明慧法会|無私無我になってこそ、使命に背かない(一)
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2012201291】大法を修煉してから私は10数年を過ごしましたが、ずっと法を正すことと個人修煉の関係を正せていませんでした。以前はいつも自分を一番置いて、私は修煉したい、私は向上したい、私はどのように大法のためにしたい、私は何をしたいと考えていました。そのため迫害が発生した後、メディアが天地を覆い隠すように修煉者を中傷した時、修煉良い人を目指すことは間違っていないの、どうして迫害されて、妨害されたのかと思い、私は納得できませんでした。憤慨してつらく思い、不公平に感じ、甚だしきに至っては、私は何をも顧み、このすべてにあらがいました。夫や身内の親戚が私を阻止しようとした時、私は彼らが私の修煉を邪魔していると思い、自分の修煉をとても重く見て、誰も私を邪魔することができません」と思いました

 あの時真相を伝え北京へ法を実証しに行ったのは威徳を樹立するため、あるいは個人の解脱のため、円満のためでした。根本的な目的は自分の為、私(し)基点とした旧宇宙の特性が私の身に体現し、その結果、深刻な迫害を招いて仕事を失いました。あの時自分が向上すること、迫害に反対すること最優先で、衆生を救済度すること、法を実証することは二の次でした。

 家でも黒い巣でも、私はいつでもどこでも自分の法に対する信念を修、結果として、弟は家で悪魔のように私を殴りました。私はあなたが私の修煉を邪魔することできないと思、心の中で彼らを恨んでいました。労動教養所でも、私は常人の心で迫害に対処し、常人の心で非人道的な苦難を防ぎ止めようとして、管教(訳者注:迫害に加担した受刑者)らに対して慈悲がなく、心の中で彼らを恨、彼ら少しでも早く罰が当たることを望みました。結果として最も邪悪な大隊長が残酷な電気ショックと死人ベッドの拷問で、私を苦しめました。当時、私は法理に対してはっきり認識できておらず、出発点正しくなかったので、個人修煉の基点でこの迫害を評価していました。結果はやはり大きな回り道をして、師父大法に申し訳ない悪事をしました。北京看守所に拘留されていた時、私は毎日監房の中すべてこと協力せず看守リーダーと話をせず、彼らが管教と一緒に大法弟子を迫害する行為をとても軽蔑しました。その看守も私を軽蔑し、いつも私の略称を叫んで私にあれこれとさせました。私は掛け布団を被って何も話を聞きませんでした。私はこれが、悪に協力しないことだと思っていました

 同修との交流を通じて私は刑務所の看守リーダーに対する考え方を変えました、私心から彼女たちと交流し、慈悲を持って真相を伝える時、彼女たちは「あなたは私達を敵視しないでください私達も大法が良いことを知っていて、私も本を読んでいますと言いました。

 学法交流を通じて、また明慧ネットの体験文章を見て、私の心性は個人修煉から、いかに迫害に反対する中で向上し、衆生を救う、認識を高めました。師父は『人心を放下し、世の人々を救い済度する』の経文で「個人の解脱は修煉の目的ではありません。衆生を救い済度することこそ、皆さんがやってきた時の大きな願いであり、法が正される中で歴史が皆さんに賦与した責任と使命です。」と説かれました。私は個人修煉から法を正す中での修煉を始め、法を実証することと衆生を救い済度することを第一位に置くことができました。

 家、私は心から家族へ真相を伝えて彼らを救いました。恨みと辛い思いなく、もう私を妨害する人を迫害する魔と見なしませんでした。私は彼らをすべて衆生として救いました。身内と友達はすべて真相を理解し、邪党の組織から脱退しました。邪悪な黒い巣において、私は迫害されたという概念を持たず、私はここに来たので、ここにいる衆生を救い、法を実証すると考えました。「転向」の思想持たず、そこにいるすべての生命に対して慈悲を持ち、甚だしきに至っては邪悪な邪悟者(ユダに対しても、最も強大な正念を発して彼女たちの背後にいるすべての邪悪を一掃しました。その結果、そこの所長最も邪悪な管教はすべて私に対して非常に尊敬して、彼らが陰で大法の弟子を迫害している悪行を私が知っていることを恐れていました。

 私は、長期にわたって断食をし、迫害に協力しない何人かの修煉者を見ました。彼らはただ迫害を否定し、転化させられていないに過ぎず、周囲の人を救うかどうかに対しては感覚が麻痺していて、甚だしきに至っては身の回り苦しんでいる同修に対しても感覚が麻痺して、それはすべて彼女達自身厄運だと思っています。結果的に、もう3間も絶食している修煉者は、いまだ旧勢力の按配を破ることできませんでした。彼女たちから私は私迫害された根本的な原因を探し当てました。

 私達の地区の同修に対する迫害はとりわけ深刻であり、同修達はばらばらに動いて、お互いに全体を形成していません、同修達は現状満足して、ただ自分の狭い範囲だけに関心を持っています。あるは自分を高めることにかまけて、もし何か出来事が起きたら外を見て、調停者に依存して、資料点に依存しています。これを見て私内に向て探しました私達の地区に存在する問題同様問題が私自身にも存在し、私は法理に対してはっきりとした認識を持っていなかったので、根本的に今日の師父が法を正すことの内包を、いまだはっきり見分けることができず、明白に師父が法を正すことを助ける意味も分からず、これに加えて邪悪な迫害の形勢により、私は自分の使命と責任をはっきり見分けることができていないことに気付きました。人心と恐れる心駆り立てられて、自分で修煉の道を按排し、時々のんびりし、時々気を緩めて、法を実証する仕事を選り好みし、比較的安全だと思う方法を選択して三つのことを行い、甚だしきに至っては師父との契約の重み厳粛を悟ることができず、人情で量って、時に師父が手心を加えてくれるのではないかと考え、向上していないにもかかわらず良い未来をもらいたいと思いました。旧宇宙の生命のような利己的かつ自己保護の観念、自分で法を正す道を按排する観念が私の生命の深い所で残っており、少し油断するとそれに妨害されました。私は三つのことに対して大法の要求に従っていませんでした。人心により受け身になり、インターネットをする勇気がなく、資料作成をする勇気がなく、あれもこれもする勇気がありませんでしたこれは師父法を正すことを助けることではありません。

 「このことに言及しましたが、実は私はある大きな理を明かしました。実は、この宇宙において、衆生は私が誰であるかを知るかどうかは何の障りもないことです。しかし、あることに対してはっきりと認識しなければなりません。

つまり、私が法を正しており、私が誰であろうと、私が法を正しているということです。私は旧勢力に話したことがありますが、私が誰であるかを知らなくてもいいし、私が誰であるかを信じなくても良く、それはあなたたちが罪を犯していることではありません。しかし、あなたたちの概念で言えば私も修煉しており、私がどこへ行こうと思っているのか、何を成就するのかはあなたたちは分かっているので す。このように逆からあなたたちのやっていることを見れば、あなたたちは罪を犯しているのではありませんか? 更に、更なる高い次元で言えば、何かを成就するという概念もなく、宇宙の選択しかありません。私が今日法を正すことの中で行った全て、私が手に入れたい全ては、はっきり言えば、未来の宇宙の選択であり、未来の宇宙の需要なのです(拍手)。旧宇宙の生命として、全ての生命の要素も含めて、法を正すことにおいて、私の選択の中で、全ての生命は皆私が選択したことに従って、その選択を圓容し、皆さんの最も良い方法を出してください。私が欲しいものを改めるのではなく、私の言うとおりにそれを圓容するのです。これが宇宙の中の生命の最大の善なる念です(拍手)。しかし、旧勢力はこのようにするのではなく、それらは自分の選択を根本とし、私が行った全てをそれらが欲しい全ての圓容としており、全ては逆になりました。私はそれらに重い罪を定めたくなく、私はここで何かの罪名を話したくはありません。しかし、それは絶対間違っており、絶対そのようにしてはいけません。(『二〇〇三年旧正月十五日の説法』)

 師父の講法の中から私は悟りました。私達が大法を実証することを最優先とし、師父の要求を円容すること最優先にすれば、法を正すことの私達への要求に合うことができ、当然その無私な壮挙は、師父と衆神の保護を受けることができ、妨害なく順調に行うことができます。しかし私達が任務の完成、あるいは威徳の樹立というような個人のため私のための目的であれば、もちろん旧勢力の考えに合って、旧勢力が破壊、妨害をする理由になります。

 (続く)

 (明慧ネット第8回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/14/249192.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/12/6/129880.html)
 
関連文章