修煉者が2015年神韻を見た感想
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文/藍馨(中国)

 【明慧日本2015年3月14日】新しい年を迎えた際、2015年の神韻公演(中国本土版)を二回ほど鑑賞させていただきました。感想としては、公演全体の一体感がとても素晴らしく、「美しいものが多すぎて、
一度に鑑賞しきれない」という言葉でも表現できるものではないと思いました。

 舞台を鑑賞する過程で、私の場合、いかなる人間の念も動かしたくありませんでした。なぜなら、私は、舞台の上で演技しているダンサーや大きなバックスクリーン映像を見ただけではなく、さらに、無数の様々な神々がエネルギーを発している姿も見えました。もちろん、師父の無数の法身もそこにもおられ、無数の天女が花びらを散らし、それに、金の龍と大きな鳳凰、また異なる体系の護法神と各種の天神なども見えました。

 これらの天神の一部は、神韻の舞台が邪悪に妨害されないように守ってくださり、また一部は観衆の考えを観察し、観衆の考えに変化さえあれば、神韻、或いは大法を認めさえすれば、彼らのこれからの人生を新たに手配しています。実は、神々はこれらの観客の人生の軌道を転換させるだけではなく、それぞれの観客の背後に多くの生命体系があるため、そのすべてのものを変化させています。また、一部の神々はダンサー達の公演中の安全を守り、一部は公演中の電気設備が正常に運転するよう守っています。他にも、いろいろな役割を果たしている神々もいました。

 たとえば、公演の中では、二度も孫悟空と関係ある演目がありました。孫悟空という人物は『西遊記』の中の登場人物(文化と歴史の側面から言えば)ですが、当時、神が孫悟空を『西遊記』という神話小説に登場させた目的は、今日の修煉の道を歩む修煉者に、邪悪を見抜く千里眼と邪悪を一掃する勇気と才能が必要であることを分からせるためではないでしょうか。まして、私達大法弟子としては、孫悟空は小説の中の人物だけではなく、彼は1人の実在の神であることを分かっています。

 私が見た光景を話しますと、孫悟空(役者)が登場するとなると、本当の孫悟空と彼と直接的、間接的に関係のある神々も現れ、彼らは共に二つの物語を推し広げていました。これは舞台の上の話だけですが、一方、観客席を見てみると、『西遊記』について、多くの西洋人もその内容を多少知っており、また、踊りという世界共通の芸術言語を使っているため、演目の中で表現した内容は人々がすべて分かり、孫悟空が表した邪悪を一掃する様々な奇跡について、西洋人も理解できるものです。

 観客の考えが変わりさえすれば、神韻が表現しようとした内包を認めさえすれば、彼は直ちに済度される対象と分類されます。なぜなら、多くの神々がこのことを担当しており、人に機会を与え、人々がどう捉えているかを、神々はすべて明確に記録をしているからです。

 東洋人或いはアジア系の人にとっては、彼ら自身は東洋体系の神佛によって管理され、彼らが中国共産党によって汚染された観念と考えを変え、神韻を認めさえすれば、彼らも同様に済度される対象となります。

 実は、今の人はとても複雑で、普通の人類もいれば、以前人類以外の生命、つまり、非人類の生命及び三界の輪廻系統以外の生命もいます。いずれにしても、1人の生命が、人身を持っていれば、師父はすべてチャンスを与えてくださいます。神韻を認めさえすれば、すべて済度の対象となるので、それは彼らにとっては、本当に生命の中での最大の幸運だと言えるでしょう。

 『神筆の伝説』という演目は、一人の人が正念を持っていれば、神々から恩賜をいただけるようになり、また、正念を持っていれば、神から賜わったものが本来の力を発揮できるようになることを教えてくれました。修煉者として、私達のすべては師父から頂いたものです。私達にはお金があるにせよ、幸せな家庭があるにせよ、或いは修煉の過程において、知恵を開き、知能を開き、甚だしきに至っては、功能が現れたにせよ、それはすべて私達に法を実証させ、また人を済度させるために下さったもので、けっしてこれらのものを使って、人の前で自己顕示をし、また利や名を求め、或いは財と色を騙し取ることに使ってはいけません。そうすれば、人を害せば己自身を害するだけではなく、さらに大法に泥を塗ることになります。

 もう一つの、和尚が芸を学び、悪を懲らしめる演目は、私にさらに多くのことを感じさせてくれました。それは、悪人が正念に満ち溢れた修煉者の前で、まるで操り人形のようなものに過ぎず、何もかもがすべて修煉者の思い通りになることです。ただし、修煉者の考えが正念か正念ではないか、それ次第です。

 私が最も感動したのは、『善の力』という舞踊です。法を実証して今日まで至り、私達は、悪事を働いた警官に対して、いかなる憎しみの心を抱くべきではなく、ひたすら善の念をもって行動すべきです。そうすれば、環境を本当に変えることが出来ます。「憎しみ」は人心で、私達が修煉の中で取り除くべきものです。慈悲こそすべてを変えられ、邪悪を徹底的に一掃することが出来、本当に衆生を救うことができるものです。

 今年の神韻公演の中では、今までまったくなかった新しい内容がありました。それは、大法を迫害する元凶の江沢民が直接に現れたことでした。公演では、舞踊の形式を通して、彼が大法に対する憎しみ、また、彼がこの十数年も続く迫害の主謀者であることを掲示し、そして、彼の悪事を度重ねた結末を見せてくれました。1匹のヒキガエルの生まれ変わりで、髪を梳いたり、ひけらかしたりすることしか知らず、たとえ一時、党・政府・軍の権力のすべてを彼1人の手に集中したとしても、結局のところ、やはり人が神との闘いで、けっしてろくな末路をたどらないことを教えてくれました。

 公演では、全部で12曲の歌がありました。それはすべて迷いの中の人々を呼び覚まし、機縁を大切にするように呼びかけるものでした。二胡の演奏も、人に「余音がいつまでも消えない」と感じさせ、その中に神の要素が効いており、素晴らしい音色が人々の心の深い所に打ち込み、歴史の中で築き上げた今日において真相を分からせるための記憶を呼び覚ますものでした。

 以上は私が2015年神韻(中国本土版)を鑑賞した後の僅かな感想です。それを書き出して、同修の皆さんと分かち合いたいと思いました。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/3/1/305747.html)
 
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