明慧法会|私には師父がいらっしゃる(一)
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文/内モンゴル自治区の大法修煉者 洪鈴

 【明慧日本2014年8月15日】次の文へ

 尊敬する師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 私は医者です。1997年の年末のある日、母が私の勤務する病院へ来て、「法輪功を学びたい。この功はとても良く、それから病気を治すことができるので、多くの人が修煉している」と言いました。私は母に病気があるので医学を学びましたが、私は母に言いました。「それはいいですね。あなたが習得したら、その後、私も学びます」

 旧正月に私が帰宅すると、母はもう法輪功を学び始めていたので、私もすぐに母について煉功しました。

 修煉して何日かした時、座禅中に一度、目の前に一つの光景が現れました。自分は座禅しながら空にふわりと浮かび、下を見ると、多くの人が向上しようと一生懸命に高い山を登っており、続いて、高くて大きい佛像が目の前に現れました。私がちゃんとよく見たいと思った時、佛像は見えなくなってしまいました。さらに、私はよく大法の音楽の音が聞こえました。

 私は毎日、広大な佛恩の中で、時間があれば学法し、さらに、母と一緒に『洪吟』を覚え、法を伝えたので、私たちの家は大きい煉功場になり、村全体で20〜30人が学法に来ていました。

 一、大法に帰す

 1999年「7.20」から、中国共産党の法輪功に対する迫害は天地を覆い隠すかのようで、まるで天が落ちるかのようでした。私は修煉する時間が短く、本当に着実に修煉していなかったので、どうしたらよいか分からなくなりました。当時の邪悪な情勢に誤魔化され、何をしたらいいのか分からず、中国共産党がなぜ迫害するのかも分からず、日々恐怖を感じていました。法を勉強する人が少しずつ少なくなってきて、後になると、まったく本を読まなくなり、ボーイフレンドと付き合い、情と利の中に徹底的に落ちてしまいました。大法の法理は私の頭の中でだんだん薄くなりましたが、あの頃の私は、なすことなく意義のない生活を送っていました。

 ですが、恵み深い師父はずっとチャンスをくださり、ずっと私を見捨てないでくださいました。ある時、私は数人の友達と飲み食いを終え、車を運転して農村へ遊びに行き、途中まで行った時、車がひっくり返り、4つの車輪のうち3つが爆破しましたが、車の中の5人は、運転手が軽く負傷しただけで、私たち4人は全く怪我をしませんでした。これは師父が私たちを保護してくださったのだ、ということが分かっていたので、私は合掌して師父に感謝の意を表しましたが、これは師父が私たちを救ってくださったのだということは、人には言いませんでした。

 師父はずっと私を悟りへ導こうと、私に大法へ帰って来させようとなさいました。しかし、自分は大法に戻れませんでした。大法の音楽がよく私の耳元で鳴っていました。私は自分が大法に入って行けずに苦しみました。後になって、母の家に2人の同修が来て、その2人の同修が大法の中で精進しているのが見え、良い刺激を私に与えてくれ、その2人の同修が私に真相を伝え、励ましてくれました。そのうちの同修が私に言いました。「私たちはみな天から来て、互いに手を握り合って来ましたから、誰かが迷い込んだ時、私たちは約束したんです。『相手の目を覚まさせねばならない』と」。それを聞いて、私の目から涙が溢れ出て、たとえようもない後悔を本心から感じると、目の前に1つの光景がまた現れました。神韻の舞台のように私と神々が地上に降りてきました。自分が遥か遠い宇宙の中から使命を持って来たものだ、という事を知っていましたが、中国共産党の迫害に遭って、私も八方ふさがりでどうしようもなくなっていました。5年間も師父は私を見捨てないでくださり、いつも見守ってくださいました。私を悟りへ導いてくださいましたが、これは何と大きな慈悲なのでしょう。師父はかつて説かれたことがあります。「実は、皆さん自身よりもわたしは皆さんのことを大切にしているのです!」[1]。私は自分に言いました。「必ず私は大法を学びます」。その考えが特別強かったので、それから、私は本当に大法に入って行きました。

 ですが、この時、旧勢力が私の身体を病むように妨害してきました。私の大腿部にアヒルの卵くらいの大きさの腫れ物ができ、いつも痛みました。さらには、私が歩くのにも影響しました。トイレに行く時は、本当に苦しくてたまりませんでした。私は心の中で師父に対して申し上げました。「師父、何が何でも、私はもう諦めたりせず、実のところ、本当に死んでしまっても、私は大法を離れません」。正念が現れると、私の身体は何日かですぐ治りました。それと、煉功の時、体がすごく痒くなったので、私は旧勢力に対して言いました。「あなたは邪魔をしたいのかもしれませんが、私はあなたの言う事を認めません。痒くなれば、ますます煉功します」。しばらくすると良くなりました。

 二、私には師父がいらっしゃる

 2007年、私たちの地元の同修が連行されたので、みんなは同修を救援するのに忙しくなりました。私は地元の国保大隊の警官に2年間、不当に労働教養処分を受けさせられました。不当に労働教養を受けていた期間、姑は巻き添えを食らうことに恐れを感じ、私を離婚するように追い込みました。労働教養所の中で、離婚協議書にサインするよう無理強いされ、このようにして、離婚することになりました。

 2年後に私が出獄した時、夫は私と復縁する事をまだ考えていました。しかし、姑が1枚の協議書を手に持って、私に調印させ、大法を諦めるよう私に無理強いし、5年以内に姑の息子には私との結婚証明書の手続きをさせない、ということを話しました。私は姑に言いました。「中国共産党は私を迫害し、あなたは家族のために公平な話をしないだけでなく、さらに邪悪に手伝って私を迫害しに来ているので、私が調印するはずがありません。私と復縁したかったら、私たちは結婚証明書の手続きをしましょう」。姑と夫が認めようとしなかったので、私はそこの家と別れました。私は夫に、毛布2枚と枕2つを要求しましたが、これが私と子供との家財道具のすべてでした。私は無一文なだけでなく、6万元以上の巨額な支払いを押しつけられました。この6万元以上の支払いについては、元夫の家での部屋の内装時に支払いを残した2万元がその中にあり、さらに元夫は妹の交通費を借りており、元夫は返そうとしませんでした。私は大法修煉者なので、私は返さずには済まない、と思っていました。そこで今回の2万元以上が私に押しかかってきました。そして4万元は私の労働教養期間に、私の妹が人に頼んでお金を贈ったものです。

 当時、私は妹に実家に帰らされ、私は小学校に入学する息子を連れて帰り、「法のために子供は来たのだから、元夫のおばあちゃんのところに残すということはできない。どんなに難しくても、私は子供を連れて行こう」と思いました。住む家がなかったので、父と妹の2人がお金を出し合い、借家を借りてくれ、父と妹が私と一緒に住み、親族や友達も私を見舞いに来ました。全部が私に修煉を諦めさせようとしたので、心性の関を一つ乗り越えても一つまた一つとやってきたのでした。

 労働教養所から私は出てきましたが、毎日脳裏には皆あれらのごたごたした状態が流れ、川のように途切れる事がなかったので、その感情に負けていました。労働教養所での2年余り、家に帰る道も見つかりませんでした。実家が都会に引っ越したのはほんの少し前で、生活するのは大変で、いつもギリギリの暮らしをしていました。私は両親に頼っては生きられないので、家を出てお金を稼ぎ借金を返済しなければなりません。というのも、大法修煉者は債務があってはならないからです。私の父親は修煉していないので、腹の立て方が荒々しく、父親の意見に合わないと、父親は私を罵り、「そんなことだから刑務所に入れられたんだ!」と一度思いがけず私を罵りました。これらの酷い言葉は私の心を突き刺し、心をえぐられ骨にまで突き刺さるように感じました。さらに父親は私を家から追い出しました。その日、私は家から外へ飛び出し、労働教養所へ舞い戻ってやるという間違った考えが出てきました。この時、私は師父の法を思い出しました。「怒った勢いで法を勉強しなくなった人、煉功をやめた人は誰と意地になって争っているのですか? 神ですか? 師父ですか? それともあなた自身ですか?」[2]

 私は誰と意地になって争っており、私は誰に腹を立てていのでしょうか? 父親は私の向上を手伝っているのではないのですか? さらにこんなにも愚かなことに、労働教養所へ行こうと思っていました。分かった後、私はまた家に帰って行きました。家に入ると、父親は機嫌を直し、何の話もありませんでした。同修の母もやってきて交流し、本当の気持ちを母に言うと、母を大いに驚かせ、母は父親に聞きました。「なんで娘にそんなことを言うのですか?」父親が言った事を父親は絶対に認めようとしませんでした。もともとこれは旧勢力が常人である父親の口を利用して私を迫害したのだということを私と母は知っていました。母と私は「マンハッタン説法」を学び、法の中の一語一語がみな私に当てはまりました。私は何度も師父に言いました。「私が間違っていました! 私が間違っていました!」

 1つの関を乗り越えていないうちに、続いて次の関がまた来ました。妹とも揉め、妹は怒るとすぐにお金を請求してきました。当時たった7歳の息子も私に逆らい、私の所に居たくないと言い出し、「この家は小さいから嫌いだ。お父さんの家ほど大きくないので面白くない」と言いました。学校の先生もいつも私に、「この子はとてもいたずらっ子で、しっかり勉強しません。成績はクラスでいつも最下位です」と言いました。

 私の心は石で押さえつけられているかのようで、1日ずっと息苦しくて咳き込み、胸に溜まった多くの良くない物が私に圧し掛かり、法の力すらないかのように感じました。その時、私は人気のない所を探し、大声で何度も叫びたいと思いました。大声でわめき、大声で叫ぶ、これは魔性の表現ではありませんか? 師父の法がもう一度私の頭の中に浮かびました。「なぜなら、この道を歩む過程に困難があり、各種の試練、思いもよらない魔難と様々な執着及び情による妨害があるからです。この妨害は家庭、社会、親族友人、ひいては修煉者同士から来ており、さらに人類社会の情勢による妨害もあります。この全ての全てはあなたを常人に引っ張り戻すことができます。この全てを突破することができれば、あなたは神に向かっていくことができます」[3]

 私に本当に何もなくなったとしても、私にはやはり師父がいらっしゃるんだ、と私は思いました。私はきっと最後まで師父についていきます。こんなに大きな法が、私を救い済度できないなんてことがあるのでしょうか? これらの面倒なことの全ては私が大法を諦めかけていたからで、着実に修煉する時間は短く、個人修煉と法を正す修煉は合わせて行うべきもので、法を理解していないために起きたのだということを、私は知りました。一度、学法していたら目に止まりました。「だからこそわれわれは、こういう複雑な環境の中で修煉しようとしており、苦の中の苦に耐え」[4]。これくらい大した事ないと、私は思いました。師父が私達を済度して下さるためにどれだけ苦労なさり、どれくらい罪をお受けになったかを私達は知りませんが、これは私達修煉者としては想像できないものです。私がこれらの苦しみをなめたのはみな私の業力からですが、師父が安排なさったものではないので、私は認める事はできず、またこれらの苦しみを受け入れることもしませんでした。そんな事を考えていたら、心の中で私を抑えていた物質がなくなったので、私は楽になり、未来が希望に満ち溢れているように感じました。内に向けて探し、内に向けて自分を修煉し、法を自分に照らし合わせて理解しました。自分が窮地から一歩ずつ出てきた事を感じ、まったく「窮しても道は開ける」でした。

 (続く)

 (明慧ネット第10回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 注:

  [1]李洪志師父の経文『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」

  [2]李洪志師父の経文『精進要旨三』「ヨーロッパ法会へ」

  [3]李洪志師父の経文『各地での説法七』「米国西部国際法会での説法」

  [4]李洪志師父の著作『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2013/11/21/282001.html)
 
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