明慧法会|すべては師父がおっしゃった通りになる(三)
■ 印刷版
 

邪悪な黒巣の中、文章で真相を伝え

 

文/中国の大法弟子 正非

 【明慧日本2013年12月21日】(前文(一)前文(二)に続く)

 四、二通目の連名上告書の後

 この2年3カ月の迫害の中で、私が最も深く感じたのは「すべては師父がおっしゃる通りになる」ということです。

 労動教養所に新しい所長が赴任して来ました。この人は背が高くて、50歳前後でした。労動教養所に収益を上げるため、彼はある女性投資者からの出資を得て、50数台の機械を有する手袋の生産工場を建てました。投資側の条件は、すべての労働者が法輪功修煉者であることでした。

 この日の午後2時、所長は幹部達の付き添いで工場見学に来ました。私は二通目の上告書を所長に手渡しました。彼は何のことか聞きましたが、私は「昼ご飯の時に、刑事犯で今、炊事班の副班長を担当している人は、あの(法律小冊子をくれた)若者のポケットに手を入れたため、若者にその場で捕まえられました。しかし、彼はその若者のポケットに1枚の紙切れがあって、それは法輪功の情報を伝えるためのものだと偽って報告しました。一方、若者は彼が常習犯で、昼間に私のポケットに手を入れて、ものを盗もうと主張しました。当番した刑務所の警官は証拠がないにもかかわらず、法輪功修煉者を監禁しました。みんなはそれに不服で、ストライキを考えており、明日の朝食から絶食で抗議を始めるつもりです。詳しいことは連名署名した手紙を読んでください」と言いました。新所長は「私の返事を待ってください」と言って、見学の幹部達に追って行きました。

 午後4時、配達員は所長が中庭の大きな柳の下で待っていると伝えてきました。私はそこに行って座り、所長はすぐに「若者はすでに班に帰りました。私は担当警官を叱りました。彼は権限を越えました。私の同意がなければ、誰も人を監禁する権限がありません。あなたがタイムリーに情報を報告してくれたことに感謝します。さもなれば損失をもたらしますから。あなたは××の警備員になったことがあるそうですね……」と言いました。私は彼に「手袋工場はどうしてすべて法輪功修煉者を使うかお分かりですね。法輪功修煉者は『真・善・忍』を修め、いい人になろうとしています、これは誰も知っていることです。江沢民は個人の嫉妬から、人民の死活を顧みず法輪功に対する迫害を始めました」と私は言っている途中でしたが、彼は時計を見て、「私は会議があるから、時間があれば、再び話を聞きますね」と言って、急いで行ってしまいました。

 新所長は表面上では、少しの正義感があるように見えますが、しかし、共産党が人を懲らしめる手口は、彼もたいへん熟知しています。表面上では、私を褒めていましたが、夜に会議を開いて、私をここから送り出すことを検討しました。翌日の朝5時過ぎ、第5大隊の指導員は私を起して、荷物を纏めて出発すると言いました。私がどこに行くのかと聞くと、彼は着いたら分かると答えました。また、「新所長の乗用車で、管理課長と所のトップと二番目のボスが自らあなたを送りますよ。これはかつてないことですよ」と言いました。私は「お世話になります」と言いました。

 午前9時に某県で朝食を食べてから、管理課長と新所長は車に戻って来ました。私は政治委員に「どうして突然私1人だけを送りだすのですか?」と聞きました。彼は少し考えて、「あなたを彼らと分けた方が、皆にとって良いと考えたからです」と言葉を選んで言いました。私はすべて分かりました。もうこれ以上聞く必要がありません。彼らは私達が力強い一体を形成することを恐れていて、手を尽くして、私と他の大法弟子を分けて、隔離したかったのです。

 1時間後、省の司法庁の応接室に来ました。所長と管理課長は私の資料を持って、移動令の審査許可の手続きをしました。政治委員と私は車の中で待ちました。約40分待ち、所長が一人で先に帰って来ました。彼は機嫌が悪く、「来る前に電話で約束して、9番の窓口で移動命令を交換すれば、多くても10分で処理できると言ったのに、人が来たら、今度送り先は省の直属労動教養所に変更されました。そこは国家司法部の模範所です。随分待たされて、結局、そこは受け入れてくれないそうです。半年前からすべて「法輪功(迫害)基地」に送りました。今、省で検討しているところです。」と言いました。

 政治委員は私を見て、「『模範所』だって、いい所ですよ。住む所、食べもの、遊ぶ所全部一流で、ホテル並です」と言いました。彼は、私がきっと喜ぶだろうと思ったらしく、しかし、私は表情を少しも変えず、考えもしませんでした。彼も私を見て、すぐに何も言わなくなりました。約一時間あまりで管理課長が帰ってきました。やはり省の直属する労動教養所、司法部の模範所に決まりました。所長は私を見て、不自然に笑って「毎日予想外なことばかり起きますね。昨日、私に連名署名の上告書をくれたことも、信じられないことでした。今日もいろいろ、すべて私の予想外でした」と言いました。

 彼は私を見て、「おめでとう。今回、老後を過ごす場所に着いたら、そこでおとなしくしてなさい。こんな年だから、余計なことに口を出すな」と言いました。政治委員は補足して「所長はあなたのために言っているのよ」と言いました。私は礼儀正しく、お礼を言って、あなた達のご無事を祈りますと言いました。私は思わず合掌して、尊敬する師父に「弟子はきっと新しい環境を利用して、さらに「三つのこと」をしっかりと行い、自分の歴史的使命を果たして、師父に報います」と心の中で言いました。

 その後、この事を振り返って考えた時、「邪悪は私達が一体を形成することを恐れている」ことを認識しました。吉林市歓喜峰労動教養所で、大法弟子は強力な一体を形成して、力強く迫害を制止して悪を震え上がらせました。邪悪は急いで私達を各労動教養所へ分散させ、その結果、大法弟子はL市労動教養所で大活躍し、労動教養所の立派な看板を打ち砕いて、100パーセントの「転向」から100パーセント逆転させました。邪悪はそれを極めて恐れて、再び精進している大法弟子を送りだすことにしました。

 五、3通の長い手紙で大法を広く広げる

 省の直属F労動教養所に来ました。修煉の意味からすれば、私に対する要求はもっと高くなりました。ここでは、大法弟子の全体環境がなくなり、大法弟子は私1人となりました。この厳しく複雑な環境に直面して、少し孤独感を覚えました。しかし、考え直してみれば、「師がおられ、法もあり、何を恐れることがあるでしょうか。やはり師父の教えをしっかりと心に刻み、どこにいても、自分の使命をしっかりと覚えて、迫害を暴き出して、真相を伝え、衆生を済度する! それに尽きる」と思いました。省の直属労動教養所の監視はとても厳しく、1人につき4人の「包鋏」(監視員)が用意されていました。午前2人、午後2人、夜の前半1人、後半1人でした。自由な空間はほとんどなく、食事に行く時も、両腕をそれぞれ1人ずつ捉んで階段を下りるほど、私が逃走するのではないかと心配している雰囲気でした。

 私が以前にいた2つの労動教養所では、まだこの「包鋏」制度が実施されておらず、そこはとても邪悪で、自由もありませんでしたが、しかし、まだ、少しの自由空間はありました。私は絶え間なく考えました。この「包鋏」は一体何者なのか? その本質はどんなものなのか、どうしたら、それを有名無実にさせられるのか? 役に立たせないようにするか、いろいろ思案しました。師父は「真相を伝えてあげてください。これは万能のかぎであり、」[7]とおっしゃっていました。やはり真相を伝え、真相を書き、話をすることによって、すべての間隔を解消して、「包鋏」を有名無実なものにさせようと考えました。

 私が最初にやった事は、日常的な思想報告を書くことでした。週に一回、毎回1つの話題を決め、1つか二つの真相を三千字か五千字ではっきり、明確に説明しました。毎回の思想報告はすべて四人の「包鋏」が順番に読み、全員が受益しました。

 思想報告以外に、1週間以内に、私は大隊長宛に、一通目の長い手紙を書きました。彼はなぜ病気になったのか、修練者はなぜ病気にならないのか、病院治療と気功治療の共通点と相違点を書きました。大隊長はいつも腹を抱えて、時々、腹痛で腰を上げられないため、私は閲覧室の「健康新聞」と「健康雑誌」、「高齢者新聞」などに書かれている病気予防と健康に関係する民間処方箋と食事療法などの知識を3千字あまりにまとめ、また私の書いた7千字余りの文章を付け加えました。当然「包鋏」は先に厳しくチェックをしました。その結果、2人の「包鋏」は意見が衝突しました。1人は私の手紙を大隊長に手渡すことに賛成しましたが、一人は賛成しませんでした。高校生の「包鋏」は私が書いた手紙をよく理解し、理論だけではなく、民間の処方箋や生活の知恵などもあったため、大隊長に見せることを賛成してくれました。私はこの若い「包鋏」に対して、業力や徳はすべて迷信ではなく、客観的な存在であること、今の科学では、電磁波、光波、人間の考えなどはすべて分子より更にミクロ的な物質で、分子より小さいため、目には見えないから、人は迷信だと思ってしまったことを話しました。この「包鋏」はよく分かってくれました。彼は私にとても敬服して、何でも私と検討したがり、しかも、私に何も隠さずにしました。彼との間の隔たりは私によって徹底的に取り除かれました。もう一人の「包鋏」は「おじさんの書いたものを読んで、中学校と高校より更に多くのものを学びました。もっと早く分かっていれば、私はここに入ることがなかった」と言いました。

 大隊長は私の長い手紙を読んで、彼も受益しました。しばらくして、彼は明らかにいつも腹を抱えなくなりました。私が言った道理も受け入れてくれました。彼は私に会えば、いつも向こうから話しかけてきて、私を困らせることをしたことがありませんでした。

 しばらくして、私は大隊長に二通目の真相を伝える手紙を書きました。6千字あまりでした。この時すでに「包鋏」達はすべて私の人になっていたため、私は何を書いても、彼らは目をつぶって見ない振りをしました。しかし、最初はとてもそうではなかったのです。少しでも規則違反をしたら、すぐに文章を取り上げられ、破られていました。大隊長も変わりました。彼は指揮下にいる警官に「ほら、あの六十代のおじさんを見て見よう。何の病気もなく、薬も飲まない。私は50歳になっていないのに病気だらけで、退職したら私も法輪大法煉功します。」と言ったそうです。

 その後、私は息子と娘に2万6千字の長い手紙を書きました。そこには、私が覚えていた徳を積み、善行をする家訓から、両親がどのように釈迦牟尼仏の法門を修めていたか、私が兵隊に入ったこと、それからどうして大法修煉を始めたかまで全部記述しました。それから、私に元々どんな病気があったのか、どのようにして、体が軽快で病気がなくなったか、特にどのような善い人になろうとしているのかについて書きました。それは永遠に家訓として残して行きたいためでした。だからまったく虚偽なものがなく、「包鋏」が読みたがっただけでなく、ほとんど中隊の刑事犯全員も読みました。「包鋏」は「私の両親でも、あなたのように教えていませんでした。学校に行った時、もし、これらのことを知っていれば、私は絶対にここに来ていなかったでしょう」と言いました。また、他の「包鋏」は私に、自分の義理の父親になってほしいと言いました。私は彼に「実は、私達はとっくに前からもう家族ですよ。手紙を書けなかったら、私はあなた達の代わりに書いてあげますから」と慰めて言いました。

 人は誰でも優しさがあります。「包鋏」の私に対する配慮もとても行き届いていました。私がお茶が好きだと知っていて、いつの間にか、私に保温ポットを持ってきて、私専用ものにしてくれました。夏、私に枕とベッド用のござを持ってきてくれました。特に法を学び、煉功をする事に関して、更に気配りをしてくれました。昼間、多くの人はみんな印刷工場へ仕事に行き、「包鋏」と何人かの重病患者しか残っておらず、彼は娯楽室を開けて私を入れて、外から鍵をかけ、私は中で一人で法を学び、煉功をして、2時間後、鍵を開けてくれました。夜、彼は私の足もとで斜めに横になって眠って、私は彼の頭の前で座禅を組んで静功を煉功しました。夜の当番のとき、警官が巡回に来たら、私は「包鋏」を起こし、彼は当番の振り、私は寝る振りをして、ごまかしていました。ここで1年4カ月、ほとんど毎日、このように、功を煉り、法を学び、真相を伝えました。

 「包鋏」も交代します。しかし4人が全員交代するのではなく、一カ月か二カ月に1人交代します。新しい人が来たら、古い人はそのやり方を伝授します。私が何も言わなくても、一週間が経たないうちに、新人も真相を分かるようになります。現場の担当者は一番肝心です。「包鋏」も拘禁された犯罪者です。すこし工夫をすれば、彼らを変えることができるし、同時に自分にもよい環境を作れるようになります。

  省の直属F労動教養所にいた1年4カ月の間、私は師父の説かれた「一人の大法弟子が歩んだ道はつまり、一つの光輝く歴史になりますが、この歴史は必ず、自ら悟って実証し、切り開くものなのです。」[8]をさらに理解しました。

 六、真相を伝えることは災難を乗り越える鍵

 師父は『大法弟子とは何か」中でおっしゃいました。「魔難と迫害の中でその一念が非常に大事になります。しっかり行なったかどうか、迫害されたかどうか、正しく行なったかどうか、どこまで迫害されたのかはいずれもあなた自身が歩んだ道、頭の中で考えたことと直接関係あります。」

 法輪功の迫害を担当する大隊長は、私を「転向」させようとした過程で、師父が説かれたこの法は生々しく再現されました。

 私がいわゆる「法輪功(迫害)基地」に来て、数カ月が経ち、あと数日間でもう旧正月を迎えようとしていた時のことでした。この時の班長は私に「法輪功を担当する大隊長が、あなたに事務室に来て欲しいそうです」と伝えました。大隊長は地元の司法界で、腹黒かつ残酷で有名でした。彼は頭がよくて、話も上手な人です。大隊の事務室に入って、彼は私を奥の部屋の休憩室に案内しました。座る瞬間、私は「彼がどんなに話上手で、口がうまくても関係がない。私は真相を伝えることだけに専念する」と思いました。真相を伝えることは古い勢力の間隔を打ち破り、心を繋げる黄金の鍵ですから。彼は表面上ではとても気楽そうに、「あなたはどうして法輪功を煉功したのかを話してくれますか? 思ったことを聞かせてください」と言いました。

 私は「じゃ、ありのままに言いますが、あなたは私の弱みを掴むことをしないでしょうか?」と言いました。彼は「私は山東人の誠実なところが好きです。あなたは大胆に言ってください!」と答えました。そこで私は佛を修めてきた家系のことから、徳を積み、善行を行うと代々伝えられてきた家訓、それから、当世の富を求めず、来世に福報が得られることを話しました、また、肝臓の病気を治療するため、戦友に法輪大法の功法を教えてもらい、煉功して数日後、肝臓の病気が治ったたけではなく、頸椎症まで治り、半年後、目の老眼も近視もなくなり、眼鏡も取ってしまったことを話しました。彼がとても真剣に聞いている表情を見て、私はさらに話しを進みました。私は知っているいくつかの輪廻転生の事を話し、また息子が小学校の亡くなった学友に憑かれたこと、人間が死んでも、魂は依然として存在すること、無神論は人を騙す虚構であることを話しました。また、法輪大法のすばらしい効果と私が煉功のとき、天目から見えた様々な壮観な光景を重点に話し、師父の法身が毎日私を起こして、煉功をさせること、ヒントを与えてくださったことを話しました。彼はこれらにもとても興味を示してくれました。

 私はまた4回も上京して、大法を守ったことを言いました。2度も捕まえられましたが、師父のご加護のもとで、二回とも北京で釈放されたこと、最後に「天安門焼身自殺事件」、「4.25陳情」、「京城の殺人事件」、「1400の死亡例」など、これらの真相を話しました。新聞、テレビがどのように誹謗中傷して、泥を塗ってデマを飛ばしたかについても全部暴露しました。彼は私に「あなたはどうやって共産党に入党したのですか?」と聞きました。私は若い時、特に雷鋒に学ぼうとした当時の共産党に対する認識を話しました。しかし、どうして百年も経たない内に、共産党に対する信仰がすべて崩れたのか、それはマルクスが共産主義の学説を創立した当初から、その理論はあくまでも仮説で、科学の実証に耐えられないものに過ぎず、今の中国共産党幹部自身でさえ信じていません。今は共産党の統治を維持するため、中国特色など抽象的な概念を掲げ、人を騙そうとしています。宇宙の中でも、共産主義理論は奇形児で、すべての神々はそれが消滅しようとしているから、崩壊するのは時間の問題だけだと話しました。またニュートン、アインシュタインなどの大科学者はすべて信仰心があって、彼らは宗教が言う道理が宇宙の真理であることを発見したからだと言いました。また、輪廻転生、善悪には報いがあることは真実であること、インド、パキスタンでは、生まれ変わりの人を多く見つけられ、中国にも多くいること、それは迷信ではないことを話しました。これらの道理は数千年の間、人類の道徳を維持してきました。いったんこれらをすべて信じなくなれば、人間はどんな悪い事でも思い切ってするようになり、人類も滅亡まで遠くなくなることを話しました。

 私は自分の知っていることを少しも残さず、2日半をかけて話しました。その後、彼は20数分でそれを総括して「あなたの話を聞いて、私はとても興味を持ち、とても収穫がありました。多くの人は私にそう言いませんでした。彼らはこれらの話をする勇気がなかったのです。なぜか分からないのですが、私はあなたの率直さ、素朴さに感動させられました。あなたは年老いた子供のような童心を持ち、清らかで、少しも恐れませんでした。私もとても悩んでいます。あなたを『転向』させることは私の職務です。しかし、私は忍びません。あなたにあなたの信仰を放棄するように強いたくありません。でも、最後にひと言を言っておきます。私に言ったこれらの話はもう誰にも言わないでください」と言いました。

 それは彼の内心からの発言だと私は思いました。私も同じくとても感動しました。警官もすべて悪人ではなく、いい人もいると思いました(これは私のその時の認識です)。その後、私は良く考えました。皆は彼が残酷無情だと言って、無数の人を殴り、その回数も数え切れません。それによって負傷した人、ショックを起こした人、また死亡例もあるそうですが、しかし、なぜ私に対して凶悪にならなかったのでしょうか? その後、師父の法を学んでやっとある程度分かりました。師父は説かれました「旧勢力が存在していますが、皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません。正念が十分であれば、旧勢力もどうしようもありません。」[9]あとで考えて見たら、その時、彼が私を「転向」するために来たことをまったく考えず、私はただ真相を伝える一心でした。どうしたら、彼に聞き入れてもらえるか、どうしたら、私の見方を認めてもらえるか、私はその一心で話を勧めました。これは恐らく師父がおっしゃった「皆さんにその心がなければ、旧勢力も為す術はありません。」[9]に合致していたのでしょうか。その他、あれだけ真相を伝える自体が正念に満ち、それ自身も巨大なエネルギーとなっていました。だから彼は凶悪になりませんでした。誰でも魔性と佛性を備えているから、大量の真相は、彼の魔性の一面を抑えつけました。私も1つの大きな関門を通り抜けました。真相を伝えることは大きな災難を避ける黄金の鍵であるだけではなく、衆生を済度する宝物でもあります。

 七、すべては師父がおっしゃった通りになる

 旧正月まで後1週間になりました。私の労働教養期間はすでに3カ月も過ぎていまいたが、まだ何の情報もありませんでした。期限を延ばされるか、それとも処分を受けるか、いずれにしても、何か返事がなくてはならないはずです。その日、朝食をしようとしたとき、私は警官の大隊長が来たのを見て、追いついて彼に聞きました。彼もとても礼儀正しく、私に調べると約束してくれました。班長は食事を食べずについて来て、怒りながら、その大隊長が離れると、すぐ悪人をつかむように私を食卓に連れ戻して「本当にあなたを殴りたいと思った。ここはお前の家か? 無断で行動するな。帰ったら謝りなさい!」と言いました。

 全クラスには20数人がいました。皆は私のことを、年を取ったいたずらっ子で、ルールを知らないと言っていました。特にある回り道をした古い同修は「おじさん、あなたは学法がまだ足りないよ。あなたが執着すれば執着するほど手に入らないことを忘れたのですか。あなたのような『転向』しない人は言うまでもなく、私のように『転向』して半年、また『転向』して1年経ってもまた釈放されない人もいるから、じっとしておいた方がいいですよ」と言いました。私は心の中では納得せず、私は何の犯罪も犯していないのに、どうして期限が過ぎても私を釈放しないのか、彼らは恐れる心が重過ぎて、大法弟子の気骨はまったくないと思いました。

 旧正月まで後3日、妻はバック二つ分の正月用品を背負って、私を見にきました。私は妻と応接室のレストランで昼飯を食べていたとき、当番の警官が労働教養解除の知らせを持ってきて、妻に地元の「610事務室」に手続きをして来るようと言いました。その日の夜、私は妻が持って来た正月用品を皆に食べてもらい、そして皆に早めの新年の挨拶をしました。同修達は皆私のために喜んでくれました。その古い同修もとても長く考えこんでやっと言いました。「おじさんのこの何日かの事は私の目を覚ましてくれました。私は、五書を書き、『転向』をしなければ、出られないと思っていました。今まで、このような例はありませんでした。私は『転向』をしても、半年~1年かかると思いました。これを見ると、私の考えは情勢の進展に遅れており、徹底的に変えなければならないと思いました」。私は1つ補足して言いました、「古い同修よ、情勢の問題ではなくて、私は根っこから彼らの言うことを聞かなかったのですよ。しっかり覚えて下さい、すべては師父がおっしゃった通りになります。特に旧勢力の手配と執着心を混同させてはいけません。そうすれば、あなたは旧勢力の迫害を否定することができません。もちろん私達の一思一念は法に基づいていかなければなりません」と言いました。古い同修はある程度目覚めて、うなずきました。

 妻は翌日の昼1時過ぎに急いで戻って来ました。年寄りの警官は妻を連れて、それぞれの事務室に捺印を受け取りに行きました。最初はとても順調でしたが、その後、最後の関門に引っかかりました。地元の610弁口室の人が迎えに来なければ、誰も出られないと言われました。今出なければ、4時50分発の大型バスに間に合いません。妻は顔に汗をかいて、焦ってくると謙虚さも忘れて、私の身分証明書だったら、あなた達を安心させることができるかと聞きました。さもなければ、ここに預けておいてもいいと言いました。事務員は「これは良い考えだ」と言い、すぐ電話をして確認しました。受話器を下ろして、喜んで「おばさん、あなたは昨年、模範労働者でしたね。今日、私はここで決断を下します。帰ってください。」と言いました。

 年寄りの警官は私達を送りながら、言いました。「あなたは幸運過ぎます。私が送り出した人の中で、あなたは一番の特別扱いだよ。あなたはこの法輪功(迫害)基地に2つの前例を作りました」と言いました。妻が何の前例ですかと聞くと、1つは反省文を書かず、「転向」せずに釈放されたこと、もう1つは610弁公室の職員が来ていないのに釈放されたことだそうです。「これは誰にでもできることじゃありません。あなたは幸運すぎます。帰ってから、再び捕まえられないで、こんなひどい目に合わないようにしてください」と彼は言いました。

 家に帰る気持ちは複雑すぎました。2年3カ月、延べ810日間、師父のご加護がなければ、私はやってこられたでしょうか? しかし師父は自分のために、どれほど耐えてくださったでしょうか! 師父のご恩は本当に天より高く、地より深いものです。弟子が自らを、師が法を正すことを手伝う大法徒であると、しっかり心に刻みさえすれば、偉大な歴史的使命を担っていることをしっかり覚えていれば、すべては師父のおっしゃる通りになります。「弟子正念足りれば 師は回天の力有り」[10]です。

 1つの留置場、4つの労動教養所、この2年間の黒巣での経歴で、私はこのことをさらに理解しました。それは、私達が本当に師と法を信じさえすれば、師尊と法の要求通りにしっかり行えば、突破できない難関はありません。どこにいても、私たちは迫害を暴き出して、真相をはっきりと伝え、衆生を救い、大法弟子の責任と使命をしっかりと心に刻み、私達の道を正しく歩むことです。私達が歩んできた道を大切にすることです。

 再び師父にひざまずいて拝みます! 同修にお礼を申し上げます!

 次元により、不足なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。

 (完)

 (明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 

注:
[7] 李洪志先生の著作:『各地説法四』「2003年アトランタ法会での説法」
[8] 李洪志先生の著作:『精進要旨二』「道」
[9] 李洪志先生の著作:『各地説法二』「二〇〇二年米国フィラデルフィア法会での説法」
[10] 李洪志先生の詩:『洪吟二』「師徒恩」

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2013/11/12/282297.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/23/143356.html)
 
関連文章