明慧法会|慈悲を修め、善をおこなう
■ 印刷版
 

 -- ある80後(訳注:一人っ子政策後に生まれた人)の修煉体験

 文/中国・河北省の大法弟子

 【明慧日本2016年3月21日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は1995年7月に大法修煉に入り、その時はまだ小学校を卒業したばかりで、父と母の後ろに付いて煉功していただけでした。瞬く間に20年が過ぎ、思い通りにならないながらも、成長してきました。慈悲で偉大なる師父は、慈悲深く私を保護してくださり、転びそうになった時は幾度も助け起こしてくださり、精進している時は励ましてくださり、迷った時は警告を与えてくださり、向上した時は悟りを開かせてくださいました。、こうして私は一人の子供弟子からゆっくりと成熟した大法弟子へと成長しました。以下は、修煉におけるわずかな体験を師父にご報告するとともに、同修の皆さんと交流したいと思います。

 学生時代を昨日のことのように覚えている

 1999年7月、高校一年の夏休みに入って間もなく、中国共産党が法輪功への迫害を開始し、7月20日、私は両親と何人かの同修と一緒に大法を護るために北京へ入ることにしました。しかし、石家庄へ向かう列車は止まってしまいました。そこで、800元を払ってタクシーで北京へ向かいましたが、高速道路が封鎖され、道中でさまざまな困難に遭遇し、夜中に北京市の大興区に着きました。タクシーの運転手は私たちを道端で下すとそのまま行ってしまいました。夜中に池のほとりのコンクリートの上に横になり、蚊がたくさんいてたまらず、サイレンの音が常に聞こえていましたが、私は少しも苦しいと思ったり、怖いと思うことはありませんでした。

 7月23日、私たちが天安門で大法を実証すると、私は警官に殴られたり蹴られたりされた後、大型バスに押し込まれ、豊台体育館に不当に連れ込まれました。私たちはバスの中で大声で師父の詩「生きて求める所無く 死して留まるを惜しまず 妄念を蕩尽すれば 佛を修するは難しからず」[1]を暗唱しました。北京豊台グラウンドは法を護るために北京へ入ってきた大法弟子でいっぱいでした。その日はとても暑く、私たちはグラウンドで丸一日太陽にさらされ、水も食べ物もありませんでしたが、暑さや空腹は感じませんでした。その後、地元に送り返され、公安局が不当に家宅捜索した後、両親は別々に職場の人に連れていかれ、不当に拘禁されました。

 私は学校に連れ戻され、クラスの担任の顔は醜く歪み、怒ったように私に「まだ修煉するつもりなのか?」と迫りました。その時のクラス担任の様子は、まるで一瞬にして別人に変わってしまったかのように感じ、大きな圧力を感じましたが、ひるまずクラス担任の目を見据え、多くを考えることをせず、ただ確固とした大声で「修煉します!」とだけ答えました。法を護るために北京入りしたことに私は誇りを感じ、光栄に思いました。クラス担任は私の態度を見ると、何も言わずに行ってしまいました。

 その時はちょうど文系と理系の授業を分けていたところで、私は成績が良かったので、もともとはクラス主任が受け持つクラスで、教員の立場が強いクラスに振り分けられるはずでした。しかし、北京から帰って来てから作られた新しいクラスに移ることになり、そのクラスで教えるのは新しい先生でした。師父の保護の下、学校で私に嫌がらせをする人はいなくなりました。

 2001年10月、私は大学に受かり家を離れました。2002年10月23日、突然両親と連絡が取れなくなり、家に電話しても誰も電話に出ないので、両親がどこにいるのかわからず、叔母や叔父に電話しても教えてくれず、ただ「何でもない」と言うだけでした。何かが起こったのだとわかるとイライラが高じ、両親が危険な目に合っているのではないかと心配し、心理的なプレッシャーが大きくなりましたが、地方の大学に通っていたため、急に実家に帰ることもできませんでした。師父は「肉親や親友が苦痛に見舞われた時、心が動じるかどうか、そういう時にいかに対処するのかなど、まさにこういうところが難しいのです。煉功者となることはこんなにも難しいものです!」[2]と説かれました。そこで私は心の中で「両親は師父の真の修煉者で、最も良い人なのですから、行うことに間違いがあるはずがなく、すべてを師父にお任せし、本当に師を信じ法を信じなければならない」と思いました。

 その後、公安局国保大隊が両親2人を職場から公安局宿泊所へ不当に連行したことを知り、1カ月あまりしてから父は帰ってきましたが、母は留置場に送られ不当に拘禁され、3年間の労働教養を言い渡されたのですが、さらに1カ月あまりしてから師父のご慈悲の下、母は正念によって留置場から出ることが出来ました。

 あの頃を思い返してみると、確かに難しい問題はありましたが、法の光の下では苦しいとは感じませんでした。両親の職場の経済的利益が良かったので、以前からお金のために悩んだことはなく、母が仕事ができなくなってしまった後は、家の中のことは全て父1人の給料で生活を賄うことになり、安全のために、両親は外に部屋を借り、お正月も家に帰ることはできませんでした。大学で学んでいたのは芸術関係の学科で、本来学費は高かったのですが、両親は十分な生活費をくれましたが、大学に通っている間は節約を心がけた生活をしました。成長したけれどもまだ家のためにお金を稼ぐことはできませんでしたので、できるだけお金を節約しました。北京で通学している間、食堂で昼食を食べる時は1元5角しか使わず、1カ月の生活費は多くても300元と自分で決め、ある月は150元しか使わず、服も数十元の服しか買わず、お金を節約しました。休みに家に帰ると母はお金をくれましたが、前学期にもらったお金がまだ残ってることや、休みの時は両親と一緒に煉功と学法をし、お互いに励まし合い、両親を誇りに思っていることを伝えました。

 仕事で心を修め向上する

 大学を卒業して1年余りたった後、私は故郷に戻って仕事をし、仕事中に心性を向上させる多くの関に遭遇しました。ある同僚は私より1歳年上で、私より2年早く仕事を始め、リーダーが同僚に与えた仕事を、その同僚はいつも私にやらせ、やり終えると、同僚はリーダーに報告し、このようにいつもその同僚は私の仕事の成果を盗み取り、私がきちんと行った仕事はその同僚がやったことになり、その同僚がうまく行えなかった仕事は私がやったことになってしまいました。

 ある時、職場では大規模な懇親会の仕事を請け負い、会場の背景のデザインを私が行った後、その同僚が広告代理店に連絡してプリントし、イベント中にこの背景パネルを上級機関のリーダーが大いに褒め、デザインに満足し独創的だと言ってくれ、相伴していた市政府のリーダーも褒めましたが、どちらのリーダーも同僚の仕事だと思い込んでいました。その後、他の同修が見るに見かねて、リーダーは例の同僚の仕事だと思い込んでいる、ことを内々に私に教えてくれました。私はつらく感じましたが、「自分は修煉者なので、常人と同じような見識を持ってはならず、同僚が私の仕事を盗み取ったのならば、同僚は徳を失い業を作るはずだ」と思いました。そこで我慢して黙っていました。

 師父は「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[2]と説かれました。

 懇親会の仕事が終わり、職場では祝賀会が開かれ、何人かのリーダーが酒を持って私たちのテーブルの所に来て、私の目の前で例の同僚の肩を叩き、「今回の背景パネルのデザインは素晴らしく、上級のリーダーも特に表彰したいとおっしゃっており、本当にいい仕事だった」と言いました。すると例の同修は「とんでもない、それほどでもないですよ」と言いました。本当は私がデザインしたのに、そのことには一言も言及せず、せめて「私たちが一緒に努力して行った結果です」という一言でもあれば、少しは私も受け入れられたはずでした。しかし、その一言さえもなく、本当に私の心を刺激し、その時は頭の中で「ボンッ」という音が起こり、心が不安定になり、歯を食いしばって堪え、「私に隠れてリーダーの前で、是非を転倒させ仕事を横取りするだけにとどまらず、私の目の前で堂々と仕事の成果を横取りするようなことをするのならば、これからはどんな仕事であっても、あなたに横取りはさせない」と思いました。

 しかし、家に帰って冷静になってから、「皆さんもご存じのように、われわれのこの法門は常人社会を避けて修煉しているものではなく、トラブルを避けたりトラブルから逃げたりもしません。常人のこの複雑な環境の中で、あなたは醒めています。それとはっきり分かっていながら利益の面において損を蒙り、また他人に利益を侵された時、あなたは他人のように争ったり闘ったりはしません。いろいろな心性の邪魔の中で、あなたは損を蒙っています。あなたはこのような厳しい環境の中で、意志を錬磨し、心性を向上させ、常人のいろいろな良くない思想に影響されながらも、そこから抜け出すことができるのです」[2]という師父の説法を思い出しました。

 これは私に対して説かれた言葉なのではないでしょうか? 私は向上すべきであり、世間の名声を気にして何をしようと言うのですか? さらに「忍」を重んじることが不十分であり、こんなことでは、これ以上心が不安になりこらえなければならなくなった時に、心を動かさずに余裕のある状態で耐え忍ぶことなどできないはずです。仕事をしながらゆっくりと大法の教えに従って行き、名利を求める心と自分が不公平だと思う嫉妬心を意識して取り除き、心のしこりを取り除き、同僚に対して二度と不平不満を抱くことはありませんでした。その後私たちが対立することはなく、仕事の雰囲気は和らいでいきました。そして、リーダーはまた私たちが兼任する仕事を手配し、私と例の同僚の仕事は各々に重点が置かれており、「本当に心を放下して向上し、ついにこの関を乗り越えた」と思いました。

 集合住宅の半分の人が大法の修煉を始めた

 私と両親は小さな全体であり、私たちの家に小さな花を咲かせ、何台かの機械を続けて購買し、法輪功への迫害の真相を伝えるチラシ、パンフレット、シール、『共産党についての九つの論評』書籍、神韻公演DVD、『共産党についての九つの論評』DVD、真相紙幣など、必要があればどんなものでもその作り方を学びました。私たち3人は分担して協力し、毎週多くの資料を作成し、資料を作成するための条件が整っていない周辺の同修に資料を供給しました。特に神韻公演DVDはほとんど毎週100~200枚のDVDを作成し、西暦上の新年までずっと作成し、新しい年の神韻がやってきたらまた作り始めました。

 神韻公演DVDを作らない空白期間は、元旦から中国の春節がやって来るまでの期間で、その期間は『共産党についての九つの論評』DVDを作成し、美しいDVDケースを付け、ケースの裏面とケース内に紹介文字を書き、新年を祝福する年賀状を折りこみ、また、私は自分の技術を生かして、さまざまな『共産党についての九つの論評』年賀状をデザインし、ビニールの封筒に入れ、面と向かって多くの人に配り、人々は縁起を担ぐかのように喜んで受け取りました。

 共同住宅内の隣人はみな、私たちの家が法輪大法を修煉していることを知っていましたが、多くの隣人は迫害の真相を理解しておらず、中国共産党の人々を欺くうそにだまされていました。両親は機会があるたびに隣人に真相を伝えており、私がその場に出くわす時もあり、そういう時はそばで正念を発するか、隣で一緒に真相を伝えました。

 ある時、上の階の隣人の家のパソコンに問題が生じ、私が直しに行った時に、母も一緒に行きました。私がパソコンを修理し、母は真相を伝え始め、システムを元の状態に戻している合間に母と協力して真相を伝え、大法の素晴らしさや修煉した後に、健康な体と健全な精神がもたらされたことえを伝え、中国共産党が法輪功を汚していることや、天安門焼身自殺事件を中国共産党がでっち上げたことなどを伝えました。

 その頃、その隣人のパソコンにはしょっちゅう問題が起きていました。もしかしたら、これはその隣人の機縁であるかもしれず、師父が慈悲深く按排なさったのかもしれません。私はしょっちゅう隣人のパソコンを直しに行き、そのたびに母も一緒についてきました。だんだんと、その隣人は法輪功に興味を持ち始め、ついに大法の修煉を始めました。

 次々と、私たちの集合住宅の隣人の多くが真相をわかり始め、中国共産党を脱退し、大法の素晴らしさを知り、自分のために輝かしい未来を勝ち取りました。そして、4軒の隣人が続けて大法の修煉に入ってきました。集合住宅全体の半分の人が修煉者になり、その人たちはさらに自分たちの家族や親戚、友人を動かし、多くの人に真相をわからせました。そして、母と私は音声電話を使って真相を伝える方法を隣人たちに教え、隣人たちはだんだんと法を正す情勢についてくるようになり、隣人たちとかかわりを持つ衆生を救い済度し始めました。

 ある日の晩、発正念をしていた時、目の前に美しい宇宙が現れ、次の瞬間、宇宙は黄金色の光を放つ法輪に変わり、それから法輪が回転すると、今度はそれが青い宇宙に変わり、それを4回繰り返すと同時に、頭の中に声が響いてきて、「1つの法輪がつまり1つの宇宙なのだ」と私に伝えました。師父は「この法輪図形は宇宙の縮図であり、他の各空間においても、その存在形式と演化の過程が存在しています。ですから、わたしはそれは一つの世界だと言います」[2]と説かれました。師父が私を励ましてくださっていることがわかりました。

 婚姻にまつわる障害を突破し、神の道を歩む

 年齢が増すにしたがって、私の婚姻の問題はだんだんと親類や友人、同僚、さらには上司の関心を集め始め、多くの人が私に結婚相手を紹介し、両親も次第に私の婚姻について関心を持ち始め、私自身も楽しい日々を過ごすことにあこがれる執着がだんだんと強くなってきていたのですが、私も私の家族も結婚相手として常人を探すことは考慮に入れておらず、修煉者を探して一緒に精進し、師父に付いて各々の家に帰って行きたいと考えていました。

 考え方は良かったのですが、背後にある情に対する執着を隠し切れなくなりました。しばらくして同修の紹介で、1人の男性同修と知り合いました。その男性同修の父親が病気で亡くなった半年後、母親が突然不当に連行され、その時は、私たちの家族とその他の同修が一緒になって救出しようとしましたが、最終的にその男性同修の母親は、不当に1年3カ月の労働教養を科されました。

 その後の日々の中で、難に見舞われた同修に対する同情が起こり、私たちの往来はだんだんと多くなり、感情も少しずつ深まっていき、その後、私たちは男性同修の母親の意見を聞いたうえで結婚証明書を受け取り、男性同修の母親が戻って来てから結婚式を挙げようと約束しました。男性同修の母親が戻って来た後、夫の母親がずっとあら探しを続けるとは思っておらず、さらに結婚式では私たちの親戚の前で、夫のほっぺたを叩きました。

 その時、私は頭にきましたが、夫の母親とは言い争わず、「これは私の名を求める心が引き起こしたものか、それとも、夫の母親の立場に立って理解していないのではないか?」と、自分の内に向けて探しました。私は「みんな修煉者なのですから、一緒にたくさん学法し、集団学法グループに参加してもらおう」と思いました。というのも、夫の母親は1回参加しただけで来なくなってしまったからです。私は夫の母親に良くつくし、善を以って接しましたが、夫の母親は、前よりますますひどくなっていきました。

 夫の母親には自分の息子に対する変異した情と依頼心があることがわかり、夫の母親の背後にある邪悪が私たちの善の隙を突いて来たので、夫の母親の間違った状態を正さなければなりませんでした。しかし、どんなに意思の疎通を図ろうとしても、意思の疎通を図ることができず、私にも人心が存在し、夫もいろいろなことがうまく処理できなくなってしまい、私に譲歩、さらに譲歩を迫ってきました。しかし、私が一歩退けば、夫の母親は一歩進んで来て、どこにも活路を見出すことができませんでした。「心を動じさせない」ことから、だんだんと不満がたまってきて憤懣やるかたなくなり、再び母親ともめたらもう我慢ができない状態にまで達していました。結婚後7カ月で、あれもダメ、これもダメで、心理的圧力は極限に達していました。私は人が変わってしまったように癇癪を起こし怒りやすくなった、と母は言い、私はまだこんなに若いのに、左右のもみあげはぼさぼさになり、多くの白髪が出てきました。関を乗り越えられずに、私の心は痛み、悔しく、不平を言い、ふがいなく感じ、恨みを持ち、本当に形容しがたいほどの心の苦しみでした。その後、夫の母親の挑発の下、私と夫の関係はだんだんと揺らいでいき、その頃のあまりの妨害の激しさに、学法や煉功をしようという考えはほとんどなく、さらには妨害は私の両親にまで及んだのでした。

 その後、いったいどうしてなのか? と絶え間なく思考しました。一般人の観点から表面的に見れば、夫の母親が表わす私へのあら探しは表面的なもので、実際にはそれは変異した依頼心と情であり、息子を結婚させたくないのであり、息子に守ってもらい、世話をしてもらいたいと希望しているのであり、夫の母親の目には私が夫を奪ったように映っていました。修煉者の角度から見ると、労働教養所を出てから背負ってきた良くない物質が、夫の母親を妨害し、変異した親子の情を使って夫をひきずりだして壊そうとしており、私の夫への情を使って私をも引きずり出し、さらには私の両親の私への情をも利用して、私の両親を引きずりだそうとしていました。全体から見れば、情への執着から引き起こされたものであり、親子のきずなや愛情、さらには最初は、私たち一家のいわゆる同修から自然に生み出される親切心や、人と人の情誼(訳注:真心のこもったつきあい)を利用したものでした。

 その時、自分が色情を放下し、恨みや悔しさを放下しなければならないことがわかりましたが、たびたび、みぞおちに火の玉が飛び込んでくるような感じで心も煮えくり返りそうでした。執着を放棄しなければならないことは、はっきりとわかってはいたのですが、心をえぐられ骨にまで突き刺さるような感じで執着を切り捨てることができなかったのです。「常人のものを放下して、初めて神のものが現れるのだ」と自分に気づかせようとしました。そして「これはつまり、人と決別した時に神の道を歩む選択ができるのだ」と自分に伝えました。大法だけがすべてを好転させることができると知っていたので、私は両親と大量に学法し、ゆっくりと少しずつ執着を放下していき、時には執着がぶり返すこともありましたが、すべては好転に向かって行きました。少しずつ夫と夫の母親を恨まなくなり、慈悲心が出て来ると同時に、夫と夫の母親をかわいそうな親子だと思うようになりました。本当に執着を放下した時、大風呂敷を肩からおろすかのように、人の情欲から抜け出すと、心を入れ替えて完全に真人間に生まれ変わったかのように、体中が軽くなりました。

 師父は夢の中で私を悟らせてくださり、夢の中で私はある都市におり、その都市には酒食遊楽にふける場所があり、いろいろと出口を探しましたが、出て行きたくても出口が見つからず、その後、ある建物の屋根に上ってみると、屋根の上には蛇の山があり、夢の中で「蛇の山に足を突っ込んではいけない」と思いました。すると、1匹の蛇がぶつかってこようとするのが見えたので、片足で跳んでその蛇をよけると、今度は白い毛のモンスターがぶつかってこようとしたので、それもよけると、遠くに道が見え、すると私の背中から2枚の天使の羽が生えて来て、飛びながらロープをつかんで道まで飛んでいきました。

 ついに婚姻にまつわる障害を通り抜けました。自分が放下できないもの、耐えがたいものがわかり、それは本当の自我ではなく、実際には取り除かなければならなかった執着と自分の後天的な観念だったのです。それは師父が説かれた「修煉の事言うと雖も 心中の執着を去るべし 自己に非るを切り捨て それらすべて是迷中の痴」[3]のようでした。

 何が本当の善なのかを、台湾で神韻を見て感慨する

 去年、私と両親は転々としながら台湾へ移り、神韻をこの目で見ました。神韻のエネルギーがとても強く、見ながら涙を流しました。特に「善の力」という演目は本当に大きく私を震撼させ、大法弟子の純粋な慈悲なる善が警官の敵意を溶かし、警官は大法弟子の善を実感し、二度と大法弟子を攻撃することはなくなりました。

 「このような純粋な善を私は持てるだろうか」と自問しました。自我を全く持たず、完全に他人のために慈悲深くなるのです。私はいつも他人に良くしていますが、自分で注意深く根を探ってみると、「私の善はそこまで純粋ではなく、いつも報いを求める心を持ち、自分が他人に良くするのは自分に対して良くしてもらいたいからであり、何の心も持たず完全に他人のことを考えていたわけではなかった」ということがわかりました。私は「その不純物がつまり自我であり、自我を完全に放下していないから私心が出て来るのであり、だからあのような純粋な善にはとどかないのだ」と思いました。

 このことを悟ってから、家に帰っていつでもどこでも注意深く自分を修め、自我を取り除き、その後の数カ月はとても平和で、誰に何を言われようと私はいつもニコニコしており、少しも心配せず、あの時、とても大きな悪い物質を取り除き、大きく一歩を踏み出した、と感じました。

 この何年もの間、師父は慈悲深く私を見守ってくださり、人心を放下できなかった時、怠けて精進しなかった時、師父は毎回私を助け起こしてくださり、本当に師父の無限の慈悲を感じ、師父は私自身よりも私を大事にしてくださり、ですから、師父のお話をよく拝聴し、三つのことをしっかり行い、円満成就して師父に従って家に戻らなければなりません。

 不足の所があれば、同修の皆さんの慈悲深いご指摘をお願いします。       合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「無存」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「執を去る」

 (明慧ネット第12回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/7/318653.html )
 
関連文章