師父の慈悲なる済度に感謝する
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文/米国の大法弟子

 【明慧日本2014年8月2日】慈悲で偉大な師父、こんにちは。同修の皆さん、こんにちは。

 私は2008年に法を得た大法弟子です。法を得る前、私は人生の真諦を探し当てることに困惑し、煩悩の中にいました。かつて、宗教の中で精神的な慰めを見つけようとしたこともあります。しかし、その意味が理解できず、そのうえ無神論の影響を受けていたため、内心から神佛の存在を信じることができませんでした。法輪功については聞いたことがありましたが、すべて共産党のマイナスの宣伝に影響され、また生活のなかで法輪功修煉者に出会ったことがなく、大紀元時報を読んだこともありませんでした。

 2007年末、身体の調子が悪く、気功を通じて体質を改善しようと思いました。関連情報を手に入れようと、ネットで検索してみたら、『轉法輪』のなかに詳細な解答がありました。面白いことに、「辟穀」からはじまる第八講まで読み終えて、初めてこの書籍が法輪功の書籍であることに気づきました。当時、頭の中に「私は走火入魔をする!」という念が浮かんできました。驚いた私はパソコンを落としました。法を得てからやっと、その念の背後で邪悪の要素が働いていたことがわかりました。その後、私は大きな勇気をもって、一昼夜かけて『轉法輪』を最初から最後から読みました。心がぱっと開けて、本当に早く会えばよかったと思いました。もともと宇宙、神佛に対して持っていた疑問にすべて答えが得られました。当時、最初に浮かんできた一念は、共産党はあまりにも悪く、これほど大きな嘘をつき、もう少しで私は佛法とすれ違うところだったということでした。

 法を得て、心を修め、執着心を取り除く

 法を得た初期、私の人生はまるで新しく始まったかのようでした。私は毎日喉が渇いた人のように、師父が発表されたすべての経文を読みました。不思議な世界が私の前に現れました。天目が開かれる過程で、私は自ら大法の素晴らしさと不思議さを体験しました。私はネットで五式の動作を教えるビデオを見ながら、功法を学びました。もともと私は双盤をすることが出来ましたが、煉功をはじめると双盤を組めなくなりました。単盤をしばらくすると激痛が走りました。1週間、全身の筋肉がだるくて痛く熱がでて、風邪を引いたような状態でした。私はこれは師父が私の業を滅してくださっていると分かっていましたので、病院に行ってみようとか、薬を飲んでみようとは思いませんでした。私は幼いころから体質が弱く、多くの病を患っていたので、病院にいかなくてもよい日が訪れるとは夢にも思っていませんでした。

 法を得て、最初に乗り越えたのは家庭の関でした。以前、毎週夫と一緒に教会に行っていましたが、法を得てから私は行きませんでした。夫と家族は理解できませんでした。私にとって、これは「不二法門」の試練でした。私はきっぱりと意思を表明していましたが、慈悲の心が足りませんでした。当時「私」は修煉したい、「私」は専一でないといけないと思い、他人の感受などは全く考慮していませんでした。夫は最初はとても失望していました。しかし、その後、私の健康状態が不思議に好転し、同時に彼が不愉快なことに出会ったとき、法理で彼を諭したところ、彼も少しずつこの事実を受け入れてくれました。

 母との関はとても面白かったです。私が母に法輪功を修煉していると告げたとき、幼いときからずっと私を溺愛していた母が、なんと! 「私はあなたと親子関係を断絶する」と言いました。このことから、共産党の中国人に対する毒害の深さが分かります。その時、私はすでにその背後に邪悪な要素が働いていることを知っていたため、母の言葉を気にせず、以前通りに彼女に関わり、面倒をみてあげました。後になって、母も法を得て、修煉をはじめました。

 法を正す時期の大法弟子となる

 明慧ネットと正見ネットに発表された文章を読み、私は法輪功修煉者たちが寝食を忘れて、人を救っていることが知り、とても感動しました。私も人を救いたいと強く思いました。はじめに参加したプロジェクトは大紀元時報でした。私たちの地区は学習者が少なく、毎週華人が集まる地区で新聞を配布していましたが、新聞には地域社会のニュースも無ければ広告もありませんでした。同修の導きと励ましの下で、私は地域社会の活動に参加しはじめ、現地のクライアントを訪れ、広告を取ることを試みました。

 当時、現地のコミュニティは法輪功に対して、マイナスのイメージが強く、ある記者(法輪功修煉者)がコミュニティの責任者を取材しようとしたところ、断られたこともありました。私は本来、人と付き合うことが好きではなかったのですが、この地区の人々を救いたく思い、新唐人の同修の助けの下で、撮影と短いプログラムを作成する技術を学び、地域社会のためにニュースを作成し、彼らとの距離を縮めました。彼らは大紀元の記者と更に接触するなかで、大法弟子のすぐれた人徳と姿を目にし、私たちが絶えず真相をはっきり伝えるなかで、法輪功に対する印象を変えました。少しずつ、地域社会で活動がある時、私たちにも通知してくれるようになり、また自ら私たちに取材を依頼しました。

 しかし、広告を取ることは順調ではありませんでした。私は普段、家にこもることが好きでした。しかし広告を取るには外を走り回らなければならず、クライアントを1軒ずつ訪問しなければなりませんでした。毎回出かける前に、私は長時間発正念をしないと、出かけられませんでした。しかし、もともと孤高な私にとって、口を開き、他人にものを売ることはとても難しかったのです。後になって、同修が美食コラムを作る提案をし、レストランのために料理の記事を書いてあげることを通じて、大紀元を売り込みました。このやり方は私に合っていました。撮影、記事の作成、そしておいしい料理を味見することは私の長所でした。同修が電話をしてアポイントを取ると、私がそちらを訪れ、取材しました。料理の写真を撮り、取材することを通じて、私たちはレストランのオーナーと良い関係を築きました。

 料理の写真をうまく撮るため、私はトレーニングに参加し、専門機材も購入しました。撮影時には、絶えず改善し、嫌がることなく、すべての料理を最適な形で表現するようにしました。私たちのプロフェッショナルな態度はレストランのオーナーを非常に感動させました。紙面づくりと編集の同修の共同の努力の下、喉から手が出るほど欲しかった料理の記事が新聞に載りました。このことで新聞が更に多くの人に読まれるようになり、レストランにもチャンスをもたらしました。師父の加護と加持の下、私たちはようやくはじめて、レストランと広告の契約を結ぶことができました。

 大紀元プロジェクトをやる過程は、絶えず心を修め、執着心を取り除く過程でした。最初の頃、一度パソコンのスクリーンが突然壊れました。私は何度も文句を言い、新しい物を買おうと思いましたが、突然、これは師父からの啓示だと意識しました。幼い時から受けてきた教育は、誰よりも優秀でなければならないというもので、私自身は確かに勉強において優秀であって、長所の一つでもありました。しかし、それによって引き起こされた顕示心に、私はまったく気付いていませんでした。たとえば撮影の際、私は撮影のテクニックを見せびらかし、文章を書くときは華麗な言葉で修飾することにより、自分の文章作成能力をアピールしようとしました。修煉の過程において、少しずつ、撮影と文章作成において、まずお客様の求めるものと読者の感じ方を考慮しなければならず、彼らの立場に立った上で、技術的に優れた作品を作成してこそ、人の心を感動させるということが分かりました。自分の顕示心を意識できた時、それを取り除くように努力すると、スクリーンも正常な状態に戻りました。

 私の生活範囲はとても狭く、身辺の人はみな私に優しく、心性の関も多くありません。しかし、新しい取引先を開拓する過程において、色々な人に出会い、絶えず心性の試練にぶつかりました。電話で約束をして、訪れたのに時間がないという取引先もありました。仕方なく、1回、2回、3回も訪れなければならないこともありました。また私たちの記事と写真にとても満足しながらも広告を出そうとしない取引先、また契約を結び、広告も出したのに、広告費を滞納する取引先もいました。

 あるレストランのオーナーは、中国大陸から来ていましたが、邪悪な宣伝に影響されて、わたしが初めて行った時、私たちに会ってくれませんでした。私は根気よく、ホールの人とフロントで話し合い、真相を伝えました。少しずつ私はオーナーの奥様と友達になり、彼女が病気になった時、健康保持関連の中国語の雑誌をプレゼントし、また人々が法輪功を修煉して、病気が治った事例を聞かせました。また常に彼らに大紀元新聞を配達し、他のレストランが新聞に載った記事を見せました。彼らは勇気を出して、私たちに写真を撮らせ、取材を受けました。作成された記事に挿絵を加えると非常にきれいでした。私はその記事を切り取り、心をこめて大紀元時報の題字と一緒に壁紙を張り、額縁に入れて彼らにプレゼンしました。彼らはとても喜び、店にかけ、宣伝しました。そして、彼らは共産党に対する恐怖心を破り、その後、大紀元時報に広告を出し、大紀元新聞を置いてくれるようになりました。

 私たちは車両販売店の広告を取ったこともあります。現地の華人マーケットはとても小さく、車両販売店は普段中国語の新聞に広告を出しませんでした。しかし、私たちは諦めませんでした。その間、ある同修は私と一緒に広告を取っていました。最初、私たちはまず家でクライアントに電話をして、アポイントを取りました。しかし、車両販売店のマネージャーに通話することはとても難しかったのです。常に留守電でした。その後、私たちは直接訪問しましたが、効果はあまり良くなかったのです。なぜなら、マネージャーは往々にして、セールスマンに会おうとしなかったからです。ただ私たちに名刺を一枚渡し、電話でアポイントを取ってから行くようにと言いました。しばらくやってみて、非常にがっかりしました。どうしたら突破できるかわかりませんでした。

 ある日の朝、私はとても早く起きました。学法を終えてから、住所録を開いてみたら、まだ電話をしてない電話番号が一つありました。その車両販売所は我が家からとても遠かったのです。電話をすると、すぐ繋がりました。私はマネージャーに話をしたいと言いました。相手は「私です」と答えてくれました。私はとても喜びました。私はすでに何度も電話をかけていたので、自己紹介の台詞をとてもよく覚えていました。私は簡単に大紀元時報と現地の華人マーケットについて紹介した後、彼に面会の時間を予約したいと伝えました。なんと彼は「いま空いてます、来ることができますか?」と言いました。私は躊躇せず「行きます」と答えました。行ってから分かったことですが、この車両販売店は現地で最も歴史が長く、店舗面積も大きな車両販売店の一つでした。マネージャーはこの販売店のオーナーでもありました。

 会ったとき、マネージャーはとても率直に、普段はセールスマンに会わないが、私がとても早く電話してきたため、フロントの人がまだ出勤しておらず、自分と話す機会があったと言いました。誰が自分と同じようにこんなに早くから仕事をしているのかという好奇心があって、私に会うことにしたと言いました。しかし、彼はすぐゴルフに行かなければならないと言い、私に10分の時間をくれました。

 私は2分間大紀元時報を紹介したのち、彼に販売店の状況を聞きました。その結果、彼は自分の奮闘史と家庭について述べました。30分話しても終わらなかったのです。私は興味津々に聞きながら、心の中では、広告を出すのだろうかとためらいました。私は彼の話を聞きながら、発正念しました。話題はやっと広告に戻りました。彼はまず私たちの新聞を少し褒め称えましたが、突然「私達のセールスマンが一番嫌っているのが中国人とインド人のお客様です。彼らはとてもよく値切りをします。彼らに車を販売するとあまり利益がありません。私はとてもあなたに協力したいのですが、あなたは私を説得できますか」と質問しました。私は少し考えてから、「おっしゃるとおりです、中国人は確かにとても節約します。彼らがお金を稼ぐことは確かに容易なことではありません。しかし、彼らは手に現金を持っています! あなたが売れない在庫を彼らに売り、現金に換えたらよろしいのではないですか」と答えました。マネージャーは大いに笑いました。彼はその場で1年間の契約にサインしました。

 実際、私はあまり能力のないセールスマンです。多くの場合、何を言えばよいか分かりません。しかしこのことを通して、良いセールスマンはいかによくしゃべるかではなく、いかに相手の話をよく聞き、問題を解決するかにあると分かりました。修煉者にとって、法をしっかり勉強し、心を清めれば、師父は機会を下さり、知恵を与えてくださいます。

 私が参加したもう一つのプロジェクトは神韻の宣伝です。はじめて神韻を見たのは車で3時間かかる都市でした。当時、私は前の真ん中の一番良い席を購入しました。幕が開いた瞬間、私は涙がほろほろと流れ、感動する心を抑えられませんでした。神韻の舞台は私の心の深いところの記憶をよみがえらせ、美しいふるさとに対する憧れと切実な回帰の願望を引き起こし、私の修煉に対する認識を更に高い境地に昇華させてくれました。神韻を鑑賞してから、私はすでに同修と共に神韻を我が市に招いて衆生を救い済度したいと思い、矢も盾もたまりませんでした。

 我が市は小さく、学習者も比較的少ないため修煉環境も比較的単純で、いかに神韻を宣伝するかについて、皆がすばやく共通の認識を持つことができました。神韻の宣伝もわりと順調でした。しかし、協力しあう過程は他でもなく修煉の過程で、人心を取り除く過程でした。

 私は完璧主義者です。自分に対する要求が厳しいばかりか、他人に対してもとても厳しかったのです。たとえば、人と会う約束をしたら、私は必ず時間を守ります。私は人が遅れることがとても嫌いでした。神韻のチケット販売をする時、私とグループを組んでいた同修がいつも遅刻し、1時間遅刻したこともありました。当時、私はとても不機嫌になり、心では「古い学習者といいながら、どうしてこんなによく修めていないのか」と思いました。再び同修をみると、気に入るところが一つもありませんでした。下手な英語、田舎くさい服装、くどい話しぶりなど。自分を偉そうに思う心が膨張していたのに、私はそれに気づいていませんでした。しかし、少しずつ私は、同修はみなそれぞれ、神韻のチケットを販売する方法を持っているとわかりました。急いで人を救いたい心を持っていたので、語る言葉は人を感動させて、多くの人は同修の熱心な勧めの下で、チケットを買ってくれました。その時、私は自分と彼女との差が見え、私の寛容と謙虚のなさをより理解できました。人はみなそれぞれ自分の長所と短所を持っています。一つの団体として重要なのは、長所を生かし短所を補って互いに包容し、法を正すなかで最大の力を発揮することです。私が自分の執着を認識して直したとき、同修は再び遅刻しなくなりました。

 その後、私たちの近くのある都市でも神韻を主催することになりました。その都市には大法弟子がとても少なく、協調人もほかの都市の学習者でした。当時私はちょうど仕事をしていなかったため、助けに行くことにしました。皆、他の都市から来ていたので、部屋を借りて一緒に住んでいました。私は情熱をいっぱい持って行きましたが、最初に乗り越えなければならなかったのは集団生活でした。

 私は小さいときから身体が虚弱て、多くの病を持ち、ずっと両親に甘やかされて育てられました。結婚してからは、夫と舅、姑に寵愛されて、よくない習慣を持っていました。例えば、睡眠が浅く、寝るときに光とか、声とか、風、ひいては匂いがあっても駄目でした。初日の夜、私は唖然としました。あちらこちらでいびきの音がし、歩く音、ドアを開く音、しゃべる声、キッチンでの食器がぶつかる音、油の匂いなどで、私はずっと眠れませんでした。翌日は週末で、手伝いにきた同修は更に多くなりました。深夜になってもずっと出入りする人がいました。私はそろそろ崩壊するところでした。起き上がって客間に行くと、同修が交流中でした。私は泣き声で、同修に「眠れないけれど、どうしたらよろしいですか」と聞きました。同修は理解できず、気軽に「眠れなかったら、寝なければよいのでは」と答えてくれました。同修は私に、彼女が刑務所で迫害されていた時、警官は彼女に手錠を嵌めて立たせ、強い光を当て、睡眠を禁止したそうです。そのような悪辣な状況下でも、彼女は寝たければ寝て、まったく心を動じなかったと教えてくれました。私は突然分かってきました。師父は私の安逸の心といわゆる「十分な睡眠」に対する執着心を取り除いてくださっていました。執着を放下すると、そのために困惑することはなくなり、眠れなければ学法しました。それはかえって良いことでした。

 その間、私は主に弁護士、診療所と養老院を訪問しました。この都市には老人が比較的多く、経済的にも余裕がありました。養老院の活動の担当者は連絡すると、みな喜んで私たちに協力してくれました。私はアポイントをとり、大型テレビを持って、そこを訪れ、現場で神韻の説明をしながら、チケット販売をしました。私はあまり多くしゃべる必要がなく、神韻の美しい宣伝ビデオは彼らの心をしっかり掴みました。老人達はテレビの前で宣伝ビデオを見て、子供のように絶えず賛嘆し、絶えず質問しました。一部の老人は子どもたちと一緒に見に来たり、一部の老人はチケットを購入した後、連れ合いに再三勧めて一緒に観に来たり、一部の老人は私に食べ物を持ってきました。彼らは私がこれほど美しい公演を彼らにもたらしたので、まるで天使みたいだと思っていたようです。これらの善良な老人は人生の晩年に、幸いに救われる船に乗ることができました。私は心より彼らのために喜びました。

 その時の集団生活は、私にとってとても大きな助けとなりました。毎日同修と一緒に学法し、煉功し、発正念をして、汚れを恐れ、騒ぎを恐れ、疲れを恐れる執着を克服できるようになりました。私に対して気遣ってくださった同修の皆さんに非常に感謝します。協調人は私のために、わざわざ比較的静かな部屋を按配してくださり、同じ部屋に泊まっていた同修は私が寝ていた時はなるべく小さい声で話し、ある同修は自分のかくいびきで私が目覚めることを恐れて、タンスのなかで寝ました。私は自分ひとりでテレビを運ぶことができなかったため、毎日チケット販売に行く時には同修が送迎してくれました。

 法を得たばかりの時、私はたくさんの好奇心と知識を求める心を持っていて、経文を読む時、常に「あ、こういうことだったんだ」「あ、そういうことだったんだ」と感嘆していました。後になって、読む回数が多くなるにつれて、一時期は新しいものが悟れなくなりました。例えば、『轉法輪』のなかの「三葉虫」の物語ですが、私は常にその部分から何か見つけようとしました。見つからないと、とても失望しました。ある日、大声で読んでいたとき、突然、法理は何か考えているときではなく、逆に何も考えてないときに現れると意識できました。集中して何も考えずに法を読んでいる時こそ、大脳が純粋な状態を保つことができます。修煉とは他でもなく自分を純粋にさせていく過程です。

 今までの修煉過程を振り返ってみると、大したことをしたことも、はらはらどきどきするような関もなかったのです。この体験文章を書くとき、私は常に心から感謝の気持ちが湧き上がってきました。道徳が滑落し混乱したこの世で、私を済度してくださった師父の慈悲なる恩に感謝し、同修たちの励ましと助けに、そして家族の関心と支持に感謝します。幸いに法を正す時期の大法弟子になりましたが、私の修煉はまだまだ足りません。以前、大紀元の仕事の中で、少し成績を収めたら、同修は私にとても大きな栄誉をくださり、励ましてくれました。しかし、すぐ考えを変えたり、苦をなめることを恐れる個性を持っているため、最後まで堅持することができず、セールスの仕事をやめてしまいました。客観的に見ると、私たちの地区には華人が少なく、新聞の発行量が少ないため、広告の効果は限られていて、需要も少ないのです。しかし、修煉者として内に向けて探してみると、結局は自分の問題でした。私は常に自分の性格はセールスに向いてないと思い、人と付き合う仕事が好きではなかったのです。しかし、後になって気づいたのですが、いわゆる性格というのも、旧勢力が按配したものではないでしょうか? 修煉する前、私は占いが好きで、干支の8字、手相、面相について研究してみて、人の一生には確かに定数があり、いわゆる「性格が運命を決める」ということが正しいと思っていました。選択に直面して、人は自ずと旧勢力の按配に従って選択し、自分で決められることは実際とても少ないのです。しかし、大法修煉者として、人生はすでに師父が改めて按排されましたので、いかなることも偶然ではなく、選択する時、師父の按排に従うか、旧勢力の按配に任せるか、これも私たちが人間から神に歩んでいく大事な要素です。同時に、悟ることとやり遂げることの間にはまだ距離があり、法をしっかり学び、しっかりした修煉の基礎を築いてこそ、人間から神への転換をやり遂げられます。これはまた量的変化から質的変化に至る過程です。時々刻々、法理をもって、自分を充実させ、時々刻々法理をもって、自らを照らしてこそ、試練がやってきた時に平然と立ち向かうことができると悟りました。

 修煉すればするほど、法理の奥深さを感じ、自分の悟りの浅はかさが感じられます。場合によっては、語りたいのですが、言葉で説明できません。しかし、一人の大法修煉者として、生活は実際簡単で美しいのです。ただ師父のおっしゃるとおりに行えば、いかなる困難も自ずと解決されます。良くできなかったときは、放下できない執着があるからです。このような修煉体験を分かち合う機会を与えてくださり、ありがとうございます。同修がみな功成って円満成就できることを望みます。

 師父、ありがとうございます。

 同修のみなさん、ありがとうございます。

 (2014年ニューヨーク法輪大法修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2014/5/18/292264.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2014/5/19/1239.html)
 
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