学法して、心を修め、発正念をした修煉体験(一)
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文/カナダ・バンクーバーの大法弟子

明慧日本201268日】尊敬する師父、こんにちは! 同修のみなさん、こんにちは!

 一部の整理できたの修煉体験を、ここで師父と同修に報告します。足りない部分についてはみなさんのご叱正をお願いします。

 学法

 私は『転法輪』や経文を読むときに、よく、さーっと、一瞬何かを悟ったり、身体が突然熱くなったりします。しかし、自分が一体何が分かったのか、はっきり言えません。学法する時はいつも、全身のすべての細胞が興奮し、場合によっては学法しながら、暖かいエネルギーが胸のなかに流れていると感じ、学法が終わると胸が熱くなります。いつも一部の文字、単語、或いはある言葉が、なぜか以前見たことないものだったり、一部の文字や単語が特別に目立ったりします。この前、経文の『真相を伝える根本的な目的』を読んだ後、私は無神論と党文化による影響を、大きな力をいれて取り除きました。

 最近学法する時、法が心に入るときは、人間の思惟から抜け出したような感覚を覚え、『転法輪』の中のすべての文字、ひいては符号まで立体的な生きもののように感じられ、その情景を私はどうイメージすればよいか分かりません。一度、『転法輪』を学ぶとき、法の中から限りない無辺の宇宙が見えました。

  時には学法する時、法は取り除くべき執着を悟らせてくれ、一瞬でその執着を爆発させることができます。ある晩、私は新聞を作っていました。私は編集した原稿をメールで送ったのち、少し時間があっため、学法しようと思いました。学法できる時間が短かかったので、私は師父の新しい経文『真相を伝える根本的な目的』を学びました。2回目に学ぶ時、法は一瞬にして、私にあることを悟らせてくださいました。それはとても深く隠れている私の「人に認めてもらいたい」という執着でした。この執着はとても深く隠れており、はそれを自分の個性であると思っていました。それまで私は生活の中で、ひいては法を実証する時でさえ、多くの場合この執着の働きの下で行っていました。「人に認めてもらいたい」という執着をみつけた、この執着はパーンと一瞬で私の体から爆発して離れていきました。同時に私は他の空間の私の体が急速に膨らんでいくのを感じ、宇宙の中から一気にとても遠いところまで脱出できました。

 学法する時、一旦心を静めることができたら、法理が見え、大法が自分を変えていることを感じることができます。問題にぶつかったとき、師父と法を思い出し、少しずつ内に向けて探すことや、心性を向上させることの玄妙さが分かり、「修は己にありて、功は師にあり」(『転法輪』)を切実に体得できました。

 学法は修煉者の根幹であり、いかなる条件も目的もあってはなりません。師父の法は真に私たち自身に伝えてくださるものであり、私たちの放下できない執着と観念や私(し)の為の自我に伝えられたのではありません。絶えず執着と観念、自我を放下し、本当の自分が学法してこそ、法理は私たちに啓示され、本当に法を学ぶことができます。学法する時、法理が見えないは、必ず私たち自身が何かに阻まれており、放下できない執着を、大法の中に求めようと思っているのです。私たちの修煉と学法は私たち自身のためだけではありません。一層の法理が私たちに啓示されたとき、対応する天体の大穹の中のその層の衆生も大法に救われ済度されるのです。

 また場合によって、学法する時、法理が現れ、私がいかにして法を実証する仕事を行えばよいかを教えてくれます。例えば、神韻のチケット販売の際、学法する時、法理が現れますが、それはチケット販売関連の法理です。神韻の報道をする時、学法する時に現れるのは神韻報道に関する法理です。普段学法する時は、私の執着を悟らせ、それにより私は分からなかったことが分かるようになるのです。

 内に向けて探し、時々刻々に心性を修める

 私は天目が開いていませんが、一旦内に向けて探すと、奇妙なことが起こります。私が執着を見つけたその瞬間に、法は空間にあるその執着心の存在形式を私に見せてくれます。私が発正念をしてこれらの執着心を取り除くとき、執着心が取り除かれる状態が見えるのです。

 例えば、安逸を求める心は、ある空間では一山の虫です。黒い虫や白い虫がいます。それを見て私はどうして中国の文化に、「怠ける虫」という言葉があるか分かりました。それはほかでもなく一山の虫です。怖がる心は、ある空間では一群れのネズミです。それらの生存する空間は比類なく暗いのです。怖がる心を修めることができなければ、それはまさに比類なく暗いで無為に過ごすことに等しいのです。色欲の心は糞便のように汚く、色欲の心を持っていることは糞便の中で生活することと変わりないのです。私(し)のため、我のための心は、一般的な執着より大きく、この黒い執着は宇宙全体の至るところに存在して、すべての執着の根源となります。私(し)の物質は更に頑固で、私がそれを取り除き始めた時、ただ一角しか打ち落とせませんでした。残りの黒い部分はアスファルトのように、依然として宇宙の至るところに存在していました。これらは私の次元でみた光景です。

 一度、神韻のチケット販売に行った時、私が人を探して説明していると、同じ組のもう2人の同修はとても交流が好きで、後ろでおしゃべりしていました。私は不機嫌になりました。私は、自分がここでこれほど努力しているのに、あなたたちはどうしてそれほど無駄話が多いのか? 私は不機嫌になり、すぐ自分に問題があると気づきました。私は内に向けて探し始めました。どうして私不機嫌になったのでしょうか。その不機嫌なのは誰なのか、私は自分の心の深いところに向けて探しました。少しずつ私は自分の身体の中に、黒いもう1人がいるのが見えてきました。私が法を実証する仕事をすると、それも中に混じっていました。それは私(し)のためのもので、ではありません。それは同修たちおしゃべりが自分に影響したと怒っていました。偽物のわたしを見つけ出して、私はそれを抑制しはじめ、発正念をしてそれを取り除きました。そしてが再び人を探して神韻を説明する時、同修はおしゃべりせず、明らかに発正念をしていました。わたしはとても恥ずかしく思いました。このの体の中に隠れている偽物のがどのくらいに取りついていたか、わかりません。もし、同修がここでおしゃべりすることでそれを刺激しなければ、それはまたどのくらい長く私にとりついて、私を制御したかしれません。それは法を実証することでしょうか。わたしは1週間の時間をかけて、それを徹底的に取り除くことができました。

 ある日会社に出社しましたが、あまり忙しくなく、メールを確認したところ、同修たちがネット上であることについて交流していて、ある同修とても長い交流文章を送ってきました。その内容を最初から最後まで読んでも、何の意味かわかりませんでした。私は心の中でひとしきりいらいらして、これは何を言っているのか、私はこれほど長い時間をかけて読んでも意味が分からない、と思いました。続いて私は、どうしていらいらしたか、同修が間違ったのか、それともが間違ったのかと考え、内に向けて探しました。ちょうどその数日間、学法のなかで、私(し)のため、我のための思想も取り除くべきだと学んでいました。そして私は、今回はこれと関係があるのではないか、と考えるようになりました。突然善の念をもって問題をみるという法理が分かり、それから心は楽になり、重荷をひとつ下ろしたような感じがしました。私は自分の心の容量と体が空間で急速に膨張していくと感じ、宇宙の中から一気にとても遠いところに脱出できました。

 は習慣になっていますが、何かにぶつかって、心が動じたら、自分を探し、再び外に向けて探さず、何にぶつかっても自分を返り見て、自分がどこで間違っているかを探し、発生したことが表面上正しいか、間違っているかを見ません。法を以て自分を量り、自分に何か隠れている執着はないか、自分が私(し)のための自我に制御されて、ものを考え、問題を見ていないかを考えています。

 私は「内に向けて探す」ことの玄妙さを体験できました。少しずつ、内を修めれば外が平安になり、人間社会でのすべては幻像であり、念が動けば、外界が変わります。無私の修煉者は、ただ大法をもって自分を量り、みながこうすれば、環境は変わるのです。

 (続く)

 2012年ニューヨーク法輪大法修煉心得交流会の原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/5/23/257837.html)     更新日:2012年6月9日
 
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