明慧法会|障害者が法輪大法を修煉して生まれ変わる(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2013年12月24日】(次の文へ

 私は毎年、明慧ネットで同修の修煉体験交流会の文章を見て、心の中で筆を執りたいという衝動がありました。しかし、頭の中の良くない観念に妨害され、自分は身体障害者でしっかり行っておらず、基準に達していない、書く資格がないという劣等感に制約され、結局、執筆するまでに至りませんでした。

 今年7月31日、「明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会原稿募集」の法鼓が再度叩かれた時、私は突然目覚めました。私はこれ以上、旧勢力に押し付けられた観念で、今回の法会の原稿募集に消極的に対応してはならないと思いました。私は「私」の状態を突破して、両足に障害を持つ者から、大法と縁を結び、そして師父が私のために病業を除去し、腹部に法輪を、また修煉の機制を植え付けてくださった不思議な体験を書き出し、また、師父からのさまざまなご加護の下で、絶えず修め、本日まで粘り強く歩んできた修煉者として、それらの修煉体験を書いて、同修の皆さんと一緒に交流したいと思います。

 苦難の歳月

 1947年、私は貧しい農民の家に生まれました。父は酢作りを生業にしており、若い頃から、佛陀を信じていました。彼らの中の特に優秀なある人は、1951年に彼らを召集し、師父がこの世に降臨される際に、ある県で行われる未来の主佛の降臨を祝う法会を組織しました。そのため、父は公安局に「不法集会」の口実で捕えられ、その後、解放されて家に帰って来ました。私が13、4歳のころ、父はいつもこれらの昔の事を話し、そして、今は末法の時期で、人類には大きな災難が起きると私に警告しました。

 1962年、私は中学を卒業した後、生活のため、ホテルの見習いになりました。1963年11月、私は地元の県の郵便配達員になりました。1964年5月11日の夜12時、突然停電したため、早く布団を引いて寝ることにしました。その日は曇りで雨が降っており、夜間とても気温が下がりました。午前6時、私は目覚まし時計に呼び覚まされ、自分が布団の上で一晩中、寝ていたことに気付きました。全身が氷のように冷たく、両足は鉛のように重く、その上、尿を失禁していました。私は風呂屋に行って、45度のお湯で体を温めましたが、まったく効果がありませんでした。その後、頻尿、排便時に力が入らないなどの症状が現れました。ある時、私はトイレで排便できず、家に帰ったら、下着に失禁していました。1人の健康な若者が突然ここまで苦しめられるようになりました。

 中医、西洋医に診てもらいました。薬を飲めば飲むほど病状がひどくなりました。旧暦の6月10日、私は家で1冊の漢方薬の処方の古書『湯頭歌訣』(薬の処方の奥義・秘伝)を見つけ、その中に、「鶏鳴散」という足の治療をする処方がありました。病気の苦痛に耐えられない私は仕方なく、薬局でその処方通りの薬を買ってきて、服用しました。第2服まで服用した後、夜明けの頃、私は多くの黒い汚物を排出して、足も温かく感じるようになり、排尿間隔も長くなり、足も次第に良くなったように思いました。

 しかし、旧暦の6月14日、父が地元の比較的有名な漢方医を診察に呼び、彼の薬を飲んだ後、以前の症状が好転するどころか、かえって足が更に重くなり、麻痺しました。その医者は、「反応があっていいことだ」と言いました。彼の指示通り、その薬を60服以上飲み続けた後、足は完全に麻痺状態になり、まったく歩行できなくなりました。これは中国共産党が政権を盗み取った後に、伝統中医学の精髄が破壊され、全社会と民衆にもたらした災難のうちの一つでもあります。

 1977年、私は自分より9歳年下の知的障害を持つ女性と結婚しました。彼女は知能がとても遅れて、三つの数字すら覚えられません。しかし家事全般はできます。彼女は生まれつきの知的障害者ですが、力仕事はすべて好んでやり、勤勉で、本当に人より先に働き、人より後に食事をし、その上、人と争うことはしません。ただ、胃腸が弱く、慢性胃腸炎を患っていました。

 1979年の冬のある日、私はまた突然寒気を感じ、頭と両腕以外、全身で痛くない所がありませんでした。特に胸、背中、両足の筋肉、関節が痛くてたまらず、毎日「アスピリン」と「プレドニゾン」を10錠飲んでいました。痛みが我慢できない時、私は死んだ方がましだと思い、知能の低い妻に電線を引っ張ってきてもらい、スイッチを入れましたが、その時は停電でした。死ぬのも難しいことです!

 1981年の冬、旧暦の12月に近くなって、私はまた結核になりました。発熱、咳があり、力がなく、食欲が減退し、毎日小さいギョーザを数個しか食べられませんでした。両親は私の様子を見て、心配して泣き出しました。私の病状がますます重くなって、恐らく数日も持たないだろうと思い、両親はお金を借りて来て、棺桶を作る板を買い、仕立職人に頼んで、死に装束まで作り、私が息を引き取る時のために用意しました。しかし、なぜだか分かりませんが、もしかしたら、天が私のような哀れで不幸な人間に同情してくれたのでしょうか、私は死なず、また奇跡的に生き返りました。1987年、父は亡くなりました。

 (続く)

 (明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/18/282157.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/12/16/143697.html)
 
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