絶え間ない迫害の中 母と娘が死亡(一)(写真)  
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 【明慧日本2013年6月30日】湖南省チン州市の郭波琴さんは、32歳の時に白血病を患い、あちこちに医者を訪ねた中で、ある医学教授から法輪功を勧められた。郭さんはすぐに法輪大法の修煉を始め、ごく短い期間で心身の健康を得た。 

郭波琴

郭波琴さん

 元国家主席の江沢民らが法輪功に対して大規模な迫害を始めた後、1999年から2013年まで、郭さんは中共(中国共産党)当局に10数回にわたって強制連行されて拘禁され、2回不当判決を下され、合わせて6年間近く監禁された。また職場から除名・給与差し止め・家財没収・罰金・拷問・独房監禁・灌食・労役・長時間の日射・長期間食事を与えないなどの迫害を受けた。長沙市の女子刑務所から帰宅した郭さんは、骨と皮ばかりに痩せて歩けなくなり、黒かった髪は白髪になり、子宮下垂、脱肛、腹水などの深刻な病状が現れた。 

 2012年10月27日、チン州市国家安全局の10数人の警官は、郭さんの自宅のドアを壊して進入し、家財を没収したり人を連行したりした。その後、郭さんの体調はますます悪化し、以前の症状が再び現れ、体重は43キロまで減り、今年4月18日にこの世を去った。享年47歳。 

 家にいる70代の郭さんの母は、警官の暴力を目にして、恐怖と憤怒で身震いして、脳血栓の病状が現れ病床に倒れた。老人の体重は53キロから30まで減り、娘の早死のショックに耐えられず、今年の6月5日に亡くなった。 

 一、危篤の際に法輪功と出会い生まれ変わった 

 郭さんは1994年、子供を生んだ後の百日目、突然吐いたり下痢したりして、40度以上の熱があった。入院した後、初期は甲状腺機能亢進症(バセドウ病)と診断され、それから深刻な心臓病になり、長期にわたって治療しても治らなかった。

 1998年、郭さんの病気は敗血症に至った。郭さんは毎日微熱が下がらず、意識がぼんやりして、手足がだるく、階段を上る時には老人のように手すりで支え、時間をかけてゆっくりと移動した。いつも左足が突然利かなくなり、倒れたりしていた。まだ30代の郭さんは死ぬより辛い生活を過ごしていた。

 1998年の旧暦11月、郭さんは夫に広州第1軍医大学に連れられた。ある有名な教授が診断を行った後、「あなたは多く病気に付きまとわれ、しかも病状は軽くなく、一部の薬は互いに相殺し、治療効果は何とも言えず、医薬費にも耐えられない」と懇切に言ってくれた。夫婦が絶望的な状況下で、教授はある気功を勧めてくれた。 

 郭さんが「何の気功ですか?」と聞くと、教授は「法輪功です」と答えた。郭さんはすぐに興味を示した。 

 『轉法輪』を購入して3日目、まだ最後まで読み終わっておらず、5式の功法をまだ完全に覚えていないうちに、郭さんの全身の病気がいつの間に消え、全身の力が溢れるようになった。また顔に赤みがさし、とても元気になった。 

 郭さんは久しぶりに出勤し、同僚と上司は皆、「死にそうだった人が意外にも生き返った」と驚き、その後、郭さんの母も修煉を始めた。 

 二、中共当局が殺人を犯す 

 1999年7.20、郭さんは法輪大法を修煉してまだ1年にもなっていない時、中共が法輪功に対して天地を覆い隠すほどの迫害を始めた。郭さんは心の中で「刑場に行っても最後まで修煉する」と決心した。そこで、郭さんは毅然として北京へ陳情に行った。 

 (1)610弁公室が警察・検察院・裁判所を操縦、町内会が系統的に迫害を実施 

 1999年10月、郭さんは北京へ陳情に行き、北京の警官に拘禁された。郭さんは自分の名前・住所を一切言わず、断食をして迫害に抗議し、11日後に解放された。1999年から2001年まで、郭さんの勤務先はわずか200元の生活費を支給し、給料を引いたがいかなる領収書もなかった。 

 2001年2月24日、郭さんは「天安門焼身自殺事件」の真相を暴く資料2枚を配ったとして、610弁公室と警察に家財を没収され、チン州市の第2留置場に拘禁された。2カ月後、警察は家族から3千元をゆすり取った。 

 郭さんは家に戻った20日間後、5月13日の前に、チン州市の610弁公室は郭さんの勤務先に指示し、郭さんを市内から40キロ離れた工場まで騙して連れて行き、6人の監視役を配置して郭さんを3カ月近く軟禁した。 

 2001年7月19日、チン州市610弁公室と北湖公安支局の警官は、郭さんが同修に法輪功書籍を手渡したという理由で、再び郭さんを連行した。7、8人の警官は蘇仙ホテルの部屋で、郭さんを皮ベルトで叩いたり、革靴で蹴ったりして、また郭さんを跪かせて煉瓦で押さえた。警官は「考え直すまで跪け」と大声で叫んだ。郭さんは16時間跪いたままで、全身が青紫色になった。ホテルの部屋代は郭さんに負担させた。 

 留置場では、郭さんは頻繁に暴力を受け、口と鼻のあたりは血痕だらけになり、しかも毎日12時間以上労役をさせられていた。主にクリスマスの飾り灯を作り、ノルマを完成できなければ殴られる。 

 2001年10月26日、郭さんは再度連行された。2002年1月8日、北湖区の裁判所は開廷して裁判を行い、罪名を捏造した。裁判長・曾徳華が「まだ修煉するのか?」と聞いた時、郭さんは「今、私を銃で撃っても、やはり修煉します」と答えた。郭さんは不当に懲役4年を言い渡された。 

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/6/19/275548.html)
 
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