【明慧日本2012年3月21日】鄭立彬さんは黒竜江省ジャムス市の法輪功修煉者だった。鄭さんは中共当局が法輪功を中傷するために捏造した「死体廃棄案」の黒幕を知っていたひとりだった。中共当局は自らでっち上げた嘘が暴かれることを恐れ、鄭さんに対して残酷な迫害を加え、鄭さんは何回も生命の危篤状態に陥った。2010年6月1日、鄭さんはこの世を去った。享年38歳。
生前の鄭さん
鄭さんはジャムス市正大集団の従業員で、1994年に法輪功の修煉を始めた。鄭さんは法輪功の教える「真・善・忍」に従って自らを律し、名利に対して淡々とし、喜んで人を助け、会社の幹部と同僚、親族、友人らから愛され、尊重されていた。
1999年7.20、中共が法輪功を迫害し始めてから、鄭さんは自分の信念を貫いたという理由で、何度も不当に連行され、監禁された。鄭さんは前後して、ジャムス市労働教養所、北京市安全局留置場、北京市第一留置場、北京市団河派遣処、北京市団河労働教養所、北京市海淀区労働教養所、北京市公安病院、北京市309病院(部隊病院)に監禁された。鄭さんは長期にわたり、警官にスタンガンで電気ショックを加えられ、17日間独房に監禁され、またCCTV(中国中央テレビ)による偽りの報道により濡れ衣を着せられた。鄭さんは極めて残酷な拷問を受け、身心ともに著しく迫害された。
CCTVがでっち上げた嘘を暴露する
2001年7月17日、CCTVの焦点訪談という番組では、法輪功に濡れ衣を着せるために、ある事件をでっち上げた。それは、中共メディアにより大いに放送された「通州死体廃棄案」である。これは中共が2001年初に作り上げた「天安門焼身自殺事件」に続き、民衆が法輪功を恨むように扇動し、かつ法輪功に対する迫害を正当化するために作りあげられた、もう一つの茶番劇であった。CCTVは鄭さんに当該事件の当事者になるように強要したが、鄭さんは電気ショックなど残酷な拷問を受けても、捏造された事件の当事者になることを拒否した。しかし、CCTVが放送したプログラムの中には、鄭さんのシーンがあった。それは本来、鄭さんが自分の受けた迫害を暴露する場面だったが、当局に利用されてしまった。
鄭さんは3年以上も不当に監禁され、拷問により日常生活もままならなくなってから釈放された。鄭さんは、「通州死体廃棄案」の黒幕について、明慧ネットを通じて、世間に訴えた。
留置場から集団脱出
2000年6月2日、約170名の法輪功修煉者はジャムス市の四豊山ダムで修煉心得交流会を開催したが、地元警察に包囲された。鄭さんなど7、8名の法輪功修煉者がジャムス留置場へ不当に連行された。留置場で鄭さんは断食で迫害に抗議した。留置場の所長・李徳権らは、鄭さんに対して強制的に灌食を行い、竹の板で彼の歯をこじ開けようとした。鄭さんは歯でその竹の板を噛み切った。警官らは噛み切られた竹の板を鄭さんの口の中に入れて、あちこちかき回したため、鄭さんの口からは血が流れ出して、灌食ができなくなった。それに怒った警官らは20数日間、鄭さんの手足を手錠と足枷で、ベッドの四隅や床に固定し、鄭さんの四肢が四方へ引っ張られる状態で放置した。また警官らは、鄭さんに内容不明な薬物を注射した。その後、鄭さんはジャムス市西格木労働教養所で1年間監禁された。
拷問の実演:強制的な灌食
2000年11月3日、鄭さんなど11名の法輪功修煉者は西格木労働教養所から脱出することに成功した。中共政治法律委員会の書記・羅幹は激怒して、自ら黒竜江省へ行き、「これらの人を捕まえたら、打ち殺せ」と命令し、同時に全国に指名手配令を出した。
鄭さんの家族も極めて大きな精神的な圧力を受けた。鄭さんの妹は当時、瀋陽市で働いていたが、ジャムス市向陽支局の国家保護大隊の隊長・崔栄利が瀋陽市に駆けつけ、鄭さんの妹を脅迫して鄭さんの行方を聞き出そうとした上、彼女の電話を盗聴した。ジャムス市公安局はまた、山東省東阿県に住んでいた鄭さんの親族の自宅へ行き、嫌がらせを行った。
残酷な拷問に遭っても、信念は変わらない
不当な連行から免れるために、鄭さんはやむなく放浪生活を余儀なくされた。2001年2月22日、鄭さんは北京市石景山永楽区で北京市国家安全局に再び不当に連行された。同時に連行されたのは法輪功修煉者の周根正さん夫婦、および2人の法輪功修煉者である。
警官は3日間連続で鄭さんを尋問し、睡眠を与えなかった。正当な理由なく不当に連行され、尋問される中、鄭さんは質問に答えることを拒否し、断食で迫害に抗議した。2月25日、警官らは鄭さんを目隠ししてから、北京から遠く離れたある別荘に連れて行った。数名の国家安全局の警官が鄭さんを椅子に縛り、強制的に灌食を行った。当時、北京市労働教養局新安労働教養所の副所長・李静、隊長・程翠娥、焦学先らは、鄭さんを転向させるため、長時間にわたって何回も、高圧のスタンガンで鄭さんに電気ショックを加え、スタンガンの電池がなくなるまで、迫害を続けた。迫害により、鄭さんの心臓はよくけいれんし、痛み出すようになった。
拷問の実演:スタンガンによる電気ショック
その後、当局は鄭さんを屈させるため、暗室に鄭さんを17日間監禁した。しかし、鄭さんは妥協しなかった。最後に安全局は求める結果を得ることができず、2001年3月9日に鄭さんをジャムス市へ送り、鄭さんはジャムス市西格木労働教養所に監禁された。鄭さんは1カ月間独房に入れられた。小屋はとても寒くて湿気が多く、ベッドも布団もなかった。鄭さんは床で寝るしかなく、下半身に潰瘍ができてしまった。
鄭さんと同時に連行された周根正さんなどの法輪功修煉者は、北京市安全局で極めて強度、かつ不意打ちの洗脳を受け続け、鄭さんが彼らに陳情に行く途中で誰かが死んだということを話したことがあると自白させられた。それを聞いた北京市安全局は、いわゆる「死体廃棄案」を作り上げるため、鄭さんを大いに利用できると考えた。2001年4月17日、北京市安全局はジャムス労働教養所に監禁さていた鄭さんを緊急に、北京へ移動させ、北京市安全局留置場に拘禁し、電気ショックを加えたり、殴打したりした。警官らは鄭さんに妥協を求め、中共メディアのでっち上げの宣伝に協力するように強要した。 2001年5月の中旬、予審処から来た人が鄭さんをビデオで撮影しようとしたが、鄭さんに拒否された。5月16、17日頃、留置場の課長・劉と当番警官は朝食後、鄭さんを談話室へ呼び出し、彼を床に押し倒してから足で踏みつけ、スタンガンで狂ったように電気ショックを加え、鄭さんに転向するよう強要した。虐待は昼まで続いた。その後、劉は紙とペン、辞書を持って来て、鄭さんに午後に転向を認める書類を書き終えるよう要求した。
拷問の実演:スタンガンによる電気ショック
午後1時過ぎ、劉は鄭さんに「あなたを転向させようとしているのは私の意思ではない、上層部の意思だ。私はこの若さで課長まで上ってきたが、これは容易いことではない、何とか成績を出さないといけない」と言った。しかし、鄭さんは頑として転向を認める書類を書かなかった。すると数人の警官は鄭さんを足で蹴ったり、スタンガンで電気ショックを加えたりした。劉は2本のスタンガンを鄭さんの脇の下に挿し込み、突然電気を入れた。鄭さんは当時、心臓の鼓動が不規則に乱れ、すぐに嘔吐した。
拷問の実演:スタンガンによる電気ショック
周根正さんなど、3名の法輪功修煉者はいわゆる「死体廃棄案」の当事者となるよう、当局から巨大な圧力をかけられて洗脳され、電気ショックなどの拷問を受けた。長期にわたり虐待され、彼らは意識がぼんやりとし、巨大な恐怖にさらされる中、でっち上げの番組製作に協力すれば釈放されるという虚言を聞き入れてしまった。極限まで迫害された法輪功修煉者達は中共に利用され、いわゆる通州死体廃棄案に関する焦点訪談番組の製作に参加し、世の人々を騙す道具になってしまった。後になって、周根正さんは身体が少しずつ回復し、良知も蘇り始めた。冷静になった周さんは、直ちに当局に対し、騙されて偽の証拠を提供させられたことに抗議し、制作したすべての番組を破棄するように要求したが、誰からも相手にされなかった。間もなく、周さんは懲役13年の重刑を言い渡され、遠く辺鄙なところへ送られた。結局、彼ら騙された修煉者たちは、釈放されることなく相次いで重刑を言い渡され、他の収容所に送られた。鄭さんだけは中共による偽りの事件を認めなかった。警官らは鄭さんを提訴する理由がなく、彼を北京市団河労働教養所に送り、2年間拘禁した。
団河労働教養所に送られる前、鄭さんは北京市第一留置場と北京市団河派遣処に送られた。鄭さんは施設内の閉鎖された環境の中、巨大な精神的な圧力を耐えていた。
2001年11月7日、鄭さんは団河労働教養所に送られて引き続き迫害された。団河労働教養所は法輪功修煉者を最も残酷に迫害する施設の一つであった。所長・李愛民、および第7大隊の警官らに殴打された鄭さんは、迫害に抗議し、また奴隷的苦役(強制労働)に参加することを拒否し、労働教養所の規定に従うこと、および警官の指示に従うことを拒否した。また彼は、機会があれば、監房の受刑者に真相を伝えていた。
団河労働教養所では、法輪功修煉者が転向を拒否した場合、刑期を満了しても釈放せず、拘禁期間を延期していた。鄭さんも、2年間の拘禁期間が終わった時、警官らは偽りの資料を作成して、鄭さんの監禁期間を延期しようと企んだ。当時、鄭さんは訴状の形で、労働教養所による罪悪を暴いていた。それを恐れいた、新しく就任した副所長・李静は、鄭さんをジャムス市へ送り返した。
2003年4月17日、ジャムス向陽派出所の所長・張宏光ともう一人の警官は鄭さんをジャムス労働教養所へ連れて帰った。ジャムス労働教養所の管理課の課長・許恒基は鄭さんを引き続き迫害した。鄭さんは独房で死人ベッドと呼ばれる拷問器具に縛られた。両手を3カ月以上もベッドの両側に固定されたため、鄭さんの脊柱は変形してしまった。鄭さんは断食で迫害に抗議し、何回も労働教養所に駐在していた検察官・王洪明さんを探して、労働教養所と公安機関を訴えることを求めた。鄭さんは、釈放されてから訴えるようにと言われ、これは上層部の幹部らの決定だと説明された。鄭さんはジャムス労働教養所で3カ月と20数日間監禁されてから、やっと釈放された。現地の派出所は鄭さんが、法輪功の修煉をやめてないという理由で、鄭さんの家族に嫌がらせを行い、家族を担保書にサインさせた。それは2003年8月7日のことだった。
度重なる魔難にも恐れない
2004年11月、鄭さんは仕事を探すために北京へ行き、海淀区に住んでいた法輪功修煉者・李旭鵬さんの自宅に泊まっていた。11月27日の深夜1時過ぎ、鄭さんと李旭鵬さん、馬万里さんは熟睡中、馬蓮ワ派出所の数十名の警官らに不当に連行された。彼らは3人の修煉者の頭に布を被せ、パトカーの中に押し込んだ。部屋の中にあったプリンターとCD、真相資料などは没収された。
鄭さんと李さん、馬さんは馬蓮ワ派出所と海淀区留置場で、程度の異なる迫害を受けた。李さんは2回意識を失い、病院に送られて救急手当てを受けた。鄭さんは警官に殴打されて鼓膜に穴が開き、聴力がほとんどなくなった。鄭さんはすべての質問に答えることを拒否し、断食で不当な連行と迫害に抗議した。海淀区留置場で鄭さんは何回も強制的な灌食を行われた。留置場の警官、受刑者、医者らは鄭さんへの強制的な灌食に加担した。強制的に灌食される中、鄭さんの口腔、鼻腔、耳からは大量に出血し、鄭さんの身体は極めて衰弱した。翌日、海淀区留置場の警官らは、鄭さんを北京市公安病院に送った。病院の警官らは足枷と手錠で鄭さんの手足をベッドに固定し、毎日内容不明の薬物を10数瓶、鄭さんに点滴した。点滴は朝9時から深夜まで続いた。約10数日間続いた後、薬の量は6、7瓶にくらいまでに減った。公安病院の医者は、無理やり鄭さんの血を取って検査に使い、手術をするように要求した。また鄭さんに対し、手術をするための手術書類にサインするように要求した。鄭さんはそれに同意しなかった。(帰宅した後、鄭さんは一部マスコミにより報道された、中共当局が生きた法輪功修煉者から臓器を摘出していたという報道を読み、彼の臓器も摘出されそうだったが、後になって何らかの原因で停止されたと感じたという)公安病院に拘禁されていた間、鄭さんの手足はずっとベッドに固定されていた。12月27日、海淀区国家保護処は鄭さんを北京309病院に送った。309病院でも警官は鄭さんに点滴をしようとしたが、鄭さんは拒否した。 12月31日、海淀区国家保護処の警官らは鄭さんがすでに危険な状態に陥っているのを見て、何かの薬物を鄭さんに注射した後、部隊の救急車で鉄道の駅まで送り、汽車内に運び込んだ。地元警察が鄭さんを黒竜江省ジャムス市へ連行した。
ジャムス市に着いたのは2005年1月1日だった。ジャムス国家保護大隊の陳万友は鄭さんが生命の危機に陥っているにも関わらず、鄭さんをジャムス市留置場へ送って監禁しようとした。陳は留置場の警官に、鄭さんに何か起きたら自分が責任を取ると言った。しかし、留置場が鄭さんを受け入れなかったため、1月2日に鄭さんは釈放され、帰宅することができた。
壮年の早逝
2005年の夏、鄭さんは2人の法輪功修煉者と共に、ジャムス市郊外に行き、法輪功の真相を伝える資料を配布していたところ、身柄を拘束されて橋南派出所に不当に連行された。警官らは彼らを独房に入れて尋問した。警官らは鄭さんの全身が青紫色になるまで繰り返し殴った。また、鄭さんの乗っていたバイクも没収された。鄭さんは当日、橋南派出所から脱出することに成功した。 鄭さんは長期にわたり、当局から身心ともに残酷な迫害を受け続けた。特に北京市公安病院に拘禁されていた間、毎日内容不明の薬物を10数瓶も注射されたため、身体が極めて大きな傷害を負った。彼の家族によると、鄭さんは刑務所から帰ってから、ずっと痛みに苦しんでいたという。特にこの世を去る前の半年間、鄭さんの下腹部はとても大きく腫れ、歩くことも困難になり、とても苦しんでいたと言う。
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/2/12/123215p.html) 更新日:2012年3月31日