姑がついに言った「法輪功は本当に素晴らしい!」
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 【明慧日本2014年2月20日】私は1996年に縁があり、法輪大法を学び始めました。修煉を始めてから16年経ち、法を学び、心を修め、法輪大法の素晴らしさを自ら実感しました。師父の広大なご恩に対して、世の中のどれほど多くの言葉を使っても適切に表現することはできません。

 3回の交通事故で師父は私を救ってくださった

 1997年の夏のある日、子供用自転車に乗れるようになったばかりの息子が、「河辺に自転車を乗りに連れて行って」とせがむので、河辺にぶらぶらと連れて行きました。自転車に乗り疲れて、道端で休憩しようと自転車を私と息子の間に置き、私達は南の方に向いて立っていましたが、ちょうど私が後ろを振り返ったところ、北から白い軽トラックが1台、真っ直ぐに私と息子に向かって突進して来ました。その時、私は何もできず、目の前が一瞬真っ暗になり、ふらふらして、目を開けた時は、私と息子と自転車は歩道から1メートルほど離れた草むらに立っていることに気づきました。当時の私は心性がまだそれほど良くなく、遠くへ走り去る車を指差して大声で叫びました。「おまえたちは本当にけしからん! もう少しで2人はひき殺されるところだった」。続いて息子に向かって叱り始めました。「おまえがここをぶらぶらしたいと言ったから、もう少しで車輪の下敷きになるところだった!」。その後、家に帰って修煉をしていない夫にこのことを話すと、夫は「もう不平を言うな。あなたの師父はあなたを守ってくださったではないか。母子2人が交通事故に遭わなかったことは本当になによりの幸運だ!」と言いました。

 瞬く間に秋が来ました。母に呼ばれ、私は自転車に息子を乗せて母の家に向かいました。途中で、向こうから一台の大型トラックが走って来て、遠くに見えた時は道路の真ん中を走っていましたが、私たちから約十数メートル離れた所で、トラックは突然、私たちに突進して来ました。私は無意識に道端に逃げましたが、ぶつかりそうになった時、トラックは「ギャー」という音がして、私たちのすぐ前でぴたりと止まりました。ドライバーは驚いて呆然としていました。私の息子も驚いて泣いてしまいました。しばらくしてやっと正気に戻りました。その時、周囲をたくさんの人に囲まれ、「本当に危なかったよ」と皆が言いました。ドライバーはゆっくりと車を検査した後、「何かの部品が突然折れた」と言いました。その後ドライバーは、「ブレーキが効かなくなったが、どうして突然に止まったのだろう」と不思議そうに言いました。ドライバーは私に何を言ったらいいか分からないようでしたが、私は「何もなかったし、私も息子も無事でした。幸い私は法輪功を修煉しているので師父が私たちを守ってくださいました。そうでなければ酷い目に遭っていましたよ」と言いました。

 このようなことがもう1回ありました。ある日の夜の10時頃、義母の家に行って食事をして、帰って来る時のことでした。私達が住む小さい町には歩道がなく、私と夫と2人が肩を並べて、道端を歩いているところでした。1台の普通乗用車が耳障りな音を出しながら、私たちに突進して来ました。間もなく私達はひかれそうになりましたが、道端はすぐ溝で逃げる場所もなく、夫は「終わりだ、終わりだ、もう終わりだ」と絶望的に叫んでいました。その瞬間、車の片側の車輪だけが地面に付いて、私に近い側の車輪は急に人が立たせたかのように立ち上がり、この状態で車は20メートルあまり走り、やっと「ドスン」という音がして、四つの車輪が全て地面につきましたが、車は止まりませんでした。夫は「ああ! 驚いた! 危なかったよ。またおまえの師父は私たちを守ってくださったね」と言いました。

 これらのことはまさに師父が『轉法輪』で次のように説かれています。「このような例は数え切れないほど多いのですが、いずれも危険に至るようなことはありません。誰でもこんなことに遭遇するとは限りませんが、一部の者は遭遇することがありえます。遭遇しても、しなくても、いかなる危険もないことをわたしが保証します。しかし一部の学習者は心性の求めるところに従わずに、動作だけをやっていて、心性を修めようとしないので、煉功者とは言えません」  

 心性を高め、一つ一つ関門を乗り越える

 修煉をする前の私は、いくつもの治り難い病気を持っていました。また性格も悪く、怒りっぽく、体面を気にするタイプで、私利私欲も強く、家にいても外にいても、いつも不利な目に合わないかと心配していました。つまらないことですぐに腹を立ててしまうことがあり、義母や義理の姉妹達といつも対立し、彼女たちは一緒になって私をいじめているように見えましたが、学法を通してそれは因縁関係があると分かりました。

 中共(中国共産党)の法輪功に対する迫害が始まる前のことでした。私が日曜日に学法から帰ると、義母はわざと早々に夕食を終えて、私には少しも残さず、残りものを全部豚に与えました。義母はまた息を弾ませながら、罵りました。「物乞い用の袋を提げて、物乞いできずに帰って来て、また食べようとするなんて。おまえがいつか銃で頭を撃たれる時がきて、それでも修煉を続けるかどうか見てみたいものだ」。初めの頃、私は空腹で、涙を浮かべながら我慢しました。「私は法輪大法の弟子だから常人と違い、彼女達に善をもって接しなければならない。自分に厳しく、他人に寛容でなければならない」と思いました。

 当時、義母の家に20数人の高校生と勤め人が宿泊しており、三食を提供することになっていました。食事作りは私と夫が担当しました。義母は毎月給料を払うと言いながら、結局最後になっても給料はもらえませんでした。ただ毎日、義母の家で食事をすることができ、その後、自分の家に帰って寝るだけでした。ある晩御飯の後、私は仕事を全て終わらせて、家に帰ってから学法をしようと思っていた時、義母はすぐにたくさんの布団カバーを、その中には使用しないものまで剥がして、とても大きなふろしきに包んで私に渡しました。そして「今晩必ず洗濯をして、明日の朝持って来て縫いつけるように」と言いました。私は大きなふろしきを背負って学法しに帰宅しました。泣きながら学法する私の姿を見た同修は私に言いました。「あなたは心性を高めなければなりません。お母さんを恨んではいけません。あなたはもう修煉をしているので、お母さんと喧嘩をしてはいけません」。学法後、私は徹夜で布団カバーを全部洗いました。

 私は1パック5角(1元=10角)のシャンプーを1元で2パック買いたいと思いましたが、ポケットの中にお金がありませんでした。私は仕事が終わる前にこっそりと1元を隠して、シャンプーを買おうと思いました。しかし、家に戻って、その1元を手にして放心状態になり、とても大きな間違いをしたという気がして眠れませんでした。翌日、義母の家に行ってお金を返しました。「私は修煉者であり、私のものでなければ持つことはできません」と義母に言いました。義母はお金を受け取り、「おまえがいい人を装っているのは分かっているよ。いつまで装えるか見ているよ。きっと化けの皮が剥がれるよ」と言いました。

 もう一つ思い出しました。私の息子が病気になり、食事もせず、私が何度呼んでも息子は食べに来ないので、私はテーブルの前に座って食べ始めました。大きなテーブルには高校生や勤め人、家族など十数人が座っていました。その時、義父は私に「お前には食べさせない!」と叫んで、私のご飯茶碗を奪い取りました。「お父さん、私は一日働いてお腹が空きました。私は別に何も悪いことをしていません!」私はそう言いながら、ご飯茶碗を持ち食べようとすると、義父は腹を立て、茶碗を奪って床に投げつけました。茶碗が割れてご飯は床に飛び散りました。「あんたがまだ食べるなら、私はこのテーブルをひっくり返してやる! 誰も食べるな!」義父は続けて言いました。その時私は泣いていましたが、私は大法弟子であり、私が原因で他の人が食事することができなくなってはいけないと思い、私はコートを着て、彼らに「あなた達は食べてください。私は先に帰ります」と言って玄関を出ました。玄関を出た途端に大声で泣きました。

 「どうしてこんなに難が多いの? どうしてこんなに私をいじめるの? もし私が修煉していなかったら、誰のテーブルをひっくり返えすか分からないよ!」と泣きながら自分に言いました。私はいつのまにか河辺に来ていました。「あんなに大勢の人の前で私を苦しめるなんて。私はどうやって生きていけばいいの」と心の中で思いましたが、「法の中に自殺してはいけないと書かれているではないか」と『轉法輪』に書かれた法を思い出しました。「本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」

 2010年に義母の平屋の建物は取り壊されました。開発企業は義母に2、3、4階それぞれ1戸ずつを渡すと約束しました。義母は私に「あなたの家を売って、私のを買って欲しい」と言いました、私は3人の嫁の中で一番親孝行で、彼女と義父は私の世話が必要だと言いました。しかし、元の住所に引越しの時になって、開発企業は当初の約束を破り、2階の1戸と最上階の2戸だけを渡しました。夫は母親に渡したお金を返してもらおうと思いましたが、私は「修煉者は他人のために考えなければならない」と思い、夫に同意しませんでした。義母は私が買ったお金で自分の新居を内装しなければならないし、またこのお金で三番目の息子の新居を内装しなければならないので、もし私がこのお金を取り戻したら、彼女らの内装のお金がなくなってしまいます。夫は不満に思い、「お前は馬鹿だ! 母さんは弟に新居をあげただけでなく、内装までしてやった。また以前に、兄に新居を買ってやり、いま住んでいるところも兄にあげようとして、私達にだけくれなかったじゃないか。なぜこのお金を取り戻せないのだ!」と私に怒りました。師父はこのようにおっしゃっています。「あなたのものであれば失わせない、あなたのものでなければ争っても失います」。義母はこのことで私が言い争いをするのではないかと心配していましたが、私はいつもと同じでした。利益の前に私は大法で自分を規正し、私利私欲の心を取り除きました。

 私たちは半年ほど住んだ頃、この家を売って別の所に引っ越そうと決めました。窓に売却の広告を貼るのを待たず、すぐに高値で売れ、原価を除くと何万元もの利益がありました。

 家を売却した後に、義母の家で一時的に約3カ月あまり泊まらせていただきました。1カ月経ち義母は「師父の説法を聞かせてくれないかい」と言いました。私は「以前に聞かせてあげても聞いてくれなかのに、今どうしてですか?」と聞きました。義母は「この法輪功は本当に素晴らしい。装ったものではないんだ。私はあんたの化けの皮が剥がれるのを10年、待っていたが剥がれなかったし、あんたはますます良くなっているから」と答えました。私は「お母さん、私は不足のところがまだあります。大法の基準に達していないところもありますが、これから私は大法で自分を厳しく律していれば、もっと良くなると思います」と言いました。

 私は義母と義父が並んで座り、耳にイヤホンをいれて法を聞いているところを見て「あなた達は法を聞き、自分のために美しい未来を選んだんですよ」と心の中で2人に言いました。

 迫害の中で家族皆が大法の味方

 以前、義母が私の修煉に反対する時に言ったように、銃は本当に私の頭に向けられました。2002年9月19日の深夜、地元の公安局の局長・張と副局長・郭は20人近い警官と共に家宅捜索にやって来ました。郭は小型のピストルを私の頭に向け、警官・高はテレビで見たことのある自動小銃を夫に向けて、私を無理やり連行しました。私は「彼らが法輪功の真相が分からず迫害に参与し、彼らの将来はどうなるのか。彼らは本当に可哀想だ」と思いました。しかしその時、私の勧告を彼らは聞いてくれませんでした。郭は「共産党はお金をくれるし、養ってもくれる。私はあんたを捕えなければならない。あんたはいい人であっても、私はそうしなければならない」と言いました。その後、郭は二つの交通事故に遭いました。また、賄賂を受け取ったことや、犯罪者を治療の名義で釈放し、結局その犯罪者が間もなく人を殺したことで、郭は解任されました。

 私が連行された時、毎回家族全員が大法の味方になってくれました。この何年かの間に家族は大法の不思議さを目撃し、証明することができます。修煉していない夫はいつも腰痛に悩まされていました。ある日夫は「今日は痛くないな、どうなっているか見てくれる?」と言いました、服を上げて見ると、腰に拳大の皮膚が赤くなっていました、宿題をしていた息子が近寄ってちょっと見て「父さんの腰に蓮の花が咲いたよ」と言いました。同修、家族、修煉していない常人も夫の腰にある蓮の花を見ました。数日後に段々と消えていき、腰も痛くなくなりました。みんなは大法が神秘的、超常的、玄妙であると深く実感しました。

 私は修煉の過程で度々奇跡に出会いました。修煉者は皆、それぞれにたくさんの奇跡があることを知っています。一晩中かかっても書き尽くせません。16年の修煉を振り返って、私は法を正す時期の大法弟子になることができ、本当に幸運だと思っています!

 
(中国語:http://big5.minghui.org/mh/articles/2013/10/20/281264.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2013/11/21/143334.html)
 
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