【明慧日本2012年3月19日】3月16日は天津浜海刑務所(港北刑務所から改名)の面会日であった。
午前8時30分、周向陽さんの両親は故郷からトラクターを運転して刑務所の入口に到着した。今回で天津浜海刑務所に来るのは2回目である。周さんの両親は訴訟の文言が書かれた服を着ていて、生命の危篤状態に陥っていた息子を釈放するよう要求した。周さんの両親は周りの人々に真相を伝え、多くの人が彼らに関心を持っていた。
午前9時、刑務所の中から多くの警官が出てきた。その中で、長い警棒を持っていた3人の警官が周さんの両親を囲み、彼らをビデオに撮っていた。また、刑務所の向こうから多くの車と私服警官がやってきて、面会に来ていた家族や、沿道に止まっている車両を追い払っていた。
午前10時すぎ、10数人の警官が周さんの両親を引っ張ったり、運んだりして、刑務所の中へ入った。トラクターも刑務所内に運転して入れた。
16日の午後、周さんの両親は昌黎洗脳班に不当に連行された。
周向陽さんは天津第三調査設計院のエンジニアであった。2003年5月に不当に連行され、9年の刑を言い渡された。2004年8月9日、天津市港北刑務所に送られた。周さんは夜に、全身が傷だらけになるほど、警官にスタンガンで電気ショックを加えられたことがあり、また連続して30昼夜、睡眠を奪われたり、何度も独房に入れられ、アンカーブロックという拷問を受けたことがある。アンカーブロックとは鉄板で筒を作り、法輪功修煉者の両脚と臀部まで杭のようにその中にまっすぐに立たせる拷問である。この迫害を受けた法輪功修煉者は両脚を曲げることができず、さらに両手を手錠で地面に固定させられ、腰を曲げるしかなく、脚を少しも動かすことができない。この種の拷問は極めて残酷な拷問である。周さんは一度、警官の張士林により独房に監禁され、アンカーブロックの拷問を4カ月間も受けたことがある。周さんは1年以上にわたって断食による抗議をした。
周さんは2009年4月と5月に2回、新生病院と刑務所内部の病院に送られて救急手当を受けた。周さんは体が極めて衰弱していたため、2009年7月28日に重病のため服役中の一時出所を許可された。
2011年3月5日、周さんは再び不当に連行されて、刑務所に監禁された。彼は断食で迫害に抗議した。2012年1月16日、すでに330日以上断食した周さんは天津市新生病院に送られて緊急手当を受けた。しかし、体がすでに極めて衰弱し、痩せて様変わりした周さんはすでに点滴もできない状態に陥り、大便を失禁し、下痢をし、心拍は40回しかなく、歩くこともできず、いつでも命の危険な状態だった。
周さんの母は何度も刑務所側と交渉し、周さんを家に迎えて養生させようとしたが、刑務所からは何の返事もなかった。2012年1月16日、周さんの両親は1日半をかけて、家のトラクターを運転して、天津市浜海病院に行き、訴訟の文言を書いた服を着て、刑務所の入口に立って、刑務所の回答を待っていた。3日目の夜、周さんの両親は20数人の警官により、藁ぶきで作った小屋の中から引っ張り出され、救急車に乗せられて、昌黎県洗脳班に送られた。その後、当局により無理やり故郷に送り返された。