修煉のシステムはとてもシンプル(一)
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文/日本の大法弟子

 【明慧日本2012年6月15日】師父、こんにちは。世界中の大法弟子の皆さん、こんにちは。

 師父のお誕生日を心からお祝い申し上げます。そして、法輪功という明かりを私の人生に灯して下さった師父に、心から感謝申し上げます。

 今年は、私が本格的に修煉を始めてからちょうど10年目になります。ちょうど10年前の今頃、5月13日の師父の誕生日を祝うパレードに参加した時期からでした。

 大法との出会い

 1995年、私は20代半ばで夫を交通事故で失いました。二人が出会ってから、ほんの3年目の出来事でした。この時、私は絶望を味わいましたが、その一方で自分の人生観もがらりと変わりました。人間はたとえどんなに裕福で健康に生まれたとしても、とてもはかない存在であり、いつ何時、死がやって来るのか分からないのです。それまで私が人生にとって大事だと思っていたこと、例えばお金、家、車、ステータスなどは全て空しいものであり、人間もいつ災難に見舞われるか分かりません。人生とは一体何でしょうか? 人は死んだらどこへ行くのでしょうか? この時から、私は図書館に通い詰め、自分の答えを探して本を読み漁りました。

 1999年ごろ、私は知り合いから『転法輪』をもらいました。ただちに、この本は他の書籍とは違うと思いました。転法輪は他の宗教や哲学、考古学、物理、歴史など多くの分野を網羅しており、それを超越していま す。ある日、何度も『転法輪』を読んだ後、ひとつの答えに辿りつきました。それは、古今東西、どんなにたくさんの本を読んだとしても、私が探している答えはみつかりませんが、あらゆる答えはすべて『転法輪』に書いてあるということです。その時から、私の図書館通いは止まり、『転法輪』と師父の各地での説法を集 中的に読み始めました。

 しばらく「独習」という形で誰ともコンタクトを取らず、一人で『転法輪』を読んでいましたが、2002年、日本にいる他の学習者たちに会う機会があり、煉功を教えてもらいました。『転法輪』はすでに何度も読んでいましたが、 まだ「修煉」について深く理解しておらず、煉功を重視していなかった私は、いつも大変そうな第二式をスキップしていました。

 ある時、初めて第二式に挑戦しました。手足が重くなり、気分 も悪くなってきましたが、最後まで続けました。第二式が終わると、身体が辛くてばったりと床に倒れてしまいました。次の日は朝から寒気がして、熱が出てきました。ベッドに横になり、しばらく寝てから起き上がると、全身が汗でびっしょりと濡れていました。着替えるために服を脱ぐと、自分の身体を見て、仰天しました。ふくらはぎから太ももにかけて、足全体にびっしりとじん麻疹のような水ぶくれができているのです。かゆみや痛みなどはありませんが、風邪の症状のよ うな、節々の痛みがありました。家族は心配し、すぐに病院へ行くよう私を促しましたが、私は行かず、かえって心は軽やかでした。私はすでに何度も師父の経 文を読んでいたので、その時、師父が私の身体を浄化して下さったことを知っていたからです。私の浄化の過程は3日くらい続き、その間はあまり食欲がなく、 ほとんど食事を口にしなかったのですが、身体は快適でした。この時から、大法を修煉することを決心しました。

 修煉のシステムは、とてもシンプル

 10年の修煉を振り返ると、様々なことがありました。『転法輪』と師父の各地の説法は、何度読み返したか分かりません。そのたびに新たな悟りがあり、その時々の私の状況に合わせて、師父が私の足りないところを指摘して下さり、または励ましてくださいました。この10年で分かったことは、修煉は時に苦しく、困難ではありますが、そのシステムはとてもシンプルであるということです。つまり、師父は修煉者が修煉できるように、新たな人生の道を按配して下さいます。その道とは、一歩一歩、身体と心を浄化し、次元を高めていく過程です。人間が持つ執着心と汚い心を取り除き、同時に身体もきれいにしていくことです。そのために、師父は修煉者が持っている「業」を用いて、各次元に修煉者の「難」を割り当て、修煉者が自分で悟りながら乗り越えられるように、人生を按配して下さっています。10年を振り返ると、小さな難も大きな難もありましたが、どれも私を鍛え、成長させてくれる過程でした。

 その中でも、とても印象的なことがあります。私は2002年、師父の誕生日を祝うパレードに参加した時に現在の夫と出会い、彼と2004年に結婚しました。夫は中国人で、もともと中国人の奥さんがいました。彼に子供はおらず、その奥さんとはケンカが絶えず、二人は家庭内別居の状態で、私と出会った頃に離婚してしまいました。

 結婚後のある日、私は夫が時々その前妻と会っていることに気づきました。夫はずっと、それを内緒にしていました。私は、カナズチで頭を殴られたようなショックを受けました。私がものすごい剣幕で夫に問い詰めると、 夫は「人に言えないようなことは何もしていない」と言い張るばかりでした。

 それから、私は夫を監視するようになりました。夫の動向をチェックし、携帯やメールも盗み見るようにまでなりました。心は嫉妬心で一杯となり、全く修煉者の状態ではありません。私が覗き見た前妻からのメールによ ると、前妻は離婚後、夫のことが恋しくなったようでした。二人とも、納得して別れたのではないのでしょうか? なぜ、離婚した後、私という妻がいるのに、内緒で別れた夫に会おうとするのでしょうか? 私は納得がいかず、思い出すと前妻に対する怒りが込み上げてきました。それからの私は、夫が出かけたり、携帯で話をするだけで疑いの目を向け、夫に当たりちらしました。しかし、私がいくら言っても、夫は前妻と会ったり、連絡を取ることをやめませんでした。その間に私と夫の間に子供が生まれましたが、その一方で、夫は相変わらず前妻と連絡を取り合っていました。私はしばらくの間、悩み続けていました。

 この時、師父のオーストラリア説法を繰り返し読みました。

 「多くの学習者がトラブルにぶつかり、心が穏やかでなくなった時、実はこの時あなたは常人を相手に怒っているということを考えていません。皆さん考えてみてください、佛、神のような偉大な覚者は人間を相手に怒ることがあり得るでしょうか? 決してあり得ません。なぜならば、佛、神は人間の次元にいないので、常人の情を持っていないからです。なぜ、自分を常人と一緒にするのでしょうか? あなたは常人と同じように、トラブルに対処している時、既に常人と同じレベ ル、同じ境地におり、つまりあなたは既に常人の中に置かれてしまったということです。常人と同じでなくなった時になると、常人から抜け出したことになります。もちろん、その時の現れは寛容で度量があるのです。常人からこのように見られます。実はそれは修煉の中での皆さんの心性の所在の現われです。ですから、如何なる環境においても、如何なる情況においても、トラブルに遭った場合、善良の心、慈悲の心をもって全てに対処すべきです。自分の敵を愛することができなければ、圓満成就することはできません。(拍手) なぜある普通の人間があなたの気に障った時に、あなたは相手を許すことができないのでしょう か?! なぜかえって、常人のように相手と言い合い、争うのでしょうか?」

 (続く)

 
 
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