年の実刑判決を宣告され、山東省刑務所に拘禁された。傅さん自身も2001年、迫害から逃れるために、4年の放浪生活を余儀なくされた。
傅さんの父親も数回拘禁された。傅さんの父親は、家族みんなが酷く迫害されていることにショックを受け、臨終のときも子供たちと会うことができないまま、2003年に死亡した。その後、傅さんの家には母親(70代)と未成年の孫たちだけが残され、悲惨な生活を送っているという。
しかし、招遠市610弁公室は傅さんの大家族を既に崩壊させたにもかかわらず、更に放浪生活を余儀なくされた傅さんと傅さんの2番目の姉を追いかけ続けていた。
傅さんは母親と、自分の高校生の子供2人と兄弟の子供たちを養うため、放浪生活をしながら、アルバイトをしていた。傅さんは4年の間、苦難の生活を送り、時にはりんご農園で野宿することもあった。
傅さんは放浪生活中、父親が亡くなったことを聞いて心を痛め、父親の顔をもう一度見ようと思ったが、多くの招遠市610弁公室と地元の警官らが自宅の周りを封鎖していることを知り、家に帰りたくても帰れず、涙を流した。傅さんは追悼用の花輪を買い、人に頼んで自宅に送ることしかできなかった。
ある日、傅さんは家族に会いたくて、深夜に帰宅した。しかし、傅さんは見張っていた警官に見つかり、警官は傅さんを連行しようとした。傅さんは逃れるために裸足で二十数キロ走ったという。
2005年6月16日、傅さんは警官に身柄を拘束された。警官の残酷な拷問によって、傅さんは悲惨な姿になった。そして、拷問に耐えられなかった傅さんは5階から飛び降り(この行為は法輪功の法理と一致しておらず、絶対に真似しないでください)、脳外傷、頚椎の骨折、腕の骨折、肋骨2本の骨折、平骨、腰骨骨折、脾臓が破裂してしまい、顔の数カ所を数針縫って、危篤に陥った。
しかし、危篤に陥った傅さんに対して、610弁公室の警官らは傅さんの家族にも通知せず、灌食の拷問を行った。その後、警官は傅さんの家族に介護を頼んだが、警官らは16人交代で傅さんを見張り続けた。警官らは病室でトランプをしたり、タバコを吸ったり、大声を出したりしたため、傅さんはゆっくり休むことも出来なかった。警官らは傅さんの体が回復しそうにないとみて、2005年7月10日、瀕死状態の傅さんを帰宅させた。
治療中の傅さん |
傅さんを監視する警官 |
帰宅した傅さんは痩せこけ、腕の骨は鋼板で固定されていた。また心臓に損傷があり、肺には穴が空いていて、長い間横になることしかできなかった。しかし、傅さんは法輪功の修煉を堅持し、身体は徐々に回復していたが、働くことは出来ず、息が詰まることが多かった。
中共当局は傅さんを監視し続けていた。2008年11月25日、警官らは再び、傅さんと姉・傅彩霞さんを不当に連行した。傅彩霞さんは済南女子刑務所に収容され、傅さんは洗脳班に拘禁された。洗脳班で傅さんは家族から送られてきた食べ物と飲み物を口にすることを禁止され、暖房器の管に手錠をかけられたまま9日間苦しめられた。傅さんは再び危篤状態に陥り、回復の見込みもなくなったとみた警官らは、傅さんを帰宅させた。精神的・肉体的に繰り返し迫害された傅さんは、2011年10月25日に亡くなったという。
(注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)