――大法の輝きで心の影を無くす
文/中国の大法弟子 宇軒
【明慧日本2012年12月22日】師父がその人の良い面を見るということを除き、修煉者が良くなると信じたいということはやはり常人の観念であって、人心であり、神の念ではありません。全宇宙の神様が敬う法、小さな人間だけが恐れを知らずに、人心で法を疑います。心の底から法を敬わなければ、大法が現す威徳を見ることが出来るでしょうか。修煉者が良くなることを信じない人は「見なければ信じない」という下層の者のすることで、大法がそれほどの威力を持っていることを信ぜず、師父が生命を改善させる力を持っていると信ぜず、実は、師を信じ、法を信じるのがまだ足りないのです。この法理を悟ったとき、すぐに頭がすっきりし、思考は明晰になり、体も軽くなり、修煉者への敬重で心がいっぱいになりました。その後のしばらくの間の修煉状態はずっと良いままでした。
しかし、心性が落ち着いていると思っているときに、またある事件が起こりました。修煉者がなぜか私に変な見方をしていることに偶然気づきました。しかも、皆の前で私に話す態度が悪く、その場にいる修煉者でさえもそのことに察していました。しかし私は態度を変えずにその修煉者と親しく交流しています。このことがその場にいる修煉者を驚かせました。
その後、その場にいた他の修煉者はこれに対して不平に思い、その修煉者と交流する機会を探そうともしましたが、断られました。修煉者たちは私の同情をする以外に、平淡にこの出来事を見ている私を嬉しく思ったそうです。その修煉者の身近にいる修煉者が私のこのことを話しているときも、私の心性の方面でも大きな変化に驚きました。その修煉者が彼女に教えたのです。その修煉者が自分の口から彼女に自分が悪かったことを教えました。彼女の話を聞き、私はその修煉者の具体的な考えを聞こうとはしませんでした。やることがいっぱいあったため、少し経つとすっかりその出来事を忘れてしまいました。
そしてある偶然な機会で、その人と再び会いました。その人は私が書いた一年前の文章を取り上げ、文章は事実に基づいておらず、私が他の修煉者に利用され、他人の代筆には絶対ならないようにと忠告されました。その文章の中ではその人の事が取り上げられたので、私に対して不満を持ったのだと私は気づきました。文章の事実性に対して私は疑っていません。それは当地のたくさんの修煉者がすでに証明したものです。もちろん、その人が嘘をついているとは思えません、ただ双方が矛盾していて、見方が違うだけだと思います。様々なことを経験してきたことで、私はまず自分を冷静させることが出来、その修煉者が正しいかどうかを気にせず、弁論することをやめました。一時は心性の漏れを探り出せないかもしれませんが、冷静になれば、事態の悪化を阻止することはできます。私がもしどこか修煉者を傷つけるようなことをしたのならば、きちんと謝ることを私は心の底からその人に伝えました。その人は私のこの誠実さに感動し、今はもう大丈夫だと言い、その情の中から精進させてくれたことに対し、お礼を言われました。
家に帰り、その文章を読み返し、彼女を責めるような言葉はどこにもなく、ただ穏やかにかつて当地の全体の状態の過程を穏やかに述べており、安心しました。その人のことを思うと心の中は穏やかで、彼女に対し悪い見方など少しもありません。このことが一年後にまだぶり返されるということは一体私の何の人心を修めさせようとしているのでしょうか。その人の話を詳しく思い返せば、ある細かい部分に気づきました。誰かがあることないことを足しながら他人に伝え、私とその人の矛盾を深める重要な要因の一つだと気づきました。一時期、その修煉者に対して、「不和の種をまく」「二股かけたやりくち」など悪い観念が次々と現れました。前の教訓があったため、私はすぐに悪い観念を断ち、誰かの悪いところを考えることを禁止しました。あのような無責任な観念も強力な思想業力の一つで、源は中国共産党の党文化で、一つの家庭に一人が悪いことをすれば、皆が悪いと言えるでしょうか。もしかすれば、この時の修煉者は本当に間違っていた、二度三度同じ間違いを繰り返すかもしれません。しかし、それは修煉者の不十分な面で、修煉の過程であって、結果ではありません。たったそれだけで結論を出してはいけないのです。修煉者が火に油を注ぐようなことをしても、その原因は自分にあり、自分が彼女にそのようなことをさせているのではないでしょうか。もし、私が一度もその人の悪いことを口にしていないのならば、他の修煉者がその話を広めるのでしょうか。もし、その修煉者が私の前でその人の悪口を話しているときに、すばやく訂正させれば、その修煉者がまだ続けるのでしょうか。何を言ってもやはり自分の修煉に問題があり、自分を精進させる問題なのです。このように考えると、前に会った修煉者を問い詰めるような考えはすっかりなくなりました。すべての修煉者を敬うべきで、我々は破ることのできない一体であり、師父を心配させない大法弟子であるのだと感じました。
昔を思い返せば、我々大法弟子たちはみな「法を正すことを必ず成功させる」という固い信念を持って危険のある人間界に下りてきたのであり、旧勢力が加えた苦難と茫漠の中でお互いを傷つけてはいけないのです。「悠々たる万世の縁は、大法という糸によって結ばれ(『神への道は難しい』)」宇宙での法を正すような天地を驚かすほどの行為が、大法弟子たちの間の縁の神聖さを映しています。我々のはっきりしている部分は大法を、大法弟子の互いの縁を大切にしています。それなので、なぜ宇宙の中で取るに足りない小さな埃に、心を迷わせてしまったのでしょうか。なぜ口にするのも面倒なほどの人心によって、我々の万物を見通す目を塞がれてしまったのでしょうか。怨念や誰が正しいのか悪いのかなど言っても仕方がありません。宇宙の大法の光のもとで、すべての影が瞬間に無くなってしまうのです!師父は、「これほど大きい法が人類社会で伝えられ、一人の人間を容れようと思えばいとも簡単なことです。最も簡単な例を挙げて説明しますが、溶鋼に木屑が落ちたら、 瞬時にその姿が見えなくなります。これほど大きな法をもって、あなたという一人の人間を容れ、あなたの体にある業力を滅し、良くない考えを消してあげるなどなどは、いとも簡単なことです。(『北米第一回法会での説法』)
人間界のすべてのものが私と修煉者を隔てることはできなと感じました。少なくとも私の空間場には修煉者と敵対的な変異した物質が無くなったのです。頑固で、自分中心の観念を根っこから抜きだしてから、生命に真の「飛躍」があるのを感じ、生まれ変わったような変化と昇華を感じ取れました。「三つのこと」も順調になり、真相を伝えることも二倍以上の効果を得て、生活環境でさえも大きく変わりました。これらの事により、生命が法に溶け込むことの素晴らしさを体験し、大法弟子であることの栄誉や壮大なご加護のもとで幸福と神聖さを感じました。
この文章の終わりに、大法と師父への敬慕の心を持ち、心の底から言わせていただきます、大法と師父を固く信じるすべての修煉者に感謝し、すべての同じ大法を修めている修煉者に感謝いたします!この二度とない神聖な機縁を大切にしましょう!合掌。
(完)
(明慧ネット第八回大陸大法弟子の修煉体験交流会)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/12/3/129835.html)