明慧法会|相手の長所のみを見て、自分の不足を見つけ出す(一)
■ 印刷版
 

文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年6月25日】私は法を得て既に16年になりますが、未だに他人とのトラブルの中で内に向けて探すことが出来ず、去年、私は学法を土台に、実修の過程で内に向けて探すことの強大な威力を実感しました。

 一、子供を育てる前にまず自分を修める

 今まで、私は息子(子供弟子)のことがいつも気に入らず、彼が法を読むスピードが遅いとか、集中力が足りないとか、遊び好きとか、グズグズしているとか、とにかく彼に対して不満だらけでよく怒りました。子供を教育する度に私は怒り、彼も怒られてからしばらくは、おとなしくなりますが、すぐまた元の状態に戻ります。私のコントロールがないと、彼は全く勉強しません。グループ学法の途中で、彼は声一つかけずに本を置いてお手洗いに行ったり、あるいは細かな動きを絶えずしているので、自分がよく学法できないだけでなく、周辺の同修の邪魔にもなります。私は悩みに悩んで、まるで袋小路に入ったような感じでした。小学校を卒業後、彼は普通の中学校に進学し、このままにしておくと、子供の教育は駄目になるだけでなく、私にとって大きな心性の関にもなった気がしました。

 一体どこに問題があるのでしょうか? 教育しても駄目、しなくても駄目で、一時は本当に苦しかったです。ある日、私は師父の説法の録音を聞いていて、突然悟りました。私は子供に対する慈悲や善の念が足りませんでした。私はきちんと修煉せず、この問題において自分を修めませんでした! 私が見てきたのは子供の欠点ばかりで、自分の基準を持って子供を判断し、自分の基準を満たさなければ、私は耐えられませんでした。善の念とは何でしょうか? 他人の長所が見えないのは善の念でしょうか? 自分の欠点が見えないのは善の念でしょうか? 子供の欠点は正に自分の歪んでいる所を暴露したものではありませんか? 自分の空間場が歪んで、子供に悪い影響を与えているのに、子供を叱責して、どんな良い結果が得られるでしょうか?

 師父は『時間との対話』の中で戒められました。「彼らが相手のどうこうを見るときの目で、逆に自らを見ることができれば、と思います」 真にこの法理を悟ったとき、私はまるで灌頂を受けたように、自分の空間場が明るくなり、心が開いた感じがしました。私は人と付き合うときの絶対原則を一つ決めました。「相手の良いところのみを見て、自分の不足を探し出す」思想がこの原則から少しでも逸れた時、私はすぐに自分に注意をします。自分の心が変わってから、師父は多くのよくない物質を取り除いて下さいました。子供と会話するとき、自然に慈愛を持って話すことができ、一緒に勉強や学法の計画を立てて、その実施もスムーズになってきました。中学校で班が分けられるとき、子供は最も成績の良いクラスに入りました。

 今は、子供は毎朝4時半頃に起床し、私達と一緒に80分ほど学法し、その後6時の発正念をしてから、自転車に乗って自分で登校しています。彼はよく1人で家でスケッチを描いたり、法を暗記したり、または明慧週刊を読んだりして、今まで最も苦手だった文系の予習も自らするようになりました。彼は向上が早く、苦労も恐れなくなりました。

 二、同修の長所に目を向け、良い協力関係を築く

 師父は経文の『至難の関から抜け出す』の中で次のように説かれました。「師父として、私は皆さんが修煉の中でした間違いにこだわったことはなく、皆さんが行なった良いことと成果だけを見ています」 師父がこのように説かれたのは、弟子達にそれに同化してほしいからです。

 私は身近のある夫婦同修に今までずっと一定の先入観を持っていました。その主人は安逸心が重く、外に出て仕事をせず、いつも奥さんの退職金を頼りに生活し、三つのことを行なうことによって自分の短所を隠していると思い、その妻には同修から指摘されることを嫌がる心があると思っていました。近年、彼らは家庭あるいは他方面の魔難に遭遇する度に、私はその主人が外に出て仕事を探すべきで、その妻も主人をいつまでも庇ってはいけないと思いました。最近行われた交流の中で、私は再度その主人に、仕事を探すべきだと言い、彼らから猛烈な反対を受けました。トラブルの中で、私は理性的に内に向けて探してみました。私の態度が間違ったのか、あるいは私の認識が法から逸れているかもしれません。その夫婦同修もその場で内に向けて探し、旧勢力が安排した同修間の隔たりを引き起こすトラブルを解消できました。

 この件において、私は深刻に法に沿って内に向けて探し、得た結論は、私の認識が法から逸れていたということでした。時間イコール命という衆生を救う肝心な時期に、私は同修が仕事をしに行かないことに拘り、彼の実質上の生活状況を考慮せず、彼らの困難を思い遣らず、自分の修煉方式をもって他人に強要し、そこから得た認識は当然法から逸れ、容易に旧勢力に利用されたのです。

 なぜ私はずっと同修が仕事をしないことに拘るのでしょうか? 根本の原因は、私は同修が気に入らず、彼が怠けていると思い、彼が働きに出れば納得できると思っていました。表面上、私は同修の怠惰な心を無くすよう手助けしているように見えますが、実質は自分の独りよがりを満足させようとしただけです。そして、奥さんが人から言われたくないことに拘る認識が法から逸れていても、気づきませんでした。私はどうしても同修のことに口を出したく、同修を管理しようとし、自分を同修の上に置き、自分が同修より優れていると思い、自分を実証し、同修の長所が見えませんでした。これは正に旧勢力がトラブルを引き起こす根本的原因でした。

 トラブルの中で内に向けて探すことによって、私は悟りました。同修は実際大変な状況に置かれています。双方の病床に伏している老人を看護し、健康状態の良くない子供の面倒を見、同時に三つのことをきちんと実行しなければならず、また、経済的余裕があまりない状況下でも資料を買わなければならず、時間的余裕のない中で真相資料を作って配りに行くことに本当に感心しました。例え多少の安逸心があっても、それは大法のことを実行していく中で取り除いていくべきでした。なぜ私は彼に常人の仕事探しを押し付けようとしたのでしょうか?  私がこの人心を放下した時、同修もすぐに自分の安逸心に気づきました。双方が実修の中で向上し、旧勢力が安排したトラブルを解体することができました。

 (続く)

 (明慧ネット第9回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2012/11/12/264864.html)
 
関連文章