進行した癌が修煉して完治 医師は愕然
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文/遼寧省の大法弟子

 【明慧日本2014年4月27日】1998年の年末、私は三度目の妊娠をしました(前の2回とも流産)。妊娠7カ月の時、絨毛癌(妊娠時の胎盤をつくる絨毛細胞の癌)と診断されました。それを聞いた時、私はあまりにも悲しくて、号泣しました。私はずっと子供が欲しかったのですが、今度は赤ちゃんを失っただけでなく、私自身も死に直面しなければなりませんでした。私は心の中で師父に「弟子は死を恐れていません。しかし、大法に泥を塗るほどの罪を、私は背負いきれません。師父、お助けください!」とお願いしました。

 私は病院に送られました。医師は1週間に2回も手術をして、家族にがん細胞はすでに転移しており、もう化学療法しかないと伝えました。当時、最も重要な検査項目の値は全てすでに死への極限値に近づいていました。しかし、私は断固として化学療法を拒否しました。医師は「あなたの数値よりも低い患者さんが、入院して2日後に死亡しました」と言いました。

 私は自分が死ぬということはありえないと思っていました。入院中、昼間は『轉法輪』を読み、夜は師父の説法を聞いていました。私が化学療法を拒否したため、病院側はその後しばらくの間、体温測定などの一般的なことしかしなくなりました。

 入院して10日目の夜9時頃、私が師父の説法を聞いていた時、突然下腹部に激痛が走りました。私は心が震えました。最初の一念は師父が私の体を浄化してくださっているのだと思いました。当時、病院で私の看病をしていた夫にその旨を伝えました。夫は「それは良いことだ。それなら、あなたは自分を修煉者とみなして、忍耐しましょう」と言いました。その時、病室には他に3人の患者さんがいて、1人は卵巣癌の手術を受けたばかりでした。その人はみんなの邪魔をして休ませないのですが、私は静かにしてベッドに横になっていました。

 私は下腹部に無数の針を刺されているような、中で何かが引き裂かれたり、剥がされたりしているように感じました。私はこの状態で6時間、我慢しました。午前3時、私は本当に我慢しきれなくなって、痛くてうめきました。みんなも目を覚ましました。電気をつけると、みんなが驚いた顔で私を見つめていました。向かい側のベッドの女性は私の苦しい様子を見て、辛くなり泣き出しました。後に、彼女はあの時、私の顔は紫紅色で、頭は2周りほど大きくなり、唇には噛まれてできた二つの皮下出血の跡があったと言いました。

 その後、私はお腹が非常に重苦しく感じ、トイレに行きたくなりました。隣のベッドで看病していた人が私を支えてくれて、トイレに行きました(夫は当直の医師を探しに行っていた)。私はまったく腰が上がらず、しゃがんだり這ったりして進みました。その時、私は頭がぼんやりして、吐き気がありましたが、大法弟子はどこにいても他人のためを考え、他人に迷惑をかけてはならない、絶対廊下に吐いてはいけないと自分に言い聞かせました。20メートルの廊下を10分近くかけて渡りました。

 トイレに入った瞬間、私はいきなり猛烈に吐き、腹部が激しく収縮して、大きな塊を排出しました。私の体は直ちに楽になり、激しい痛みは瞬時に消えてなくなりました。私は真っ直ぐに立ち上がって、涙を流しながら、心の中で「師父、ありがとうございました。師父、ありがとうございました」と、師父に心から感謝しました。

 慈悲なる師父は、すべてのこと、細かいことまで按排してくださっていました。私が振り向くと、トイレの床に取っ手の付いた新しいビニール袋があり、私のために用意されているようでした。私はビニール袋を持って笑顔で病室に帰ると、みんなは大変驚いて、先を争うように私の体から出てきたものを見ました。それは、小さな肉の粒からできた大きな肉の塊でした。みんなは子供の頭よりも更に大きいと言いました。

 明け方、医師が来て、とても驚きました。医師は私の体から出てきたものを病理検査し、また私に全般的に検査をしました。その結果、最も重要な血中HCG値は8000から3000まで下がり(正常な人は0―14で、妊婦は500―600)、その後の数日間、毎日黒い血を排出していました。その血が乾くと、石炭の燃えかすのようなものになりました。16日後、私は退院しました。

 1週間後の再検査で、血中HCG値は0.14まで下がりました。主治医は驚くほかありませんでした。彼の言葉で言えば、たとえ良性の腫瘍でも、この数値まで回復するには、2年が必要で、まして私のようなあれほどの極限ともいえる高い値から、いきなり正常値にまで下がることは、医学的にはとても説明できないと言いました。私は自分が法輪功の修煉者であることを彼に伝えました。同室の人たちは私の不思議な体験を目撃し、みんなが大法の本を読みたいと言いました。私が退院してから、夫は皆さんに『轉法輪』を送りました。

 私は小さい頃、ペンを買いに行って、毎回試し書きをする際に、なぜかいつも紙に「お腹が痛い」と書いていました。運命の中に私が生まれる時、大きな業力があるように定められていたのでしょう。この魔難の後、私ははっきりとした夢を見ました。手術室のようなとても大きな部屋に、黒い血を板状にしたものが天井まで積み上げられていました。私の考えでは、それは師父が私の体内から取り出してくださったのであり、私の業力を取り除いてくださったことがはっきりと分かっていました。師父の慈悲なる済度に感謝いたします。さもなければ、私はどのようにして、この生生世世に天まで届くほど高く積まれた業力を返済すことができるでしょうか。

 修煉を始めるまで

 言ってみればとても面白いのですが、1996年に、幼なじみが私にある男性を紹介しました。彼は私に法輪功を紹介してくれて、また『轉法輪』という本をプレゼントしてくれました。その時、私の祖母は病気で床についていたため、彼はできれば祖母に読んであげた方が良いと言い、「法輪功は病気治療と健康保持にとても効果的で、もしお婆さんが本当に本の中に書かれた道理を信じれば、病気は必ず良くなります」と教えてくれました。

 私は本を家に持ち帰りましたが、ずっと本棚に置き放して、祖母に読んであげませんでした。私は無神論の教育を受けていたため、本を読んだり、煉功をしたりするだけで病気が治るとはとても信じられませんでした。しかし好奇心から、私はたまに本を開いて読んだりもしました。本の内容は哲理に富んでいて、大学で学んだ哲学と少し似ていると感じました。しかし、通読していないので、本の中に一体何が書かれているのかは知りませんでした。

 3カ月後に、祖母は亡くなりました。安置室に祖母の写真が飾られていました。それは祖母が病状の重い時に自ら選んだ遺影用の写真でした。非常に不思議なことに、写真を大きく伸ばした後に、なぜだか分かりませんが、みんなは祖母の頬に大きな涙の粒があるのに気づきました。当時、私と彼との関係はとても順調で、すでに結婚にまで話が進んでいました。将来の舅と姑は共に大法弟子で、その期間ずっと、2人は私に彼らの修煉体験を話してくれ、私も『轉法輪』を読み始めました。

 親戚達が祖母のことであれこれ言っているのを耳にした時、私は突然心を締めつけられ、祖母が法輪佛法を読めなかったことを残念がっていると直感しました。私は修煉を始めたのが遅くて、法に対する認識が浅く、一つの生命を大法とすれ違わせてしまって、佛法を聞かせることができなかったことをとても後悔しました。

 それ以後、私は法を得る機縁をとても大切にするようになりました。私達の結婚後、私の両親も修煉の道を歩み始めました。

 結婚したばかりのしばらくの間、私と夫は実家に住んでいました。振り返って考えると、あの頃は私たちの最も幸せな日々でした。毎日仕事から帰って、一家4人は急いで食事をして、集団学法に行き、朝4時に起き、近くの煉功場に行って煉功しました。毎日が忙しくて、とても充実していました。私たちは誰でも自分が向上していると感じていました。

 その上、毎日集団学法の後、皆はお互いに修煉体験を交流し、心性の関門に遭った時、どのように法に従って内に向けて不足を探し、執着を取り除いて乗り越えたかを話しました。一部の同修が修煉の関門を上手く乗り越えられない時、学法チームで自分の悩みを話し、みんなは法に基づいて同修を助けるにはどうすればよいかを悟りました。そんな時、私たちはこの宇宙の根本的な大法を修めることができて、なんと幸運なことかとつくづく思いました。

 修煉する前、私はずっと自分の仕事に悩まされていました。私は大学卒業後、ある金融機関に勤めました。コネがないため、上層部に知り合いがなく、私はずっと最下層で働いて、しかも何年も働きました。私と同期の大学生はほとんど管理部門に抜擢され、現場で働いているのは私一人だけでした。修煉する前、私は心のバランスがとれず、仕事も消極的でした。修煉後、私は穏やかになり、もう不平不満を言わなくなり、仕事にもとても研鑚し、私は心から喜びを感じました。真・善・忍に基づいてまず良い人になるようにし、また堅実に仕事をし、生活をするように自分に要求しています。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/4/14/290009.html)
 
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