明慧法会|風雨が去り 小さな花が咲き競う
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文/中国安徽省の大法弟子

明慧ネット2013年12月10日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 私は謹んで、第10回明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会の機会を利用して、自分の修煉過程における僅かな体得ですが、偉大なる師父にご報告し、同修の皆さんと交流したいと思います。

 1998年、私は幸運にも大法と縁を結びました。私はこの千載一遇の機縁を大切にし、心を静めて真に修め、大法の修煉に没頭しました。1999年7.20、中国共産党が公然と大法への迫害を開始してから、私は派出所や「610弁公室」で彼らと議論しました。その結果、私は彼らの目のかたきとなり、私の家も3日にあげず妨害され、鶏や犬でさえ落ち着きがありませんでした。大法は私の心に深く結びついていましたが、しかし執着心が多すぎて、周囲の圧力に屈し、2年間、修煉を中止してしまいました。2002年、私は大法の修煉に戻り、滔々たる法を正す大きな流れの中に身を投じ、師父の「回帰する歩みを弛むべからず」[1]を忠実に実行しました。

 雨の日も風の日も前進する

 2002年、私達の近くのいくつかの郷、鎮にはまだ資料点がありませんでした。ようやく1編の新経文を得ても、すべて手書きで写し、回覧していました。私は市内に住むよく知っている古い同修を探して、彼らに頼んで、郷の第1号の資料拠点を立ち上げました。その後の数年間に、資料作りのための  見本を  取り出すと取り出すt取り出す取出すと取出す、消耗品の購入、印刷、資料の配分、全部ひっくるめて、上から下まですべて私一人で担当してきました。当時、最も困難なのは資金でした。その時、中共はとても凶暴で、資料点を特に秘密にしなければならず、大法弟子の寄付はとても限りがありました。私の家はとても貧しく、私はよく夫に黙って、自分のお金を補填しました。その後、師父に二度も助けられ、一度は、私が400元を拾って、もう一度は娘が抽選で500元を引き当てました。私達はすべて家族に黙って、それを資料作りに用いました。

 最も辛いのは、市内に行って、見本を取り、消耗品を購入することでした。私の家から市内まで約50キロ、市内であちこち買い物をする距離も入れると、1回の往復で約100キロになります。私は、週に1回、時には自転車に乗って、片道2時間、往復4時間かけて走りました。特に大量の消耗品を運ばなければならない時、私は三輪車で行くことになります。それはまた別の光景です。夜明けに、空いっぱいの星の下で家を出て、夜、暗闇の中を家に帰って来ます。また孫を連れて行かなければならず、時には1人、時には2人の孫を連れて行きました。資料点のお金を私は1元も使いません。同修は私が大変だと見て、私にお金や物をくれたりしますが、私は一切いただきませんでした。数年間、途中で、私は蒸しパン一つも買ったことがなく、温かいお茶を1口も飲んだことがありません。喉が渇いたら、河の水を飲んで、お腹が空いても我慢しました。何カ月かの孫の世話が一番大変でした。私は粉ミルクを携帯して、お店でお湯を頼んで、注いで孫に飲ませるようにしました。

 時々、自転車を走らせながら、シールも貼り、また『洪吟』も暗唱しました。『洪吟』、『洪吟二』はすべてすらすらと暗唱できるようになりました。今は『轉法輪』を暗唱しています。その間、雨の日、風の日、猛暑の日、タイヤがパンクした日、それらはすべて日常茶飯事でした。孫の頭は日に焼けて、あせもができて、小さな饅頭ぐらいの腫れ物になりました。2007年の大晦日、雪と氷の夜でした。それぞれの家庭では、食卓を囲んで除夜の夕飯を食べていることでしょう。私は三輪車に乗り、掛け布団で消耗品と孫を覆って、みぞれの中、飲まず、食わずで暗闇の中を数十キロ走りました。交通事故に遭ったこともあり、途中で自転車が破損したこともありました。しかし、いつも私は大丈夫でした。ある時、警官の前で資料を一面に撒き散らしたことがありましたが、私は慌てず、うろたえず、それを拾い、無事にその場を離れました。

 こうして6年間、3万キロを300回往復しました。風の中、雨の中、私は自分のために1元のお金も使っていません。河の水はたくさん飲みました。苦労もしました、辛さにも耐えてきました。しかし、私には悔いはありません。心の中はとても落ち着いて、幸せいっぱいです。なぜなら、法を正す師を手伝うことは、すべての大法弟子の最大の願いだからです!

 黒巣からの脱出

 2008年の夏、私は夢を見ました。夢の中で私はある試験に参加しており、楊という試験官は、試験時間は45分だと言いました。3日後、私は警官に市の留置場へ不当に連行されました。途中、私は誓いを立てました、「師父、ご安心ください。弟子は決して大法に泥を塗るようなことは致しません」

 私を担当した警官は楊といいました。彼は私に留置場の規則を暗記させようとしましたが、私は決して協力しませんでした。私は彼に対して『洪吟』を暗唱しました。「大法身を離れずして 心に真善忍存す 世間の大羅漢 神鬼は十分懼れる」[2]。彼が私に質問しても、私はやはり『洪吟』と大法を暗唱しました。彼は2人の受刑者に私を引っ張らせ、写真を撮らせようとしました。私は顔をそむけて、撮らせませんでした。私はずっととても健康でしたが、健康診断の時、医者は驚いて、「血圧が280、心拍数は速くて、数えきれない!」と言いました。また「すぐに入院治療だ」とも言いました。しかし、警官は「死なない限り、手放しはしないぞ」と叫びました。省から人が来て、もう一度、私に話を聞こうとしましたが、私はやはり『洪吟』を暗唱し、大法を暗唱しました。それから彼に「お前はまだ学ぶのか?」と聞かれました。私が「学びます!」と答えると、「まだ煉功するのか?」とさらに聞かれ、私は「煉功します」と答えました。私は思いました。「あなたには私を取り調べる資格なんかありません」。私はずっと発正念をして、邪悪を解体しました。すると、彼の携帯電話が鳴りっぱなしになり、結局、すべてをそのまま棚上げにしてしまいました。

 留置場に入ったばかりの頃、同じ監房のボスが私を殴ろうとしました。私は堂々と、毅然として「あなたにその資格がありますか? あなたにその勇気がありますか?」と聞きました。彼女はすぐに手を引っ込め、その後、再び私に指1本触れようとしませんでした。なぜなら、私はひっきりなしに発正念をし、大法を暗唱していたからです。同じ部屋の受刑者が「あなたは何をごたごた言っているの?」と聞きました。私は彼女たちに真相を伝えました。彼女たちは真相が分かって、三退をして、その喜びは言葉で表しがたいものでした。私は字が書けないので、彼女たちは「法輪大法は素晴らしい」を壁いっぱいに書きました。ある年配の受刑者は「法輪大法は素晴らしい」と念じて、病気が治りました。彼女はどうしても私をお母さんと呼びたいと言いました。私は「李洪志先生(法輪功の創始者)があなたを治療してくださったのだから、あなたは李先生に感謝してください。私たちは2人とも60代だから、姉妹ですよ」と言いました。彼女は断固として、「私は李先生に感謝します。しかし、あなたは私のお母さんです!」と言いました。

 その時、私ははっきりと師父が守ってくださっていると感じ、また、啓示してくださっているとも感じました。私はよく4人の護法の神を見ました。神々はとても高くて大きく、手には法器を持って、私に付き添っていました。しかしなぜか、みんなとても怒ったような顔をしていました。

 師父の按排のもとで、私はついに解放され、家に帰ることになりました。しかし警官は諦めず、私を表門の入口まで連れて来て「まだ煉功するのか?」と聞きました。私が「煉功します!」と答えると、警官はまた私を留置場に連れ帰りました。また私を表門の入口に連れて来て、また「煉功するのか?」と聞きました。私はやはり「煉功します!」と答えました。最後に、私が表門まで来た時、ずっと外で私を待っていた夫に怒鳴りつけられ、私はしばらくの間、感動して、小声で「煉功をしません……」と言ったとたんに、すぐに気がつき、直ちに大声で後をつけ加えて、「それはありえません!」と言いました。しかし、あの1秒間の過ちは、私にとって永遠に後悔することになりました。今に至っても、私は時々刻々その過ちを挽回しようとしています。

 警官は車で、私が家に帰るため、数キロ先のバス乗り場まで送り届けてくれました。私は留置場に全部で45日間拘束されました。家に帰って、師父は私に気付かせてくださいました。私はあまりにも資料作りに没頭したため、法をしっかり学ばず、邪悪に隙に乗じられ、迫害されたことを教えてくださいました。私はこれでやっとあの4人の護法の神がなぜあんなに怒っていたかが分かりました。

 「小さな花」が咲き競う

 古い修煉者の多くが次第に出て来るようになりました。また有能な新しい修煉者も入ってきました。資金や人手も潤沢になりました。私は一部の口をよく修めている修煉者と「花」を作ることを相談しました。彼らの同意を得て、私は彼らに手伝って、資料点を一つ、また一つと立ち上げました。これらの資料点は、それぞれ明確に分業していながら、お互いに知らないようにしています。パソコンから資料をダウンロードする所、印刷を担当する所、DVDの書き込みを担当する所、お守りを製作する所……などがあります。

 私はまず自分の教訓を彼らに話しました。すべての資料作りメンバーは必ず法を学び、心性を高めることを第一にしなければならないと強調しました。具体的な運営方法としては、それぞれの資料点が、私と直接連絡する方法しか取らないように決めました。消耗品は私から提供し、資料は私が発送します。こうすれば資料作りの安全が保証されます。このように法理と道理の両面から「漏れ」を塞いで、邪悪に乗じる隙がないように、資料作りの流れの安定と安全を保ちながら、資料の品質と数量を守るようにしました。

 私達は同時に、更に辺地の郷、鎮の資料拠点の設立を手伝いました。年が若くて体力のある人、信念の強い出稼ぎ先の古い同修達も、私達の助けのもとで、「小さな花」を異郷の地域にまで咲かせようとしています。

 トップに立つ

 次第に、私の家に来る同修がますます多くなりました。資料を取りに来る人、交流するために来る人、「充電する」と言って来る人、苦しんで難関を突破しようとしている人……、訪れる人は毎日絶えません。こんな状況になると、私は外出できなくなり、どうすればいいのでしょうか? 私は困惑しました。すぐに、私は夢を見ました。夢の中で楽団が合奏していました。私が弾く二胡は新しいもので、その上、主席奏者として演奏していました、目が覚めて私は思いました。弾く、弾く、つまり弾く人、歌う人、これは交流して切磋琢磨すること、比して学び、比して修めることです。主席というのは協調人のことではないでしょうか? 分かりました。師父が私をその位置に立つように望まれるならば、私はそのようにしようと思いました。

 ある日、真相を理解して三退もした村の幹部が来て、私に「明日、上から誰かが来ます。あなたは少し準備してください」と言いました。私は家の資料を少し移動しました。翌日、市から、県から、鎮から、5、6人が来ました。その人達の中の何人かがにこにこしながら私を囲んで世間話をして、他の何人かは家の中に入って見ていました。私はその人達に真相を伝えました。終始、すべて私1人が大声で話していました。彼らは逆に審問を受けに来たかのような感じでした。最後にやっと「あなたは共産党に対してそんなに残酷にしなくてもいいじゃありませんか?」と言いました。私は「私達は殴られても殴り返さず、罵られても、やり返しません。中国共産党は真・善・忍を修める良い人をあんなに多く殺し、いったいどっちが残酷ですか?」と言いました。帰る間際に、彼らはまた親切な振りをして、私に何か困っていることがあるかと聞きましたが、私は、「一番困っていることはあなた達が私達に法輪功を修煉させないことです」と言いました。最後に、彼らはみんなにこにこしながら帰って行きました。その後、彼らは二度と来ることはありませんでした。

 今、法を正す最後の重大な時機にきています。すべての中国大陸の大法弟子は誰もが自分を協調人と見なし、地元の全体の中に溶け込み、難攻不落の堅固な堡塁を形成し、邪悪に1分の隙も与えないように。すべての大法弟子が1人で10人、100人に当たることができるように、自分の最大の力を尽くして多くの人を救い、師父の要求に円容するよう望んでいます。

 師父にお礼申し上げます! 同修の皆様にお礼申し上げます!

 (明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 注:

 [1] 李洪志先生の詩『洪吟三』「観た所感」

 [2] 李洪志先生の詩『洪吟』「威徳」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/13/282149.html)
 
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