「精神七分、病気三分」から考える
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文/大法弟子 清之蓮

 【明慧日本2013年8月30日】十数年修煉してきた古い同修が病業の仮相に惑わされ、妨害を受ける中、頑固な観念に囚われている父親を説得する中で、私は「七分は精神的要素によるもので、三分が病気です」(『轉法輪』)の作用と反作用を実感し、もしこの七分の精神の力が堅い信念の方にあれば、それが正のエネルギーとなり、三分の邪気を解消できます。天道は正を助け、邪を駆除するので、人間は天意に沿って行動し、大法に同化すれば天道に適います。

 世間での表れとしては、人間の正義良知は凛々しい正気であり、中共の邪霊の毒害は腫瘍の悪性転化に等しいです。人心の帰属選択は、正邪の比例がその人にもたらす作用力、そして近い将来、その人に関わる環境の良し悪しへの転換を決定付けます。身体という小宇宙での表れとしては、病状や苦境に遭遇する際にどんな気持ちで理解、対処し、七分、三分の取捨選択によって病状の悪化または好転、そして苦境の悪化または吉祥の現れが決まります。強靭な意志力は主意識が強いことの現われで、道理を理解し、最後に実行できることこそが師と法を信じ、大法を実証する事の現れです。

 私の父親は現在70歳過ぎて、修煉の門をまたいでいる状態です。何故そう言うかと言うと、彼は94年から95年の間に法輪功を修煉したことがあって、北京での『轉法輪』の初出版の式典でも師尊に会い、その前後の数カ月間大法を修煉しましたが、大法の本に線を引いたり、マークしたりして、私が法を得てから彼は修煉を止めました。彼はどうしても邪党文化による洗脳の毒害を受け、彼自身の正しくない要素に左右され変異した思想を持っています。十数年来、彼は時折思想が明晰になり大法を称揚し、時折大法を誹謗中傷し、これの繰り返しです。彼のこの一連の行動に対し私は憤慨し、不思議に思い、時には無視もしたりして、数多くの説得を行いました。例え彼が私の父親でも、大法に対して言った大小問わずの誹謗中傷を前に、私は彼に厳しく言いました。「真相や道理を教えました。機会も多く与えました。地獄と天国を自分で選択して下さい」 落ち着いてから思ったのですが、彼は邪党に洗脳され、白黒を逆に教えられ、感覚が麻痺している可哀相な中国人の一人でして、彼のために考え、彼の思想形成の根源を探り、私は疲れを知らずにずっと真相を伝えてきました。

 しかし十数年来、父親は幾度も危機から救われ、神仏に保護されました。私はその理由を知っています。一つは父親が直に師父の説法を聞いた福があって、もう一つは私が修煉しているからです。

 一、彼自身もこれが最も危険な経験の一つだと思っていますが、彼は一台のマイクロバスに衝突され、3メートル先に跳ね飛ばされて地面に転んだことです。ドライバーや周囲の人々は彼を病院に送ることを勧めましたが、彼自身、何の異常も感じなかったので、ドライバーを行かせました。通行人は念のため、車のナンバーを控え、彼に教えてくれました。

 二、彼は平らな場所でも躓き、何回も転びましたが、身体に何の異常もありませんでした。ある冬の夕方、父親は家の近くのバス停留場でバスを降りた途端、仰向けに倒れてしまいました。今の中国大陸の人々は自分に害が及ぶのを恐れ、父親が倒れているのを見ても、誰一人声をかけませんでした(父親の記憶では、彼は十数分、そこに横たわっていました)。その後、父親は意識が戻り、自分一人で家に歩いて帰ってきました。躓いて倒れただけでなく、北京の冬は極寒で、若者でも危ないのに、老人が意識を無くし、冷たい地面にあれだけ長く横たわっていたことは非常に危険です。

 三、兄が言いました。「私は直に見ましたよ。お父さんは家で真っ直ぐにうつ伏せで倒れても、これほど高齢にも関わらず何の異常もありませんでした。私だってどうなるか分からないのに、本当に奇跡です。同僚に言っても皆が不思議に思っていました。私はこれが大法のご加護だと思いますよ。私自身の健康も大法からの恵みだと実感しています。大法の悪口を言わせるために全世界の富を与えられても私は断ります。お父さん、なぜ分からないですか? しっかりして下さい!」

 四、十数年前に母親がこの世を去った後、父親は長い間意気消沈し、母親が薬を飲まず、病院へ行くことに拒んだが故にいなくなったとずっと思い込み、胸を塞いでいました。ある日、夢の中で、私は岸辺から父親が両手をズボンのポケットに入れ、前を真っ直ぐ見ているものの、目の焦点が定まらないまま石橋を渡っているのを見ました。耳元で、誰かが「それは仕方のない橋です。それがあなたのお父さんではありませんか?」と囁きました。私はやっと状況が分かり、岸辺から飛んでいて、後ろから何回も彼を呼び止めました。彼は全く聞こえず歩き続け、橋を下りようとしていました。私は彼の真正面に回り、焦点が定まらない彼の目を見て、「お父さん!」と呼びました。彼ははっと我に戻り、私の幼名を呼びました。私は彼に行き先を尋ね、彼は昌平(そこには多くの皇家のお墓があって、北京の有名な十三陵はまさにそこです)へ行くと答えました。私は行ってはいけませんと言いました。夢から目が覚めた翌朝、私は早速彼に電話をかけました。従兄弟は彼を自分の母親の家に連れて行こうとしていて、乗車券も買ったそうです。私は行かないよう勧めましたが、彼は誰が何を言っても行くと言いました。午後、再びお父さんに電話を入れたとき、彼は行かないことにしたと言いました。理由は、路肩にいた占い師が彼の後を追い、こう言ったからです。「あなたからお金をもらわなくてもいいから、八卦の一つをお送りしたいです。近頃、遠い旅に出ることを控えてください。生命の危険があります。」

 その後の数日間、彼は目つきが驚き恐れ、放心状態になって、居ても立ってもいられない様子でした。私は大法の真相や修煉の道理を彼に言い聞かせました。彼は初めて真面目に私の意見を聞き入れ、こう言いました。「あなたの話を聞いてやっと心が落ち着きました」私の説得の下、彼は『轉法輪』を三回繰り返し読み、再度彼に今後の機縁と大きな幸福を打ち立て、彼の気持ちもついに安定してきました。

 断片五、私は用事で北京から遠く離れ、ある日の未明、右目の瞼がずっとびくびく動ました(中国では、良くない事が発生する兆しとして考えられている)。正念で制することが出来ず、功を煉った後もずっと動いていました。私は真っ先に旧勢力が按排した妨害の要素や仮相による作用を否定し、そしてその背後にある要素も排除しました。自分は大法弟子ですので何の問題も起こらないと思いました。家を出る前のお父さんの状況を思い出し、もう一人の病業の関を乗り越えている北京の同修のことも気掛かりで、二人が心配になりました。そしてすぐにこれが情だと気づき、このことは旧勢力が彼らに迫害を加える口実になるかもしれないとも心配になりました。しかし、この種の心配をすること自体、旧勢力の存在を認めてしまうことになるので、一切のことは師父の意思、師父の按排によるもので、師父は最も良い按排をして下さることを考えると、自分は無駄な執着をしている気がしてなりませんでした。他人を妨害し、取り除くべき観念に左右され、正念の力を自ら抑制したと思うと、私は心配する心を放下し、何の問題も起こらないと自分に言い聞かせました。

 二日後、北京に戻ると、父親は数日前の出来事を私に教えてくれました。数日前に家のガスコンロが燃えて、それと繋がる天然ガスの軟管まで火がついて、父親は火のだるまの中に手を入れてガスのバルブを閉めたそうです。当時は非常に危険でした。その後専門業者に頼んで新品に交換してもらいました。しかし、父親の火の中に入れた手は全く無傷で、彼の話を聞きながら、私は師父が再度彼を保護されたことを確信しました。

 度重なる不思議な出来事を前に、それでも父親は大法の修煉に対し少し不満の声を上げています。「俗世の幾億人を毒害す」(『洪吟二』「淘」)この中共の統治の下、彼は臆病で、気が弱い自己保護の性格を形成し、徐々に人間としての本分を失い、それでも隣人に良い人と称されています。彼は堕ちてきた観念を持って今日の世の事々を評論し、自分で考える習慣や能力を放棄し、他人の言論を受け売りし、ストックホルム症候群がすでに骨髄までに浸透しました。70歳を超えた父親は、時々身体のあちこちに病状が現れますが、彼は針小棒大の問題処理方式で自身の苦痛を重くし、彼の大法に対する敬信の具合や中共邪党を見抜く能力と、彼の体に現れてくる病状とも、ある意味では彼の観念の作用とも因果関係があります。真相を聞くことで彼は何回も思想を洗浄されましたが、しかし主意識の怠惰ではっきりした認識がなく、糸口をしごくことができないので、自覚せず、無意識の内に邪党を擁護し、大法の修煉を正しく評価できませんでした。

 毎回、彼にこの種の思想や苦痛が現れるとき、時々出来てくる邪党の無神論観念に毒害され、自分を傷つける彼を見て、私は初めてのように彼に説明し、事の是非を一緒に分析し、観念の奴隷になっている彼の苦痛を減らしてあげようとしました。数年の蓄積で、彼は徐々に真相を知り、努力して業を作らない中で自分の思想や一部の正確な是非の判断基準を持つようになりました。内心の正邪の交戦の中で、邪悪は正に勝つことはありません。旧勢力の按排も、彼が真相を知った上で行った選択の中で、大法によって解体されていきます。

 同時に、私は大法弟子が慈悲であるべきで、観念を持って人やことを判断してはならないことに思いつきました。物事の現れは必ずしも見たとおりではなく、衆生を救うこともわれわれ自身を修煉し、大法を円融することで、決して容易に放棄してはならず、観念を取り除いた後は必ず別世界が現れ、違う次元の法理が現れてきます。「精神七分、病気三分」と同じように、観念の違いで耐える病気の大小や、思い通りにならないことの具合が変わってきます。人々は往々にして見に見える三分を強調、固定したがり、その仮相に惑わされ、甚だしきに至っては自分や他人に害を招いてしまいます。主導的な作用のある七分の精神は、見えないが故に忘れ去られてしまいます。精神は死亡を招きます。私達の衆生に対する態度も彼らが救われるかどうか、この世に残されるかどうかに影響を与えています。

 常人である私の父親でさえそうなのですから、私達大法弟子はなおさら生命を失う心配をすることはありません。正法時期の大法弟子の身に現れているいわゆる病業の仮相は、一定程度では自分の人心や観念がそれを認め、旧勢力の按排を受け入れ、病業の仮相による試練に屈したからだと思います。この迫害を認めれば、旧勢力の存在を認めたことと同じではありませんか? 病業の仮相を前に、自分は人間か、神かというあなたの一念が自分を位置を決めてしまいます。人心があれば生老病死は当然で、神念であれば、業力から解脱し昇華していきます。違う心性が違う結果をもたらします。

 病業に悩まされている同修を見ると、彼らは最初苦痛の中で恐れ、その後正念が弱くなっていき、長時間病状が好転しなければ意志が消尽し、人心の妨害で智能も乱され、それから外に向けて関を乗り越える方法を探し求め、最も重要な正信が見落とされました。その正信の根本が揺らいだことは、旧勢力が迫害を行う口実、手段、そして迫害が出来た漏れです。

 私の父親であれ、同修であれ、いわゆる病状が現れるとき、私はいつも彼らの正信や正念を加持し、彼らに関を乗り越えてもらうにはこうするしかないと思ったからです。そして師父は私たちの善心と向上心を求められているからです。

 個人的な浅い見識ですが、妥当でない部分があれば同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/8/12/278011.html)
 
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