文/スペインの大法弟子
【明慧日本2013年10月27日】師父、こんにちは! 同修のみなさん、こんにちは!
私はスペインから来た修煉者です。2006年に修煉を始めました。最近、ニューヨークの法会で師父はヨーロッパの修煉者が神韻に関して消極的だと言われました。数年来、私も同様な質問を受けました。どうして多くの修煉者は法を実証するプロジェクトにあまり参加しないのでしょうか?
多くの時、私はいつも外に向けて原因を探しており、内に向けて自分の原因を探したことがありませんでした。私が初めてこの問題を意識したのは「各地での説法九」の『二〇〇九年ニューヨーク国際法会での説法』を学んだ後でした。師父は次のように説かれました。「管理をする側に責任があり、協力する側にも責任があり、いずれも責任があります。皆さん考えてみてください。私たちはいつも相手が協力しないとか、管理者に問題があるとかを言っていますが、いずれも外に向けて探し、外に向けて修めており、相手の間違いを探しています。なぜ自分を探さないのでしょうか? 本当にしっかり行い、正しく行うことができたら、相手はどのようにあなたを見るのでしょうか? 責任者は急いで仕事を進めたいと思っていますが、自分のどこがしっかり行えず、学習者がなぜ自分の話を聞いてくれないのかと考えないのでしょうか? ですから、必ず考えなければなりません。それが修煉なのです。それがすなわち、修煉なのです」
私は内に向けて原因を探さなければならないとはっきり分かりました、どうして多くの同修がスペイン大紀元のプロジェクトに参加しないのか原因を見つけました。それは私の同修に対するマイナス思考が直接このプロジェクトに影響して、他の空間で同修が共にプロジェクトに参加する隔たりを作ってしまったとはじめて分かったのです。
私ははじめてすべての同修に対するマイナス思考を取り除くことを、毎回の発正念に加えました。数カ月の間、同修に対するマイナス思考が出てくるたびに、私は最大の努力を尽くしてそれを抑制しました。
このようにした後、状況は間もなく変わりました。2人の同修が私に電話をかけてきて、この真相を伝えるプロジェクトに多く参加すべきだと言いました。また、彼らは何か手伝えないかと聞きました。この2人は現在もずっとこのプロジェクトの主力として活躍しています。
間もなく、私達3人はスペイン各地区の修煉者と集まり、どのようにすれば、もっと多くの同修たちが参加できるかについて交流しました。その結果、約40人の学習者が参加してきました。
しかし、ずっと正念を保つことはとても難しいことでした。私は同修に対するマイナス思考が再び現れることがあるので、何人かの同修が入ってくると同時に、数人の同修がやめたり参加の程度が減るのです。
同修に対しても忍の心が必要
師父は『轉法輪』の中で「大法は無辺であり、すべてが心の修煉にかかっています。修煉できるかできないかということは、あなた自身が忍耐することができるかどうか、代償を支払うことができるかどうか、苦しみに耐えられるかどうかによって決まります」と説かれました。
この言葉は数えきれないほど読んでいましたが、どうして心に入らないのか、最近私はその原因を見つけました。
新聞を発行するためには経済的なことが心配なので、ある同修に大紀元の営業に参加しませんかと聞いたことがあります。彼の答えは「他のプロジェクトで忙しくて、これ以上大紀元のことに協力できません」ということでした。私は悲しかったのです。その後、数日その同修を見下して、マイナス的に感じるようになってしまい、話す態度さえ悪くなりました。私はとても悩みました。そして何日もかけてやっと内に向けて探すべきだと意識しました。私はどうしてこんなにだめなのかと考えました。
まず、私は三つのことがきちんとできていませんでした。仕事をすることを修煉よりも上に置いていました。しっかりと学法することができず、学法に集中することに努力しませんでした。発正念もだめでした。発正念の時にいつも他のことを考えていました。睡魔に邪魔されて毎週一回か二回しか煉功せず、時間がないと言い訳をしました。なにか荷物を背負っているように重いと感じました。
当然のことですが、三つのことをまずしっかりとしなければなりません、修煉を何より優先しなければなりません。難しいことですが、だんだんと学法をきちんとできるようになり、発正念の時に集中できるようになり、煉功の時間を増やしました。これらすべてが私の状態を正してくれ、本当の自分を見つけることができました。
その後、ある日の朝、私は「忍」をもって困難に立ち向かうことがどれだけ重要かを悟りました。「忍」はより速く困難を解決することに役立ち、私の心性を向上させてくれたのです。
師父は『轉法輪』の中でこう説かれました。「心性とは何でしょうか? 心性は徳(徳は一種の物質)をはじめとして、忍耐すること、悟ること、捨てること、常人の中の様々な欲望や各種の執着心を捨てること、さらに苦しみに耐えることなどなど、多くのものを含んでいます。人の心性の各方面を全面的に向上させて、はじめて本当に上昇することができます。これが功力を伸ばす肝要な要素の一つです」
私は師父の話からもっと理解を深めました。師父は『轉法輪』で「われわれは、トラブルに直面した時、一歩引き下がれば世界が広々と開けると言っています。間違いなく違った世界が現われるのです」と説かれました。師父の話を心に銘じて、困難に遭った際、心配するのではなく、落ち着いて内に向けて探して問題を解決するようになりました。まだそんなにうまくはできませんが、しかし、私は努力を惜しまず、以前よりずっと意識して内に向けて探しています。
「忍」が向上することにより、私と同修の関係が改善され、身の回りの物事がずっと順調になったのをこの目で見ました。ここで少し進歩しましたが、まだまだ「忍」の修煉にもっと努力しなければなりません。これからもっとうまくできるようにしたいと思います。
善の心を修める
私は心の中で他人に対してとても厳しく、いつも言葉でそれを表しています。同修に対して、もっと上へ上がるように修煉してくださいとか、大法のためにより多くのことを頑張ってくださいとか、執着を取り除いてくださいなどと要求しています。彼らの出来ている一面を見るのではなく、うまくできていない一面だけを見て責めていました。同修の執着に対して、彼らはまだ取り除いていない執着に過ぎないと理解するのではなく、彼ら自身のことだと思い込んでいました。彼らが執着を取り除くために私はどうすればいいかと考えるのではなく、彼らの私利私欲とか、無精とか恐れる心が重いと思っていました。
これらのマイナス思考は他の空間で汚いものを形成し、「真・善・忍」に同化することを妨害しています。これは一種の業力です、この業力が増えるにつれて、私たちの修煉はますます困難になります。これらの業力は私たちを宇宙の特性から引き離すのです。表面から見れば、三つのことがきちんとできている修煉者でも、これらの物質を取り除こうとせず、逆に増やしてしまえば、この業力は強大な病業に変わってしまう恐れがあります。これはとても重要なことで、私たちはこのことを重視しなければなりません。
最近、私は忍を修めれば、もっと善になることに気づきました。それによって、執着というものが同修の身の外に加えられていることが見えるようになりました。心の底から同修が執着を取り除くことに役立ちたいと思い、心の中で同修に対する理解と慈悲を強めました。これこそ巨大な威力を持っており、瞬時に同修の執着のため間隔を作っている邪悪要素を解体することができました。同修の反応も積極的でした。心から生まれた善は自然に同修の心に届き、わざわざ表現する必要はありませんでした。
1週間前に私は大紀元に参加している同修に電話をして、はじめてみんなを集めて、一緒に学法と交流をしました。以前、私はいつもメールで会議を召集していました。それで十分だと当時はそう思っていました。しかし、その後、会議の時に数人しか参加しないと分かった時に、頭にきて、参加しない人たちに対してマイナスに捉えていました。しかし今度は違います。私は同修に対してマイナスに考えることをやめました。不愉快なことが全くなかったかのように、以前私が愚痴をこぼしていた人にまで電話しました。結果は以前のどの会議よりも参加する人が多かったのです。交流の中で何人かの同修は私が直接電話をして会議を召集したことに感動したと言い、ある修煉者は「あなたから電話をもらった時に、行くべきだと直感し、何も考えずに『はい、行きます』と返事をしました」と言いました。いつもと同じ話をしただけでしたが、違ったのは私の心が変わったことでした。
この交流体験を書いている時に、ある同修が「会議に呼んでくれて、ありがとう」と電話してくれ、もっと多くの時間を営業に尽くすために、もう一日新聞の配布に参加してもいいと言ってくれました。翌日新聞を発行する直前、もう一人の同修は私が営業に集中できるように、新聞の発行量を分担したいと言ってくれました。この数カ月の間、私は営業にもっと時間を尽くすために、ずっと同修に手伝ってくれるように頼み続けてきましたが、今度の会議になってやっと同修のサポートを得ることができました。私の心が変わったからです。
私はまだ引続き善を修めなくてはなりません。自分に善が足りない主な原因は自分自身を気にしすぎることだと分かりました。
協調人は謙虚であるべき
修煉の最初のころ、名誉や評価されたいという顕示心が強かったと私は気づきました。その時からずっと、この方面の執着を抑えようとしてきましたが、これらの執着は異なるすべての次元にあります。法に照らした際、このような執着がまだまだ存在していると気づきました。それは同修たちにマイナスの影響をもたらしました。
自分の能力は法を正す師父を手伝うために師父が与えてくださったことを忘れ、自分の能力だと自慢していました。自分はできる人で、自分の主張が最も正しく、自分の理解が最も適切だと思い込んでいました。よく考えもしないで、すぐに他人の意見を否定し、同修たちに挫折を感じさせ、彼らはだんだんとプロジェクトから離れてしまいました。
それに、私は師父が同修たちに与えられたノウハウを見ようともしませんでした。私は心の中で彼らが潜在能力を発揮することを妨げていました。彼らの能力を疑い、常人と比べて大法弟子一人一人が一をもって百に当たり、一騎当千だということを忘れていました。
もし、私がもっと忍と善に従えば、師父の話を覚えることができ、大法弟子は超常なので、私の協調人としての仕事は同修たちを励ましたり協調したりして、学習者みんなが衆生済度の中で最大の役割を果たすことができるのです。
更なる忍と更なる善をもって、自分を実証することを無くすことは、多くの同修たちに参加してもらったプロジェクトの協調人の重要な特徴です。
この協調人たちの純粋な心を見て私は涙を流しました。どうして彼らが多くの修煉者に法を実証するプロジェクトに参加してもらい、プロジェクトを成功させることができたか分かりました。
知らないうちに、私がプロジェクトに参加できないと思った同修に対する見方を、彼らは変えました。彼らは同修たちに対して、私よりもっと多くの善と忍を持っていたのです、彼らは同修に能力をうまく発揮させ、プロジェクトを大きく成功させたのです。彼らに感謝します。彼らから善と忍の上限を設定してはならないと学びました。私は同修の能力を制限してはならず、私は謙虚でなければなりませんでした。
私は以前、自分は謙虚だと思っていましたが、しかしそれは常人の基準で自分をはかっていたのであり、法をもってはかったわけではありませんでした。他の協調人を見たとき、彼らの謙虚さと比べて、私はまだまだ程遠いのです。彼らのレベルに向かって努力しなければなりません。
初志貫徹して修煉する
もっと謙虚になるために、まずはさらに精進して三つのことに努めなければなりません。もっと法を学び、もっと発正念し、真相を伝え、毎日煉功しなければなりません。こうしてこそ強大なエネルギーを持って、すべての事を順調に完成することができるのです。
師父は『大紀元会議での説法』で次のように説かれました。「あなたはここでどの仕事を担当していても、あなたの修煉の次元の高さを意味しているのではありません。あなたが精進しているかどうかのみを見ています。修煉なので、神佛は人心しか見ておらず、自身の修煉が精進しているかどうかしか見ていません」
また、師父は『二〇一三年大ニューヨーク地区法会での説法』で、「初志貫徹」して修煉するという重要性を次のように説かれました。「いつも師父に『以前法を読むとき、次元の向上が早く、本を読むとき認識したものが次から次へと現れてきますが、なぜ今はそういうことがなくなったのか』と言っている人がいます。皆さん自分で考えてください。あなたは『初志貫徹』して修煉しているのでしょうか?」
ここで同修たちにお詫びします。私が謙虚でなかったことを許してください。今からできるだけ修煉を第一に優先し、問題があったら内に向けて探します。私はもっと善と忍を持って同修と接し、私たちはともに法を正す師父に手伝い、もっと多くの衆生を救い済度するために力を尽くしたいと思います。私は師父をがっかりさせません。私の先史の誓約を実行して私の天国に戻ります。
師父、ありがとうございました
同修のみなさん、ありがとうございました。
(二〇一三年ヨーロッパ法輪大法修煉体験交流会で発表)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/8/23/141658.html)