明慧法会|創作の中で心を浄化する(三)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年11月22日】

 名を求める心を取り除き 純正な心で文章を書く

 自分は情が重くて、名を求める心が薄いと思っていました。しかし創作の過程で、私はこの心が異常に強いことに気づきました。良い考えがあれば、心がうきうきして、絶対採用されそうだ、きっと褒められると思ったりしました。一方、外部に邪魔されると、時間を無駄にしてしまったと思い込み、情緒不安定になりました。このような情況が現れると、頭は熱くてどろりとした物質が充満し、ボゥとする状態が続き、仕方なく、筆を止めざる得なくなりました。私はそれによって酷く被害を受けました。しかし、それらを取り除く決意をなかなか下すことができませんでした。結局、私は自分には文章力がないとか、タイミングが悪いとかで片付けてしまい、心の中では、技能がさらに向上すれば、他の同修のように筆を執ると一気に書き上げられれば、妨害されることがなくなると思いました。しかし師父は私のこの独りよがりの考えを支持してくださいませんでした。それどころか、私はかえって大きく転びました。

 あの頃、私は文章を書くことはとても辛い公務だ、という心理がありました。身につけている知識が不足しているため、毎回事前の資料調べにとても気力を使いました。私はこの状態から抜け出したい、楽になりたい、思いのままに書きたいと思いました。しかし、この不精進の心1つで、その後の多くの文章はすべて採用されなくなりました。私は原因を探しても分からず、その苦しみに悩まされました。一方、私は諦めきれず、他のメディアを試してみようと、自分の文章が本当に駄目なのかどうかを確かめて見ようと思いました。初めての投稿なので、私はよく考慮した上、署名しないで(偽名)原稿を送付しました。思いがけない事に、この明慧ネットに否定された文章は、その他のメディアに特別報道の形式で掲載されました。私はしばらく呆然としました。どうして明慧ネットは他のメディアとの要求がこんなに違うでしょうか。さらに残念だったのは、自分が署名しなかったため、有名になるこの機会を逃した事を、私は惜しんでたまりませんでした。しかも、その悔しさはとても長い時間続きました。

 私が悔しい気持ちに溺れていたとき、「無意識」に、メディア上で誰かが「虚名に執着することは、自分の創作に自信がないことの表れである」と言っているのを見ました。この言葉はまったく私のことを言っているではありませんか。実は私は、自分の内心の虚弱さをはっきり分かっていました。しかし、「私は創作の道で試行錯誤している新米であり、自分に自信はたっぷりあるが、ただこのようなチャンスは二度と巡り会えないから惜しんでいるのだ」と自分に対してしきりに弁解しようとしました。このめちゃくちゃな考えが泡のようにひたすら浮かんできて、私を「虚名」の二文字に直面させないよう、私を遮断しようとしました。

 師父は「名声に執着するならば、有為の邪法で、もし世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します。」 [1]とおっしゃいました。修煉者として、「名」の危害の大きさをすでに知っているのに、どうしてこんなに捨て難いでしょうか? 私は同修の前で、幼い頃から大人になるまでの、似たような心理状態をさらけ出して分析しました。そうすると意外にも、例えば虚栄心、色心、安逸心など、私がまだ取り除いてない根本的な執着心に帰結しました。実はこれらの心は、全て私が前に言及した報復したいという幻想の背後に潜んでいました。

 同修の助けのもとで、私はついに落ち着いて、自分の愚かさが見えてきました。同時に私は明慧ネットに否定された原因も分かりました。師父は「文章は素朴で正確かつ清らかであり、人間の情のない文章は常人には書けるものではありません。なぜならば、修煉者の内なる境地は清らかだからです。」 [2]とおっしゃっています。しかし、私があの数編の文章を書いたとき、心の中で自己を表現したい、自分を顕示したいという気持ちが強く、掲載された後に自分が陶酔する姿を想像し、また功、名を求めて満足感を得ようとし、さらに安逸や怠惰を求める気持ちもありました。これらの強い自己顕示の気持ちが、どうして大法の私たちに対する要求に到達することができるでしょうか?

 この時、当初の事を思い出しました。初めて編集部の同修が私を励ました時、私の文章は清らかで、基準に達していると言われました。これはもしかすると「純正な心で書いた文章は大法が必要とするものだ」と私に注意を促しているのではないでしょうか。なぜなら、そのような文章は真・善・忍に対する実証であって、1人の修煉者の慈悲の心の真の現れであるからです。このような文章でなければ、衆生を済度することができません。これこそ、明慧ネットと常人メディアの要求の違いではないでしょうか。

 純正な気持ちに戻ると、私が書いた文章はまたどんどん採用されるようになりました。私も以前のように文才が乏しく、頭が冴えない状態がなくなり、楽に書けるようになりました。他の同修に比べたら、まだまだ差がありますが、しかし、私はこれから努力する方向が見えました。それは「心で法を学び、純正で無欲な心を保ち、修煉者の最高の状態で人を済度する法器を磨き上げる」ことです。

 結びの言葉

 2年間の創作の道を振りかえると、本当に感無量です。この道は辛くて、耐え難い寂しさがあり、様々な悩みや苦しみがありました。しかしそれは大法修煉と一体になっており、その道の上に残されたのは常人には到底考えられない一連の神話、すなわち私はとても短い間にまったくの素人から成長し、さらに心の奥底に生まれ変わったような変化が起き、我慢すること、包容すること、自己を放下して、他人に協力することを習得しました。

 少し前に私は同修に「以前の私は火が燃えさかるストーブのようなもので、内心はせわしく動き、やむことがありませんでした。しかし、創作は私の生命に泉を注ぎ込んだように、私を次第に落ち着かせ、自分の頭で理性的に、世の中の人と事を見るようにさせてくれました。これは成長した大人になった証拠でしょうか」と言いました。同修もとても感心して、この二年で、私は確かに非常に成長したと言ってくれました。

 私の師父が、なぜ私にこの苦難に満ちた道を按排してくださったか、ようやく分かりました。特に私が心を静めて文章を書くとき、慈悲と善の念が現れたとき、最も師父の苦心が感じ取れます。その時、師父の慈悲なる済度に、私はさんさんと涙を流しました。

 弟子は師父に救われたご恩に何をもって報いることができるでしょうか。ただこれからの道をしっかりと歩み、もっと純正な心で、もっともっと良い文章を書き、もっと多くの人を済度する、それに尽きます。

 (完)

 [1]李洪志先生の著作『精進要旨』「修める者の忌」
 [2]李洪志先生の著作『新経文』「成熟」

 (明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2013/11/10/282151.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/11/143130.html)
 
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