文/米国ロードアイランド州の大法弟子
【明慧日本2013年6月22日】
(二)全体の協調
神韻2012の営業活動は思わしくない結果となりました。終了後に同修はその原因について交流しました。同修から法理上の意見を聞くと、最も大きな原因は「全体の協調」にありました。師父は説法の中で何度も「協力し合うこと」を強調されました。神韻2013の営業活動が始まって間もなく、私が学法している時に、師父は再びご教化くださいました。「心性が向上すれば、他のものも同時に向上しますが、心性が向上して来なければ、天目の精華の気も取り戻せません」(『轉法輪』)。
表面上では「全体的に協調しなければならない」と分かっていましたが、いざ実践するとなるとなかなか難しいのです。特に内に向けて探すことを通じて「全体の協調」ができるようにするのは更に難しいのです。常人の中では私の能力は比較的高い方だと思っていました。学法の際に時間を大切にし、念が正しく、勉強もわりとできる方で、問題が発生したら、動じることなく一つ一つ解決できていました。妻は同修なので余計な心配は要りませんでした。できるだけ全体の視点から物事を考え、計画を立て、全体で行動をとるようにしましたが、しかし心の中では集団より個人の方がより効率的だという観念がありました。自分で研究してプランを決めれば、すぐにできると思い、一人でやればいいと勘違いをしていました。同修と一緒にやれば、繰り返しやり取りや、理由についての説明や、様々な問題解決に大量の時間を費やしてしまうと思っていました。他人の不足がついつい目に付きやすく、特に修煉における「全体の協調」に対して、理性的な認識が未熟な段階においては、往々にして同修の不足が拡大されます。「師父の要求に対して絶対に妥協しない。師父のおっしゃる通りに実行する」と、何度も自分に言い聞かせていました。一部の事に関して、例えば客観的に外部から来た困難はやり遂げましたが、しかし師父が強調されている同修内部での「全体の協調」はよくできていませんでした。なぜそうなったかと考えると、自らの善が足りず、他人への配慮が足りず、自我を全体の上においてしまったことに気づきました。例えば私は学法を重視していました。どんなに忙しくても学法をしっかり守りぬいていました。地元同修の集団学法が少ない現状を見て、週一回の学法以外に、二週間に一回の強化学法を増やすべきだと指摘しました。暫くの間は続けていて、その効果も大変良かったのですが、神韻の営業活動が始まって皆が次第に忙しくなり、強化学法は中断しました。私は最後まで集団学法を徹底しませんでしたが、個人の学法を強化していました。内心には「自己」と「他の同修」を区別する心が潜んでおり、全体は一丸となれませんでした。
実際に神韻を広める活動の中で、「全体の協調」の威力はいろいろなところに現れました。かつて神韻を主催した経験がありましたが、主流社会への突破において有効なやり方は見つかっていませんでした。例えば広告を打ち出す際に、同修の全員の意見を取り入れた最終決定は、良い効果が得られました。その過程において皆の心性も向上しました。「全体の協調」は都市間での協調、つまり他の都市の宣伝効果とチケットの販売実績にも現れています。ある週末に複数の都市は同時に新聞のパッケージ広告を打ち出し、新聞コーナーは神韻広告一色でした。実に震撼を受けました。私達地元の宣伝活動中に使う音声、画像、広告の設計は、全てボストンの同修の無私な支援によるものでした。例えどんなに忙しくてもショッピングモールに1日立ち、疲れ果てて自宅に帰った後に、私達の為に設計作業に取り込んでくれる同修がいました。
「全体の協調」は、他の地域の同修による資金から時間までの大きな支持も現れていました。遠方から駆けつけてポスターを貼ったり一軒ずつチラシを配ったりして、地元の私達に彼らの正念が届いていました。私たちの努力を地域、全国そして全世界の神韻の営業活動に繋げて一つの大きな全体にしてくれました。
(続く)
(2013年ニューヨーク法会での発言原稿)