【明慧日本2012年3月11日】 「私は4日間苦しめられ、意識不明になりました。彼らは私の体に冷たい水をかけたり、窓を開けて私を凍えさせたり、両手で私の頭を掴んでぐるぐると回したり、握り拳で私を殴ったりしました。私がすでに気絶したのを見て、彼らは私を刑具の上から下ろしました。私はすぐ転倒しました。彼らは事前に用意した資料を持ってきて、私が人事不省になった時に拇印を強制しました」
以上は、法輪功修煉者・張倍齊さんが、警察に自白を強いられた時の事を語ったものである。中国共産党はこのように作った資料を利用して、張さんに懲役7年の判決を言い渡した。張さんはかつて2度、労働教養を強いられ、1回不当な懲役刑を下され、合計8年間拘禁された。
張さんは、1964年に青島市で生まれ、1990年に建物、装飾を扱う個人経営会社を興して、吉林省延吉市安図県に引っ越した。1996年に張さんと妻の劉美君さんは法輪功の修煉を始めた。張さんは長年のタバコと酒をやめて、怒りっぽい性格を改善し、妻の劉さんが患っていた多種の疾病もいつの間になくなった。
中国共産党が法輪功を迫害してから、張さんと妻は何度も不法に拘留され、労働教養を強いられ、懲役刑を下された。2000年7月、張さんは1年の労働教養を強いられた。2001年12月、張さんは再び労働教養を宣告された。2003年7月、張さんは労働教養所から帰宅した。2004年3月、張さんは再び連行され、同年10月末に懲役5年を不当に宣告された。拘禁期間中、張さんは拷問を受けて意識を失った。2009年3月19日、張さんは家に戻った。
2010年2月27日、張さんは青島の故郷で身柄を拘束され、自白を強いられて懲役7年を宣告された。現在、張さんは吉林省公主嶺刑務所で拘禁されている。以下は、張さんが2010年11月21日に書いた告訴書であり、獄中から転々と伝わって来たものである。
私は張倍齊と言います。吉林省安図県に在住で、現在、吉林省公主嶺刑務所で不当に拘禁されています。吉林省延吉市の国保(国家安全保衞)大隊の肖彬、徐暁峰、張文秀などの警官は、私に対して残虐な拷問を行い、私の大脳と足腰の痛みは耐えられない程の状況に至っており、私は彼らを告訴します。
2010年2月27日午後2時頃、私は故郷の家で数年ぶりに会った母や身内と雑談していた時、突然、肖彬と数人の私服警官が押し入ってきて、私を車内に押し込みました。しかもその時、「動くな! 叫ぶな! さもなければ射殺するぞ!」と脅されました。私は「あなた達は誰ですか? どうして私を逮捕するのですか? 逮捕状はありますか?」と聞くと、中の1人は急いで私の眼鏡を奪いとって、それから小冊子を取り出し、私の前で一瞬ちらりと見せただけで、「私達は公安局の者だ! お前の名前は?」と言いました。私が答えると、彼らは「間違いない。お前を逮捕する」と言いました。私は「私は法を犯していない! なぜ逮捕するのですか?」と聞くと、彼らは「お前は和竜市裁判所での裁判に関わっただろう」と言いました。私は「国民が裁判を傍聴することは合法で、その上、裁判所から許可を得たので、私は法を犯していません」と答えましたが、彼らは「お前が認めさえすればいい。お前が人を組織して法廷を動揺させたため、延吉からお前を捕まえに来た」と言いました。これは完全に濡れ衣でした。
彼らは私をあるビルの内に連行し、私の携帯電話・電子書籍・銀行カード・現金1700元・身分証などを没収しました。彼らは記録を取り、私の両手に手錠をかけて留置場に送ろうとしました。私は脅かされ殴られたため、心臓が痛んでとても我慢できなくなりました。そのため、彼らは留置場の担当者から、私の診断書が必要と言われました。そのため、私は肖彬などに病院に連行されました。その時、私の体の状況が極めて悪かったため、彼らは留置場に入所を拒否されないように、医師に私が手配中の犯人だと嘘をつきました。医者がいい加減に診断書を書いたため、私は再び留置場に送られて、8号監房に拘禁されました。
8号監房の面積は30㎡足らずしかないのに、70人前後が拘禁されていました。私は地面に一晩中押し付けられました。翌日の明け方、私は看守と受刑者によって、外の便所のそばに連れていかれました。外は小雪が降っていて寒かったのですが、看守と受刑者らは私を殴ったり罵ったりして、言葉は卑劣でした。2時間くらい暴行された後、看守たちは出勤時間になったので、2人の受刑者が私を事務室まで支えて連れて行きました。私はそこで情況をありのままに述べましたが、警官は受刑者を処罰しないどころか、かえって私が看守の話を聞かなかったとの理由で、私は7号監房に拘禁されました。
7日後、延吉市国保大隊の徐暁峰・鄭など4人の警官が私を連れて、青島市から飛行機に乗って延吉市に帰りました。彼らは新しく私の供述を記録しました。私は彼らに聞きました。「どうして私を連行したのですか? 私が裁判を傍聴したのは合法です。しかも公開裁判で、裁判所の許可を得ました」彼らは「お前が人を組織して、大勢の人が集まって法廷を動揺させたのだ。その上、お前は法輪功修煉者だから弁護を受けることは許されない。これは上の指示で、私達はただ指示通りに従うだけだ。お前は運が悪かったと思って諦めろ!」と言いました。私は延吉市留置場の15号監房に拘禁され、3月10日には28号監房に移送されました。
拷問の実演:鉄の椅子 |
3月17日午後3時頃、徐暁峰など10数人の警官が私を留置場からホテルに連行しました。彼らは事前に私の頭を服でしっかり被せて部屋に入り、私の両手・両足を虎の椅子と呼ばれる拷問器具にはめて、腰部を太い鋼の棒で固定して鍵をかけました。私の体はまったく動けなくなりました。徐暁峰と鄭はリーダーで、10数人を2人1組に分けて、1組2時間、24時間交代で私に対して拷問を行いました。私は目を閉じることさえ許されませんでした。私が「質問には全て応えました。どうしてまだ大勢の人を動員して私を拷問するのですか?」と聞くと、彼らは「上からの指示で、お前は質問に対して必ず承認していなければならず、私達の言う通りに答えなければならない。さもなければお前は私達の厳しさを知るだろう。お前は立つこともできなくなるぞ」と脅しました。
私は4日間苦しめられ、意識不明になりました。彼らは私の体に冷たい水をかけたり、窓を開けて私を凍えさせたり、両手で私の頭を掴んでぐるぐると回したり、握り拳で私を殴ったりしました。私がすでに気絶したのを見て、彼らは私を刑具の上から下ろしました。私はすぐ転倒しました。彼らは事前に用意した資料を持ってきて、私が人事不省になった時に拇印を強制しました。
彼らは私の傷の程度を知られないように医師を騙しました。そのため病院の医師は適当に診断書を出しました。私は再び留置場に連行されました。留置場の担当者は私の傷の深刻な状態を見て、「病院の証明書がなければ、引き受けることはできない。そうでなければ誰も責任を負えない」と拒否しました。彼らはまた私を病院へ連行し、証明書を貰ってから、私を留置場に送りました。
私は延吉市国保大隊の警官らから残虐な拷問を受けて半身不随になり、立って歩くこともできなくなりました。半月余りの休養を経て、ようやくある程度の感覚を感じられるようになりました。しかし数カ月が経っても後遺症は残っていて、大脳の痛みは我慢できません。時には意識を失い、足腰はよく感覚が麻痺したり痛みの発作が起きたりします……。
しかし、裁判所は延吉国保大隊が捏造した資料を根拠に、私に対して懲役7年を宣告しました。
私は各級の指導者に早く、このことを調査して明らかにするように求めます。私の正義を返してください。私の自由を返してください。私の健康な身体を返してください……。同時に延吉国保大隊の肖彬、徐暁峰、鄭などを法律の下で責任を追及し、賠償を求めます。すぐに私を無条件で釈放して下さい! 私の人身の自由と健康な身体を返して下さい!