明慧法会|寛容寛大から覚者の道へ(一)
■ 印刷版
 

 【明慧日本2013年12月8日】師父こんにちは! 同修の皆さんこんにちは!

 修煉の中で私がもっとも深く感じたのは寛容であることです。寛容は間隔を取り除き、協調を順調に運ばせ、歪んだ要因と邪悪を解体することが出来るからです。はっきり言えば、寛容は境界と慈悲の表れで、覚者の風格であり、大法弟子が備えるべき心です。私は実践の中でできるだけ寛容な心を持って他人に対処し、寛容な心を目指して絶えず自分を修めてきました。以下は三つの視点から自分の体得を述べさせていただきます。

 一、悔しい目に遭うことは良いことである

 修煉する前、私は体面をひどく気にする人間でした。何をしても完璧を求め、失敗を恐れ、他人に勝手気ままに論じられることを恐れ、メンツが潰れることを恐れていました。幼少時代から、学生時代へ、さらに社会人になってもすべてそうでした。常人の中で生きて来た人生の大半は、ほとんど称賛の中で過ごしてきました。自分が悔しい目に遭遇することは到底我慢できないものでした。

 私は地元で設備と消耗品の購入を担当する協調人です。私の地元で神韻DVDを大量に製作し始めてから、私が支払う資金は年間10数万元にも上りました。ある時、1人の同修がある事で協調する同修との間に意見の不一致が生じ、その余波が私にまで及びました。彼は、他の同修の前で、わたしの事を地元の最大の蝕むもので、さらに、私の孫が亡くなったのも私が大法の資金を使った罰だと言い張りました。それを聞いた私は憤って、興奮し、そのつらい思いはまったく抑えきれないものでした。もちろんその悔しさを表現する言葉もありません。私は即座に彼女と決着を付けてやろうと思いました。「もし私が大法の資金を使ったなら、私は雷に打たれて死んでもよい、もし私が大法の資金を使っていなければ、あなたは罪のない人に濡れ衣を着せることになり罰が当たる」と願をかけたいと思いました。

 その後、同修の仲裁により、一時怒りが収まりましたが、しかし、心はやはりいつも塞がって晴れませんでした。それから、その同修に会いたくなく、連絡したくもありませんでした。相当長い間、私はこのことを思い出すと心はすっきりせず、不当な扱いを受けたことで、悔しくてたまりませんでした。私は節約したお金を何度も大法のプロジェクトに補填し、邪悪の狂気の迫害の中で、私は危険を冒して法を実証しようとしていました。それにもかかわらず、かえって濡れ衣を着せられました。心の中では、本当に納得できませんでした。しかし、『マンハッタン説法』で、師父はこのように説かれました。

 「いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか? 人心をもって正しいかどうかを強調すること自体が間違っています。なぜなら、あなたは常人のあの理で自分を量っており、常人のあの理で相手に要求しているのです。神から見れば、修煉者がこの世において、正しいかそれとも間違っているのかはまったく重要ではなく、人心の執着を取り除くことこそ重要であり、修煉の中でどのように人心の執着を取り除くかが重要なのです。(拍手) いくら不当な仕打ちを受けても、平然として対処し、心が動じることなく、自分のために言い訳をせず、多くの場合、弁解する必要もありません。なぜなら、修煉の道のりにはいかなる偶然なこともなく、話をしている中であなたを刺激したもの、トラブルの原因である利害関係は師父が作ったものかもしれません。相手の話は非常に刺激的かもしれませんが、あなたの痛いところに触れたから、刺激的だと感じたのです。本当に不当な扱いを受けたかもしれませんが、その話は必ずしもその人が言ったのではなく、私が言ったのかもしれません。(皆笑って) そのとき、あなたがどのようにこれらのことに対処するのかを私は見ており、相手に口答えをしたら、実は私に口答えをしたことになります。(笑)(皆笑って、拍手) 今日はここまでにしましょう。その物質は私が全部取り除いてあげますが、養われた習慣を皆さんは必ず除去してください。必ず、必ず除去してください」

 この時、やっと分かりました。これは師父が私を内に向けて探すように導いてくださったのです。この事は、いったい私のどの心から来たのでしょうか。私は反省して、内に向けて探して見たら、驚きで冷や汗をいっぱいかきました。なんと、メンツを重んじる心、名を求める心、不当な扱いを受けたくない心、不平不満をこぼす心、嫉妬する心、自我を主張する心などなど、ぽろぽろ出来てきました。総括して見れば、やはり度量が狭く、同修を包容する心がなく、慈悲で善の心がまだ出ていないことに帰します。つまり、自分の容量を増大させ、次元を高めるべき時期に来ました。「海百川を納る、容るる有りて乃ち大なり」(訳:海は、全ての川の水を受け入れるから、あのように広大な海になった)。私に優しくしてくれれば、私も優しくしてあげるというのは常人のレベルに過ぎず、私に優しくしてくれなくても、怨みや憎しみを持たず、優しくしてあげられるのが修煉者の境界です。この時、私はやっと悔しい目に遭うことはよい事だと理解しました。私が観念を変えたとき、目の前にまったく別の光景が広がりました。心は清清しくなり、息もさわやかで、苦境から一転して希望が見えて来ました。

 その後、この同修が私の心性を向上させるために手伝ってくれたことに心から感謝するようになりました。私は自らこの同修と連絡を取り、昔と変わらず、まったく何も起きていないかのように接しました。しかし、彼女は私の前で、とても不自然な表情をして、やましさを感じていたようでした。その後、私達の間はとてもよい協力関係を築きました。この事を通じて、私は寛容が対立を解消できることを体得しました。また、寛容は善と慈悲の心の現れで、覚者に向かう者が持つべき心境であると感じました。師父の大法は私の困惑を解いてくださったのです。複雑な世の中に直面して、不等に扱われ、悔しい目に遭わされた時、慈悲と寛容な心を持って対応できるかどうかは、私に出された厳しい課題でした。私は師父に、また私に計り知れない期待を託した衆生に優秀な答えを提出しなければならないと思いました。

 二、情を乗り越え、慈悲の心で衆生に対応する

 修煉する前、私は生活と仕事の中でいくつかの恨みを作っていました。時にはそれを思い出すと、まだ激しく沸き返って来たりします。また、真相を伝え、人を済度するときにも、少し人を分別する心もありました。しかし師父の法を思い出すと、そのような人を選ぶ考えや優しくない気持ちがすぐ排除できて、寛容寛大で、慈悲の心も自然に生まれてきます。

 25年前の1人の人のこと(今共産党の司法部門で仕事をしている)にことを覚えています。この人は人格が良くなく、私を誣告して罪に陥れたことがありました。修煉前、私は彼のことを骨の髄まで恨んでいました。修煉して十数年、私はそのことをすっかり忘れていました。しかし一昨年、ある同修が私達の地元の司法部門の十数人の名簿と電話番号を持って来て、明慧ネットに転送して欲しい、海外の大法弟子に彼らに真相電話をかけて、三退を勧めてほしいと言われました。私はまず一番に、私を誣告して罪に陥れた人の名前を見ました。わたしの心は未だに癒されておらず、彼の名前を転送したくありませんでした。しかし、私は師父が説かれた「人を済度することは即ちすべての人を済度することであり、人を選ぶことは慈悲ではありません」[1]を思い出しました。今回、私はすぐ警戒しました。私は常人と同じレベルの認識ではいけないと思いました。また、過去の怨恨はすべて転生輪廻の報いで、もしかしたら、私は前世で彼に借りがあり、あるいは彼を傷つけたことがあったかも知れない、この世で彼に返して、終わらせたので、彼に感謝すべきではないか、もしかしたら、私達の間には大きな縁があったかも知れないし、もしそうであれば、彼を救うべきではないかと思いました。このように考えて、慈悲と寛容な気持ちが湧いて来ました。私はすぐさま彼の名前と電話番号を一緒に明慧に転送しました。その時の心境は嬉しくて安らいだものでした。

 (続く)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/12/281638.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/23/143360.html)
 
関連文章