明慧法会|間隔を無くすことは自らの心による(一)
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大法の輝きで心の影をなくす

文/中国の大法弟子 宇軒

 【明慧日本2012年12月10日】偉大なる師父、こんにちは! 修煉者の皆さん、こんにちは!

 ネットでの法会の機会に自分の修煉で得た体験などを書き留めて修煉者と交流し、同時に偉大なる師父に自分の真なる誠意と感謝を表します。

 修煉を始める前の私はとても頑固で何事をやるにも良心に背かず、そしてすべて他人より良くできていることを自分に要求していました。自分に要求するだけでなく、他人を評価する基準もそうしていて、私の目の中に映るすべての人間はみな良くなかったのでした。時間の流れにつれ、固有の観念は弱まるどころが、日に日に増していきました。法を学び始めてから何年か経っても、これらの基準が修煉者にとってどれほど重大な妨げになっているのかにも気づかず、旧勢力に隙を突かれ、何度も家族の事で困難に遭い、それでも根本的な実質には気づくことができませんでした。

 娘は小さい頃から反抗心が強く、我慢できなくなっていて、どれほど説教しても聞いてくれません。「成長すれば、心も開く」と思っていましたが、成長するにつれ、良くなるどころか却ってさらに悪化してしまい、彼女に対して完全に失望しました。他人の嘲笑う顔や風刺の言葉を恐れていましたが、結局怖がっていた通りにすべてがやってきました。ある修煉者は、子供がこうなったのは私の修煉が良くできていないことが原因だと言いました。ある常人は、大法が私の娘を変えたら、大法の素晴らしさを信じると言っていました。つまずいた私はなかなか立ち直れず、何年間も知り合いの前で真相を伝えることができなくなったのです。 

 修煉者の手助けにより、私はついに今まで何十年間もの間、染みついていた心の障害を見つけることができました。それは「素晴らしい」と言わせようという利己心なのです。この利己心が、私が大法に同化するのを妨げているのです。利己心の危険性に気づき、師父がおっしゃっていた、人にはそれぞれの運命があるという言葉を思い出しました。私は何度も正念で、「褒めてもらいたい」という心理を解体してきました。少し経つと、心も楽になり、頭もはっきりしてきました。誰かが子供のことを聞いて来ても、その通りに答えることができました。その後、誰も聞いて来なくなり、このことも思い出せなくなったのです。

 私は表面しか探っておらず、その中から背後にある深い要因を見抜くことができませんでした。旧勢力は私を見逃しはせず、またもや何度も苦難を作り出し、私と修煉者の間に隔たりを作り出していたのです。これで私は何度も教訓の中から問題の根源を探さなければならなくなりました。私は他地区の修煉者とトラブルが生じました。私から見れば、その人は「教養」がないだけでなく、私に対して「井戸に落ちた人に石を投げ込む」というようなことまでしてきました。人心のけがれや人性の冷酷さと醜さを見て心が痛み、修煉の自信と勇気を失ってしまいました。当時は、修煉の者が法の基準で問題を見ないときは常人と変わらないことに気づくことができず、悪いときは常人の中の良い人にも及ばなかったのです。そして、修煉者の一時の執着した表現をその修煉者の本当の自分であるとみなし、修煉者の慈悲な状態を神話とさえみなしていました。悲観が頂点に達し、どれほど修めても、自分も将来そうなってしまったら、法に恥をかかせるだけでしかなく、そうなるのなら今から諦めてしまえば、常人の中で良い人にくらいはなれると思いました。

 その後、慈悲なる師父にご加護のもと、私はやっと悟り、新たに自分の修煉状態を見つめ直しました。「大法の直接利益を受け、何度も大法の威徳や師父の無限の法力を見た者として、なぜ、たった一つの困難を乗り越えられなかっただけで、大法を疑ってしまったのでしょうか」と私は自分に問い詰めました。「ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、果して高い次元へ修煉していけるだろうか、佛は本当 に存在しているのか、などについて、あなた自身が紛らわしく思い、迷ったりすることが起きます。将来、あなたに錯覚を与えて、それらすべてが存在しておらず 、みんな偽物だ、とあなたに思わせるようなことも起きるかも知れません。動揺するかどうかを試すのです。絶対動揺しないという決意があり、いざという時に本当に動揺しなければ、あなたは自ずと乗り越えることができます。なぜなら、あなたの心性がすでに向上しているからです。ところが、今はあなたはまだそれほど安定していないので、すぐにこのような難を出現させたら、あなたはとても悟れず、修煉もまったくできなくなります。難はあらゆる方面から現われてくるものです(『転法輪』)」

 この法を何度も繰り返して読んでいくと、驚きました。あの心の痛みは、なんと自分のいわゆる人としての原則に触れたからで、深く自分の中に居座っているものに触れたからなのです。困難が表れた時、まずそれが表れて私を困惑させ、法を思い出せなくさせられ、言いなりになり、人の中で混乱させられるのです。私はただの人になりたいだけなのではないでしょうか。しかしそれは常人の中でいい人の基準でしかすぎ過ぎず、法の物事を測る基準とはとても比べものにはなれません。しかし、修煉の者にとって、法の要求にふさわしくないすべての者を修めなければならないのです。修煉者が良く修めているのではなく、私が法の基準で物事を見ておらず、自分を修煉者として見ていないのだと気づきました。「良い人」の観念を修められただけでなく、最も重要なのは法を信じているかどうか、私への試練でもあったのだと悟りました。少しの困難に遭っただけで法を疑い、それでは本当に法を信じてはいませんし、修煉者とも言えません。私は自分の修煉状況を恥ずかしく思います。

 修煉の態度を正しましたが、古い思考回路がまだ私を抑制しており、頑固な観念も時には表れて私の邪魔をし、冷静になれません。それらは、利己心の表れの行為をする修煉者はカタツムリが山を登るような感じで、その利己心を修めていけるのだと私に思わせます。その後、学法するにつれ、頑固な心理も隠れる場所がなくなりました。修煉者がその層にある法理を理解すればすぐに修められることを信じず、修煉者はそのような悟る力や迫力に欠けていると思ったりします。そして、これらの人心が大法の法理の前ではとても小さくなってしまいます。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/11/22/249146.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/12/3/129835.html)
 
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