学法して、心を修め、発正念をした修煉体験(二)
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文/カナダ・バンクーバーの大法弟子 

 発正念

 ある日、私は力を入れて、発正念をし自分をきれいにし、混在していた執着を切り開きました。それは恐れる心、安逸を求める心、色欲の心でした。なぜか、それらは一層の皮に包まれていました。皮を切り開いてから、私は発正念をして、一つずつ取り除きました。一層取り除いたら、前に小さな黒い点が見え、また正念を発して前へ進み、それを突きやぶると、その空間にもまたこのような汚いものが満ちていました。色欲の心は最も汚いのですが、とても表面的なもので、幾層かの空間をきれいにしたら、一番早く根絶できました。怖がる心と安逸の心はさらに繊細なもので、更に多くの空間に満ちていました。色欲の心は最も汚く、比類なく暗く、一群れのネズミが中で無為に過ごしており、安逸を求める心で占められた空間は黒と白の虫で満ちていました。なるほど、これらの虫のせいで、私はそれほど不精で、世の中の生活を享受しようとしていたのですね。

 色欲の心により占められた空間は糞便とウジムシで満ちており、比類なく不潔でした。私は一層また一層の空間を取り除いていき、ほとんど1日を費やして、やっとその皮の中にあるこれらの執着をほとんど根絶することができました。私はとても恥ずかしく思いました。これほど多くの空間、これほど多くの汚いものが隠れていたため、私はずっとそれらに導かれ、それらに邪魔されながら、自分がとてもすばらしいと思っていました。切実に自分をしっかり修煉しなければ、どうやって法を実証し、どうやって人を救えるのかと思いました。

 私は航空会社に勤めており、毎週そこ英語の大紀元時報を配布しています。最初は新聞を持っていく人が少なく、新聞の配布少ないのに、まだ残っていました。一部の場所は、1部も持って行く人がいませんでした。しかも、ほかの乱れた新聞が私たちの新聞の棚におかれていました。しばらく経ってから、ここは誰が開拓した場所なのか、まったく新聞を読む人がいないのに、これほど苦労してそこにおいても、どうなるのか? 協調人にこれらの場所に新聞を置かないように提案してみようか、一カ所だけでよいのではないかと思っていました。

 その後、いったい場所が問題なのか、新聞が問題なのか、それとも私が間違っているのか、よく考えてみました。根本的な問題は私がまじめでないことにあり、毎回新聞をそこにおいたら離れ、まるで役者が掛け持ちで出演しているようだと気付きました。ここにも救われるべき衆生がいるのに、がこれほど無頓着ではのように人を救う作用を働くのでしょうか? そして、私は新聞を置く場所がよくない、新聞がよくないという考えを取り除きはじめました。新聞を置くときも発正念をして、衆生が大紀元時報を読むことを阻んでいる要素を根絶しました。発正念の効果は著しく、まもなく新聞は常にすべて持っていかれるようになりました。ひいてはそれまで誰も持っていかなかったの新聞も全部もってかれ、現在私は以前のところに新聞を一束多く置くようにしています。

 私は、大法の中で絶えず昇華するにつれ、発正念の威力もますます大きくなるとはっきり感じました。最近発正念をする際、自分はまるで広々とした宇宙の中にいるように、正念を発すると連綿と続いて絶えることなく、際限がありませんでした。

 自分をしっかり修めれば 法の威力が現れる

 神韻公演の際、私は取材を担当していました。1回目の公演の休憩時間のとき、取材しましたが、ある観客の発言内容適切でない部分があると感じました。私は必ず自分のどこかに問題があると思い、後半は神韻公演を見ながら、静かに内に向けて探しました。私は自分が全体的にとても鈍く、公演を見ても、内容が理解できないことに気付きました。私は自分が邪悪に隙に乗じられたと気付きました。私は自分の心を一つずつ確認し、一体なにが妨害しているか探しました。その日のお昼、私はいくつかの執着心を見つけ出し、発正念をしてそれらを取り除いたばかりだったので、私はそれらを再び相手にしないようにしました。私は、自分は大法弟子であり、師父の要求通りに行い、大法弟子の責任を遂行する、師父の按排に従って自分の責任を全うすると告げ、それから何も考えませんでした。

 公演が終わって私は入口に立っていました。私が質問した1人目は私たちの取材対象でした。続いて2人目も取材対象でした。2人目の観客の取材が終わったとき、私は数人の中国人留学生が近にいるのを見て、彼らを取材しようとしたところ、ひとりの西洋人が興奮しながら歩いてきました。私が先ほど彼の友人を取材したのをみて、いつ私たちの新聞を見られるか、と聞いてきました。私はどこにいけば新聞があるかを伝え、彼に取材できるか聞きました。彼はとても喜び、私の取材を受けてくれましたが、彼も取材対象でした。3人目の取材が終わったとき、振りかえると、さっきの留学生らは本来の場所におらず、ホールにもいませんでした。その時、その数人の華人の留学生が手洗いから歩いて出て私の近くを通りました。私はほとんど同じ場所に立ったままでしたが、取材対象の人は1人ずつ私のところに歩いてきて取材を受けました。特に最後のあの華人の留学生は非常に感動して、最初から取材が終わるまで泣いていました。公演から純真で穏やかなエネルギーを感じ取ったという彼女の言葉はとても人を感動させました。

 神韻公演の3日目のとき、私は唇が切れて、口を開くと痛くなりました。私は、妨害が来たと思い喋れなければ、どうやって取材するのかと思いました。私はに向けて探しながら、発正念をして妨害を取り除きました。その後、神韻報道チームと一緒に発正念をする時、私は自分1人のと異なる感覚を覚え、まるで広大な宇宙の中にいるように感じました。になって、自分はこの無辺の大法全体の中の一粒子であり、法の中の一粒子で、一粒一粒の粒子が結合して、やっと法の威力を発揮できると悟りました。一瞬私は「私取材している」という執着を放棄でき、その日の取材は非常に楽でした。合わせて7人を取材しましたが、すべてが取材対象で、100%の達成率でした。記事を書くことも非常に楽で、まるで空気のように透明で何の妨害もなく、記事を書きたいと思うと、すぐに書くことができました。

 (続く)

 2012年ニューヨーク法輪大法修煉心得交流会の原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/5/23/257837.html)     更新日:2012年6月10日
 
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