【明慧日本2012年6月3日】天津市に在住の法輪功修煉者・張玉蘭さんは2002年、法輪功を学んでいるとして、中共(中国共産党)当局の裁判所に懲役8年の実刑判決を言い渡され、天津女子刑務所に収容された。刑務所で、張さんは様々な拷問を受け、内容不明の薬物を投与されたため、両足が動かなくなり、両目の視神経は萎縮し、失明した。
以下は、張さんが自ら受けた迫害事実を述べたものである。
迫害される前の張さんの写真
私は天津市南開区第63中学校の歴史教師で、1998年から法輪功を修煉し始めました。以前、私は心臓病などを患い、毎日薬を飲んでいました。法輪功を修煉して1カ月、法輪功関連書籍3冊を読み終えましたが、本を読んでいる間、薬を飲むことを忘れていたにもかかわらず、体は意外にも元気でした。そして、法輪功の功法を学んで3日目、座禅を行ったとき、法輪が私の体を囲んでいる奇妙な光景が見えました。私の天目は開かれました。3カ月後、ある日の昼、私は昼寝をして、眠っているような眠っていないようなとき、他の空間の壮観な景色が見えました。私はそれらの奇妙な体験により、法輪功を修煉して行く自信がつきました。
その後、私は出会う人に法輪功の素晴らしさを伝えました。学校で黒板に「真・善・忍」と書き、法輪功の法理を歴史の授業に入れ、学生に教えました。学校で私は優秀教師になり、学生や同僚、学校のリーダーも私の授業をわざわざ聞きに来ました。その後、私が迫害されたとき、学生や学生の親たち、同僚、学校のリーダーも一緒に、私の釈放を当局に求め、「張先生は一番良い先生です」と心から言ってくれたそうです。
私は以前、歌もダンスもピアノもバスケットも好きでやっていましたが、中共当局の迫害により、健康だった私は障害者になりました。
2002年3月11日、私は天津市南開区の向陽路派出所の警官に連行され、家と学校のオフィスを捜査されました。
派出所で私は手錠をかけられ、鉄の椅子に座らされました。上半身を鉄板できつく挟まれ、呼吸すら難しく、下半身は丸い空洞のある分厚い鉄板に固定されました。私はそのまま14時間も放置されました。
拷問器具:鉄の椅子
その1週間後、警官は私を南開区留置場の拷問具を置く部屋に連れて行きました。部屋の中には鉄の椅子があり、私はその椅子に座らされました。そして、警官は4つの枷で私を固定しました。所長は私に「お前、わが国の機械を体験してみろ。この数年、この欄から立って出た者はいないぞ。お前も立って出ることは無理だろう」と脅迫しました。私は鉄の欄の中に4日間入れられ、警官2人に監視され、目を閉じることも許されず、目を閉じると棒で頭を殴られました。
数日後の朝8時、警官4人は私に枷を取り付け、向陽派出所に移送しました。私は派出所で鉄の椅子と似たような刑具に入れられ、全身を固定されました。そのとき突然、家族のみんなが入ってきました。みんなが私の姿を見て、泣き出しました。2番目の姉はただ涙し、涙で声も出ませんでした。妹と弟は「私たちの全財産を支払ってもいいから、絶対、姉さんをここから出します。姉さん、法輪功修煉者の1人でもいいから、名前を言えば、すぐに釈放されますよ」と言いました。私は「もうお金を払うのをやめてください。意味はありません」と家族に言いました。翌日、家族たちはまた来て、私を説得するため、息子を刑具のそばに半日跪かせました。翌々日、私の勤め先の校長など4人が来て、私を説得しようとしました。
私は6日間鉄の椅子に座らされました。枷を外された後、下の脚が太ももより太く腫れ、足も腫れて、体が一回り痩せてしまいました。
その後、私は懲役8年の実刑判決を下され、天津女子刑務所に移送されました。刑務所に入ってすぐ、私は壁に向かって朝6時から夜9時まで15日間連続で立たされました。食事の時でさえ、座ることは許されませんでした。
拷問の実演:長時間小さな椅子に座らせる
15日間後、私は小さな椅子に座らされました。ただ座るのではなく、両足の間に定規を挟まれ、落とさないように強要されるのです。指を動かさずに両手をひざに置き、上半身は真っ直ぐ伸ばさなければなりませんでした。2人の監視役によって監視され、もし、少しでも要求された姿勢と違ったら、罵られたり、殴られたりしました。朝6時から夜9時まで強要され、時々2時間も延長されることがありました。日が経つにつれ、臀部の肉がただれ、血と膿が出ました。ある日、私は臀部が痛くて我慢できず、少し前に動きましたが、監視役に握りしめた拳で私の背中の真ん中を何度も殴打されました。私は地面に倒れ、心臓が体から出て行くような感じで、とても苦しくて、午後3時になってやっと回復しました。
ある日、警官は私を「転向」させようとし、法輪功と法輪功の師父を誹謗中傷し始めました。そのとき、私は発正念のことを知らず、法輪功と師父を誹謗中傷する言葉を聞きたくなくて、部屋から出ました。私は監視役の2人に追いかけられ、殴られたうえに頭を壁にぶつけられ、頭を負傷しました。未だに頭の傷は治っていません。
長期間、小さな椅子を座らされたため、臀部の肉がただれ、両足も痛くなりました。ある日、足が痛くて、足を伸ばしたら、監視役は「お前、転向してないのに、足を伸ばしたいのか、お前は死ね」と言いながら、私の首を絞めました。私は抵抗しながら、悲惨な泣き声を出しました。多くの人が泣き声を聞いて見に来たため、その人はやっと手を離しました。ある日、警官に「腕を出しなさい」と言われ、腕を出したら、針で刺され、血がすぐに腕から流れました。あまりに大量の出血だったので、受刑者たちも驚きました。警官がどんな針を使って私の腕を刺したのか、未だに分かりません。
2年間も小さな椅子に座らされ続けたため、私の臀部には2つの黒い穴が空き、これを見た人はみな驚きます。
刑務所でのご飯は毎日朝晩の2回で、マントウ(訳者注:中国式蒸しパン。具の入っていない肉まんのようなもの)と漬物だけでした。しかし、私には漬物がなく、マントウだけでした。その後、小さいマントウだけになり、全然足りませんでした。数回要求してやっと、マントウの量が増えましたが、食事の時間は3分間だけと決められ、3分経ったら、食べ物を取られてしまい、ゴミ箱に捨てられました。
私は絶対に生きて刑務所を出ると決め、仕方がなく、ご飯のとき、マントウを素早く手で細かくし、水につけて一気に飲み込むことにしました。刑務所で私は飢えているとき、ゴミ箱の果物の皮を食べたり、お風呂の水を飲んだりしたこともありました。
私は刑務所で長期にわたって迫害されて痩せこけたため、警官に「お前病気だろう」と言われました。「私は法輪功を修煉して7年、病気になったことはなく、注射と薬を飲んだことはありません」と警官に言い返しました。しかしその後、私は警官に注射と薬を飲むことを強要されました。
拷問の実演:不明薬物を注射される
私はいつも、強制的に内容不明の薬物を注射され、薬を飲まされた後、全身に力が入らず、吐いたり、下痢したりして全身が震えました。その後、徐々に目が見えづらくなり、夜も眠れなくなりました。
ある日、数人の警官が鉗子で私の歯をこじ開け、薬を飲ませようとしたとき、私は歯で鉗子を咬み、薬を入れられないように抵抗しました。その数日後、5人ほどの白衣を着た人が私に注射しに来て、私は「この刑務所で私は、小さな椅子に座らされて臀部の肉がただれ、食事も満足にとれなかったのです。今日、まだ私に不明薬物を注射するつもりなのか、私をどこまで苦しめたいのですか」と大声で言いました。それで彼らは何も言わずに帰りました。
しばらくして、私の両手は日に日に酷く震えるようになり、両足も力が入らなくなりました。ある日、私は水を飲もうとしたとき、監視役が私の湯飲みに何かを入れている姿を見ました。私は「何を入れたのですか」と声を出すと、監視役はやめました。そして、私は警官・李の所へ行き、李に「なぜ、私をこれほどひどく迫害するのですか」と言うと、李は「上からの命令だ」と答えました。私が「これから、私の食べ物や飲み物に薬を入れないようにしてください」と言うと、李に「私たちには他にもいろいろな方法があるわよ」と言われました。
その後、私は警戒し、ご飯を食べるお碗と湯のみに注意していましたが、体は日に日に悪くなり、脚は棒のように動けず、目も見えず、眠れず、食欲もなくなりました。その後、聞いた話によると、警官は私のマントウに薬を入れたそうです。やがて、私は自立した生活ができなくなりました。
一番上の姉が面会に来た時、姉は私の姿を見て大泣きしました。その後、私の事を話すと、家族全員は今にも泣きだしそうになります。私は自分が受けた迫害を家族に教えました。というのは、もし私が迫害によって死んだら、家族にその原因を分かって欲しかったからです。弟は警官に「なぜ、姉をここまで迫害したのですか」と詰問しました。その後、警官は私を拷問しなくなりました。警官は家族に数千元を持って来させ、私を病院へ連れて行きました。検査の結果、目の視神経が萎縮していて、すでに治療もできませんでした。
私の幸せな家庭も崩壊させられました。私が刑務所にいる間、夫の商売は失敗して夫は家を売ってしまい、私に26万元の借金を残して私と離婚しました。34歳になった息子は、お金もなく結婚相手もいません。現在、私は息子と2人で生活しています。