【明慧日本2016年1月23日】楡樹市の法輪功学習者・劉淑艶さん(60歳)は不当に拘禁され、罪に陥れられた。家族は弁護士に依頼した。弁護士は楡樹市検察院と裁判所の関連責任者に劉さんのファイルを閲覧することを要求したが、彼らはずっと口実を作って断った。正しい法律手順で対応せず、弁護士のファイル閲覧を妨害した。
2015年11月25日、楡樹市刑事捜査大隊二中隊の隊長・エン国輝と管瑞川は山東省孤島に行き、長年路頭に迷っていた劉さんを強制連行し、楡樹市に連れ戻した。そして、留置場に拘禁した。
劉さんは1998年に法輪功を修煉しはじめた。当時、全身は病気だらけだった。常に頭痛があり、厳しいときは吐き気がして、嘔吐した。全身に力がなく、仕事ができず、一日中昏々たる状態だった。彼女は「特に60年代に共産党が計画的な出産を重んじた当時、母は現地政府に強いられて避妊手術をしたが、出血が多すぎて昏睡状態になり、もう少しでこの世を去るところだった。当時10数歳だった私も非常に驚いて、痙攣を起こした。それから焦るたびに、痙攣を起こした」と語った。法輪功を修煉してから、劉さんは全身の病気がなくなり、生活においても希望が見えてきた。
1999年7月中国共産党は法輪功に対する迫害をはじめた。劉さんは何回も迫害を受け、家族も彼女自身も厳しい迫害に遭った。2004年11月黒林鎮派出所の所長・孟は4、5人の警官と、劉さんの自宅を捜索し、彼女を楡樹市留置場へ連行した。6、7日後、劉さんは1年の労働教養を言い渡され、長春の黒嘴子労働教養所に拘禁された。
2009年4月19日、劉さんは法輪功の真実を説明する資料を配布していたところ、黒林子派出所の警官、李偉、崔広来と運転手・彭顕明に連行され、留置場に拘禁された。劉さんは断食で、不当な拘禁に抗議したが、ベッドに縛られ、毎日不明な薬物を7、8瓶注射された。
顔と体は腫みはじめ、吐き気がして、嘔吐した。7、8日後、薬が変わった。その薬を注射されたのち、劉さんは苦しくなり、強烈な吐き気がして嘔吐し、座っても横になっても不安定になり、眠ることもできなくなった。
2、3日経ったとき、劉さんはすでに息も絶えだえの状態となり、生命の危険に晒された。警官は彼女が留置所で亡くなることを恐れて、彼女の家族から2000元をゆすり取ったのち、解放した。帰宅後も劉さんは妨害された。仕方なく、劉さんは家を離れ、路頭に迷うことになった。
楡樹市公安局、検察院、裁判所は数年間、大金を惜しまず、劉さんの行方を調査し続けた。彼女の居所を見つけたら、現地に戻るように脅迫した。
2015年12月30日、劉さんの家族が北京から招いた弁護士は留置場に行き、劉さんと面会した。すでに逮捕許可が出たと聞き、弁護士は楡樹市検察院に行き、劉さんのファイルを閲覧しようとした。この間、弁護士は担当者に閲覧と弁護の手続きの資料を提出した。しかし、検察院の担当者・趙鉄奇は「ファイルは引出に中にしまっているが、鍵がかかっているので、いま取り出せません。この数日間、私はよそに行き、研修に参加するので、10日くらい後、私が戻ってきたら、また連絡します。私が連絡したら、また閲覧にきてください」と言った。明らかに正月期間はみな休みなのに、どこに研修にいくというのか。かつ彼の研修と弁護士のファイル閲覧はまったく関連のないことである。
1月12日は劉さんの家族は裁判所の担当者・張立国からの電話を受け取った。劉さんが弁護士に会いたいと言っていると伝えられた。この時になって、やっとファイルは弁護士に通知せず、すでに裁判所に送られたことが明らかになった。家族は急いで弁護士に連絡した。弁護士は15日に楡樹市検察院の趙鉄奇に問い合わせたところ、趙は大変バツが悪るそうに謝った。それから、裁判所と話してみると言った。
その後、弁護士は裁判所に行き、張立国に会おうとしたが、張は用事で公安局に出かけていると聞かされた。昼前の11時過ぎに張はやっと帰ってきた。当時、3人が弁護士と話し合ったが、弁護士に彼らの情報を聞くよう要求した。彼らは「この案件において、あなたにファイルを閲覧させ、弁護させることができない。われわれにはその権限がない」と言った。また、北京市司法局と弁護士事務所が話し合って、決定したと言った。「法に則り、国を治める」という言葉はすでに意味がなくなった。
(注:法輪功学習者を迫害している主要な責任者らの情報は、中国語のページを参照)