陳さんは法輪功を修煉する前は、重い乾癬(かんせん、皮膚の赤い発疹に銀白色の垢が付着し、ポロポロとはがれ落ちる病気)を患い、顔以外に乾癬が全身に広がっていて、本当に悩んでいた。医学的にこの病気は完全に治療できないと言われている。暑い夏、女の子がきれいなスカートをはいているが、陳さんは長袖の服とズボンしか着られなかった。
幸い、1997年に19歳の陳さんは法輪功と出会い、法輪功を学び始めた。その後しばらくして、全身にある乾癬が消えた。この奇跡的な出来事は陳さんの母親を法輪功の修煉の道に導いた。母親も修煉によって患っていた重い心臓病が治り、元気を取り戻した。
しかし、1999年7.20、中国共産党は法輪功に無実の罪を着せ、法輪功への弾圧を開始した。自ら法輪功の素晴らしさを体験した陳さんは、法輪功への迫害停止を求めるため北京へ行ったが、警官に連行され、地元の留置場に拘禁された。50数日間にわたって拘禁された陳さんは警官に家族から3000元をゆすり取られて解放された。
陳さんの母親は当局の圧力の下で、法輪功の修煉を止めてしまった。その1年後、母親は病気が再発し、2003年に亡くなった。
2007年8月1日、新婚の陳さん夫婦は実家に帰って、叔父の家に挨拶に行ったが、叔父の家から出たところで、丹東市国家安全局の警官に頭に覆いを被され、手錠をかけられて連行された。市内の五竜背温泉療養院に拘禁された陳さん夫婦は、関連情報を得る目的で警官に拷問された。
2008年8月21日、陳さんは鞍山市で再び連行され、秘密裏に遼陽市に移送された。その後、遼陽市灯塔裁判所は陳さんに懲役10年の不当判決を言い渡し、2009年2月に陳さんを省女子刑務所に送り込んだ。
刑務所で陳さんは長期にわたって独房に拘禁されていたが、詳細は不明である。陳さんは刑務所に拘禁されて以来、一度だけ義理の両親との面会を許された。2010年4月、義理の両親はたったの数分間、陳さんと面会ができた。面会のとき、陳さんは「警官の指示を受けた受刑者たちに殴打され、失明寸前になった。50時間以上トイレに行くことを許されず、何度も便を漏らした」と話した。義理の両親は陳さんが歩くとき足の不自由な姿を見て、思わず声を出して泣き崩れ、警官に「なぜ、良い人を殴るのですか」と詰問したが、警官はすぐ面会を中断しようとし、陳さんを強行に連れて行こうとした。そして、陳さんは必死に義理の両親の方に向かって、「もし私が死んだら、刑務所の迫害で死んだのだ」と叫んだ。
2010年、陳さんの父親は危篤に陥り、愛娘と会いたがっていたが、会えないままこの世を去った。
夫の高さんは連行されて拷問を受けたため、胸腔内に異常に多量の液体が貯留していたにもかかわらず、当局の裁判所に懲役12年の実刑判決を下された。
盤錦刑務所に収容された高さんは断食して迫害に抗議したが、2カ月間にわたって四肢を手錠でベッドに固定されたため、両腿が麻痺してしまい、刑務所の病気患者の監区に移送された。その2カ月後、刑務所側は高さんに「一時出所」の手続きをさせようとしたが、鞍山市国保大隊(法輪功迫害の実行機関)と610弁公室のリーダーは断固として反対した。