文/中国の大法弟子
【明慧日本2012年4月17日】
全てを放下して法に同化する
ある時私は「修煉とは何か」を考えていました。「真の向上は放棄することであって、得ることではありません。」と『二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法』にありました。修煉とは修煉者が絶えず法に同化することだと悟りました。自身にあった各種の執着心、欲望、欲求を取り除き、最終的に自我を完全に放下することです。大法を信じ大法を選択し、法の内包を用いて法に同化し、常人の心と自我に取って代わります。常人のあらゆる観念、思惟と古い要素が全て法に代替される時、法によって作り上げられた全く新しい偉大な神様となります。
『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』で師父はおっしゃいました。「人間はこの世で生活の過程で感じたことを享受しているだけです。私のこの言い方は比較的正確です。どういう意味でしょうか? 人間は自分で自らを司っており、自分のやりたいことを決めていると思っていますが、実はこれは後天的に養われた好みの中の習慣と執着であり、感じ方を追求しており、それだけです。本当に何かを行なうときに背後で作用を働く要素は人間の習慣、執着、観念、欲望などを利用して作用を働いています」学法を通じて、利益への執着心及び虚栄心は、実に感受を求めていることだと分かりました。しかしそれらの感受は後天的に養われた観念で、良いと思わせられたり楽だと思わせられたりする感受です。それらの本質は実に卑劣、不潔な物です。
良くない霊性はその習性的な感受を利用してあなたを操ります。例えば、修煉者が美女の写真を見た時は人間の性欲が強烈的に「いいな」という感受を放ちます。その時修煉者がちょっとでも興味を示したら、或いはもうちょっと「見たいな」という一念が脳裏をよぎったら、それはもう深く罠にはまり、性欲が益々強くなります。修煉者が更なる過激な写真を見た時は「もっと見たいな」と欲望が強まります。もしそこで目を覚めることがなければ、どんどん罠にはまっていくことでしょう。修煉者の日常生活において身近で起きている小さな事でも、感情を放任してしまったら、性欲心を助長することになりますので極めて危険なことです。
「恒心をもって足を挙ぐ万斤の腿 苦を忍び精進して執着を去る」(『洪吟』「登泰山」)というお言葉がありました。執着心を除去するには法理を理解する以外に修煉者の非常に強い意志が要求されます。特に関を乗り越える時と分岐点の前で進路を選択する時は、執着を放下して法に同化するか、それとも現実の利益を選ぶかの二つの結果は人と神の分かれ道です。「意堅からざれば 関は山に似て 如何にして凡を出づ」(『洪吟二』「断つ」)
法理を理解すると共に試練もやってきました。それはスマートフォン(携帯電話)を購入する時でした。私は利益心に動かされていくつかの波乱を経験しました。携帯への執着が強く、より良い物を見つけようと買う前に時間をかけてじっくり携帯を見比べ、それぞれの携帯電話の候補の欠点と不足ばかりを厳しくチェックしていました。元々ネットショッピングで買おうとしていたのですが、優柔不断の性で最終的に直接携帯ショップに行くことにしました。正念が足りなかった為、物事の良さを見落としてしまい、心配していた事が現実となりました。自分の執着が原因で良くない結果を求めてしまいました。携帯ショップで購入したスマートフォンは値段がネットショッピングより遥かに高く、ファームウェアのバージョンも違っていました。部品もすり替えられ、その上、バージョンアップができずファームウェアの書き換えもできませんでした。より良い結果を求めていた執着が、正反対の現実を招いてしまいました。目の前の利益を放下できるかどうかは、常人の心を強烈に刺激しました。また、この事が起きた後に悔しさと恨みを感じないでいられるかどうかも直面した関でした。正念が足りなかった為、新品交換するという現実的な選択をしてしまいました。
翌日、スマートフォンを新品に取り替えて来ました。夜になってファームウェアを書き換えた後、今回起きたハプニングはこれで一段落したと思いきや、更なる悲劇に見舞われてしまいました。画面スクリーンにデッドピクセル(ドット欠け)が見つかりました。買う前に入念に確認したはずなのに…。スマートフォンのスクリーンを最も重要視していた私にとって最も我慢ならない欠陥となりました。このドラマチックの結果はさらに私の心を刺激しました。この結果は決して偶然ではないと法理の上で分かりました。これは絶対に乗り越えなければならない関だと、もう躊躇うことがありませんでした。毎回分岐点に立ってどちらへ進めばいいかと迷う時、答えは実に明白でした。ただ踏み出す勇気があるかないかの違いだけです。そのデッドピクセルはまるで私を教化しているかのようです。修煉にまだ抜け落ちが残っているから、致命的な「デッドピクセル」が現れている訳です。
今回のハプニングにおいて「忍」を選択すると決意しました。身近に起きた全ては自分の執着が招いてきた結果だと分かりました。もう既に現実になってしまったので、損得を気にせず常人の執着を放下するのが最も重要だと気づきました。「わたしは形式を重んじることなく、各種の形式を利用して皆さんの深く隠された心を曝け出し、それを捨てさせます」(『精進要旨』「根を掘る」)を読んで内に向けて探してみました。スマートフォンへの執着、利益心、欲求、恨み、我慢力の欠如、利己心、損得への執着、安逸心など等が見つかりました。
内に向けて探せば常人の執着が見つかるという法理が分かるようになりました。これから行うべき事は、法を用いて少しずつ常人の心と取り替えていくことです。この法に同化するプロセスを自分の中でより明確にはっきりさせてみました。悔しさや、恨みなどの執着心が再び現れたら、私はすぐに法を暗唱し、強い意志を持ってそれらの執着心を法と代替しました。「忍とは心性を高める鍵です。怒り恨むこと、不平、涙をたたえて忍ぶことは常人が世間体に執着する忍です。まったく怒り恨むことがなく、不平に思わないことこそ修煉者の忍なのです。」(『精進要旨』「忍とは何か」)同時に、脳裏によぎった念は本当の私の意志によるものではないと思いながら、法を用いてどんどん悪い考えと代替していきました。暫くしたら常人の執着心が消えてしまい、本当に法に同化したと感じました。私は大法の威力を実感しました。宇宙の大法が人を精練するのは非常に簡単なことだと師父はおっしゃいました。「「一窯の熔鋼に一つの木屑が落ちたら、瞬間に見えなくなります」 人間はその木屑、宇宙大法は熔鉄のようなものです。人を精練するのは非常に易しいことです。」(『ニュージーランドでの説法』)
この過程で、高い法理を悟るだけではなく実際に常人の執着を放下する事を行動に移すことが大事だと分かりました。「私が思うには、大法弟子の前にあるのは着実に修煉するという道のみであり、ほかの道はありません」(『大法弟子とは何か』)実現する過程中において必要とされる正念と意志は、法を学び法に同化することを通じて得られるものだと思います。
学法を通じてまた、常人にもう一つ根本的な執着心があると分かりました。それは感受ばかりを追求し、まるで利己心の塊である求める心です。欲求と利己心がなければ、そのような生命は低い次元のものに動かされることはないと思います。常人の欲求と利己心を取り除けば旧勢力による束縛から脱出できると思います。本当の無私無我まで正しく修めることができます。
師父の最近の経文を学ぶことで、正法が終焉を迎えようとしていると分かりました。大法弟子と世間に残された時間はわずかとなりましたので、全ての常人の心と執着を放下しなければならず、より多くの衆生を救わなければならないと堅く決意しました。それを実現することで慈悲なる師父と広大な宇宙に顔向けができます。最後の最後というタイミングで大法に入って来られた機縁に申し訳を立てることができます。そうしてこそ、大法弟子の聖なる責任と使命に申し訳が立つと言えるでしょう。
次元のレベルが限られているので、不適切なところがありましたらご指摘をお願いいたします。合十!
(完)
(明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2011/12/26/130337.html) 更新日:2012年4月17日