文/カナダの大法弟子
【明慧日本2016年11月29日】
慈悲で偉大な師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
師父は最近数回の説法の中で、特に協調人についていろいろな質問に答えられました。私はこれに対して特に注目しています。協調人として私の責任はどこにあるのかとよく考えます。その一つは、堅持する心が必要で、皆さんのために無償で自分の時間を使うという意志を持つことです。二つ目は、はっきりと、正しく法理を理解し、法を正す状況もきちんと把握できてこそ、はじめて大きな方向に進めることができ、そして全体的な環境も向上するように促進することができます。三つ目は、より大きな忍耐力と慈悲の心を持ち、同修に対し正念で、すべてのトラブルや問題を解決すべきです。四つ目は、自分の仕事や協調能力も高く要求しなければいけません。
師父は「責任者になったあなたは、大法の仕事のためだと言って、心性を高めなくても圓満成就できるというわけではないのです。学習者でさえ、いかなるトラブルの中でも、それが心性を高めているのだと認識できるのに、責任者がなぜできないのでしょうか? トラブルがやって来たとき、あなたを向上させるため、あなたの心に触れなければ同様にいけません。大法の仕事もあなたの心性を向上させる良い機会なのです!」 「わたしがなぜ、あなた方のためにこの文章を書いたのかというと、あなた方の一挙一動、一言一行が直接に学習者に影響を及ぼすからです。自らをよく修めることができれば、その地区で法をよく広めることができ、学習者たちも、よりよく修めることができるのです。さもなければ、法を破壊してしまいます。皆さんは常人という次元にいる大法の精英なので、わたしはただ皆さんに仕事をさせるだけで、皆さんを圓満成就させないわけにはいかないのです」[1] 法は私たちに高く要求していますが、協調人に対しては、さらに高く要求しています。メディアの協調人として、そして地域の協調人として、私はさらにしっかりと行なわなければいけません。
私は自分の修煉の心得を、皆さんと交流したいと思います。
1、仕事ではなく、修煉と人を救うことである
メディアの仕事は、やる事が多く、人も少なく、時間も厳しく、責任が重大であり、要求が高いことによって、常に表面上の仕事に没頭してしまい、仕事の中に自分の修煉と真相を伝え、人を救うことも入っていることを忘れてしまいがちです。例えば、顧客と打ち合わせをしている際、中国系の顧客が中国共産党の宣伝に深く毒されているため、すぐには私たちを支援してくれないと思い込み、西洋人の顧客とビジネスを始めた方がいいと思いました。西洋人の顧客に対して真相を伝えることは、直接ビジネスと関係がなく、彼らに党文化がないのでうまく交流することができ、真相を伝えなくてもビジネスが順調に進められると思いました。最初のころは、ビジネスがなんとうまくいっていることかと思っていました。しかし、その後予期せぬ事態がいつも発生し、この顧客を失いそうになりました。
同修ともよくこの問題について交流しています。契約を取るため、ビジネスを成功させるため、簡単に常人に従ってしまい、真相を伝えることやメディア自体の使命を果たさなくなり、そして、自分に逃げる口実を作りました。振り返ってみると、ビジネスを行うことは単純に契約を取るのが目的ではなく、この機会を利用すれば、真相を伝えて彼らを救い、契約も自然に取れると悟りました。
自分の考えが変わると、自然と彼らに真相を伝えるようになりました。中国の移民が大量に入ってきている問題など、顧客が見えることから話し始め、不動産市場への影響から、彼らに見えていない中国の人権問題も含めた現状が、世界にどのように影響するのか、さらに日常生活にも影響を与える話まで、このように説明すれば彼らはよく聞いてくれます。今、世界で最大の犯罪である「中国共産党による法輪功学習者への臓器狩り」という事件を伝え、世界各国も法輪功を支持するとともに臓器狩りに反対し、私たちのメディアも他の華人系のメディアとは異なり、毎日このような真実の状況を掲載していることを伝えると、彼らも皆支援すると表明します。
同修と交流する時も、西洋人の主流社会に真相を伝えることは、中国人への真相の伝え方と異なった話をするようにしています。多くの場合は適切な切り口を見つける必要があります。心が人を救う位置に達すると師父は、縁のある人が真相を聞きに来るように按排してくださいます。
また、協調人としての管理責任があるため、普段の話し方や行動などが常人の管理方法に陥りがちです。つまり、自分の観念で他の人を見たり、検査するような見方で対応してしまいます。しかし、常人の理で修煉中のことを解決できるわけがありません。
例えば、毎週の地域の集団学法で、学法が終わって交流の時間になった時、皆が黙って何も交流しなかったり、交流しても表面の形式だけで、次のやることを簡単に話して、終わりにしてしまいます。なぜ交流しないのか、一つは交流する内容がないという状況です。皆は事を行うことに夢中になっており、修煉上の心得がないので、話の内容は事を行うことだけです。もう一つの状況は、修煉の心得があるのに、もし話したら、他の人に認められない可能性があるという恐れ、自分の修煉がよくできていないとか、悟りも高くないなどです。以前この状況に対して、私は常人のやり方でこの学習者と交流したり、あの学習者と交流したりして、この学習者はこの面でよく修めていない、あの学習者はその面の考え方が正しくないなど、さらに固定した見方で学習者を見ていました。例えば、この人は新しい学習者なので、悟った理は低く、あるいは他の人に文句ばかりとか、マイナスの考えが多すぎるなどなど、彼、彼、彼と視線はいつも外に向いていました。
表面から見ると、これらの問題は他人の問題のように見えますが、師父は「神の道のりを歩んでいる時の唯一の変化は、物事の考え方において常人と違っていることです」[2]と説かれました。
協調人としてこれらの法理はわかっていると思いますが、心を落ち着かせて内に向けて探してみると「私は本当に皆さんのために心を開いて話せるような環境を提供しましたか? 本当に心から交流できる環境を提供しましたか? 私は学習者に慈悲をもって対応していますか? いつも態度が厳しく、他人を責めているばかりではないですか? 他人だけに内に向けて探させていませんか? 自分は本当に内に向けて探していますか? 私は常人の管理方法で修煉者に接しているのではありませんか? などなど、多くのことを考えてみました。私が無条件で内に向けて探すと、周りの環境も大きく変わりました。同修も徐々に私と交流するようになってきました。私も自分の修煉の心得を皆と共有するようになると、以前に同修との間にあった見えない壁が溶けたような感じがし、同修達との歴史上の聖なる縁を心から感じました。すべては自分がよく修めていない要素に阻まれ、また後天に形成された常人の観念に阻まれたことが原因で、皆がしっかりと協力しあうことが出来ませんでした。これは同修の間違いではなく、自分がよく修めることによってこの場を変えられると認識しました。
だからこそ、これは協調し合って事を行うだけではなく、私たちの修煉であり、ずっと修煉の要素が存在しています。ある同修は「私たちの環境の中には、トラブルが常人の環境よりも多いですね」と言いました。実はどんな環境においても、私たちの間に現れたトラブルは人と人のトラブルであり、事を行うことは修煉とは見なされません。自分を修めて心性を高めることが第一です。師父は「その過程で見ているのはあなたの心であり、成功そのものを見ているのではありません。取り組んでいる過程で人を救っているのです! あなたが取り組んでいる過程はあなたの修煉が向上する過程であり、その過程で衆生を救い済度する作用を働いています! 仕事を成功させればようやく衆生を救い済度する作用を果たすということではありません」[3]と私達に説かれました。
2、人心を放下し、強制的に他人に要求するところから、謙虚に他人に協力するところまで変わる。
私はプロジェクトの協調人です。自然と多くの仕事を担当し、責任を持ち、目標を設定すると、同修に協力するように要求することは、当たり前のことだと私はいつも思っていました。しかし実際に実行すると、なかなかうまくいきませんでした。
当初、私たちは映像を作る時、多くの同修の協力が必要でした。1日で何百本もの電話をかけ、人員の確認から細かい通知まで、携帯電話のバッテリーを二つも使いました。このような仕事をするのは初めてだったので、経験もなく、他の同修もどのようにやっていいのかわかりませんでした。状況がわからないために、協力したくないという同修や、理解してくれない同修もいました。さらに、恐怖心があるために自分の顔を映されたくない同修もいるなど、とにかく私が想像していたよりも難しかったのです。同修に電話をかけた時、相手の協力したくないという気持ちを常に感じ、同修が直接断らずに理由をたくさん出してきました。私は電話を聞きながら、心がひっくり返ったように動き、なぜ受け入れたくないのか、真相を伝えることに対してこんなにいいことなのに、理解せずに応援してくれないのは、なぜでしょうか? とにかく外に向け、他人が良くないと考えていました。私の話の中には文句の気持ちや、責める気持ちも入り、さらに強制的に圧力をかけるような方法を取っていました。とても努力しましたが、撮影日まで残り1日というところで、多くの出演者はまだ決まっていませんでした。
当日の夜、私は焦りのあまり泣いていました。師父の写真の前にひざまずいて、師父と神々に助けてくださるようにお願いしました。弟子がしっかり行わなかったため、このような結果になってしまいましたが、いずれにしても撮影の進捗を遅らせて、衆生を救うことに影響させる訳にはいきません。どうすることもできなかったので、心を落ち着かせ、法を勉強しました。すると不安や騒ぎ立てる心がすぐに静かになり、法も私に智慧を開いてくださいました。事を行うことに夢中になり、何のために映像を作るのかなど、法理の面で真剣に同修と交流していませんでした。そして、同修の立場から考えておらず、ただ単に同修に必ず行うように要求していたことに気が付きました。修煉者に対しても、個人個人の修煉状態が異なり、考え方も異なり、強制的に要求してはならず、丁寧に説明しなければいけないと思います。そう思った時、もう一度電話を取って、同修に謝りました。「あなたは必ず来ないとけない」という考えがなくなると、逆に同修は続々と私の電話をとって回答しました。最後には決まっていない役も決まりました。
このことが過ぎると、私は同修に対しても、常人に対しても、私の修煉のための心性を向上させる機会になることだとはっきり認識できました。これらはすべてテストです。正念の中で事を行う出発点は真相を伝え、人を救うところに置き、はじめてしっかり行うことができます。事を行うだけではなく修煉して人を救うためです。
長年の修煉の過程を振り返ってみると、多くの学習者とトラブルがあり、法理上で激しく言い争ったこともあり、仕事の中でもしっかり協調できていない部分もあり、不満をもったり、相手の立場に立って物事を考えたくないこともあり、常人のずる賢い手段で自分のプロジェクトに利益を求めたことがあり、修煉の過程で行うべきではないことがたくさんありました。師父は「その動機が真相を伝え、大法のプロジェクトを運営するためなど、良いことであっても、出発点は間違っています。これではいけません。これは最初から道を正しく歩んでいないということです」[3]と説かれました。
執着心に気づいたら、取り除いて正しい状態に戻らなければいけません。時々同修が疑いの目で、あるいは信用のない目で私を見ている時、私もその同修を同じように見てしまいます。内に向けて探すと、やはり多くの執着心が見つかり、正しい状態に戻して、もう一度同修を見ると、以前の私に対する疑うなどの視線は消えました。実際に同修は自分を照らす鏡であり、他人を修煉させるより、自分が修める方が良いと思います。
地元の全体的な修煉環境でも、様々な挫折の中で歩んできて、内部のトラブルも絶えずありました。これらのことは私たちの修煉の道に必ず出てくることだと理解しています。私たち自身の業力によって作られた難儀なのか、それとも旧勢力の按排によって全体の協力を破壊することなのか、いずれにしても私たちは必ず直面し、このことを通して自分の心性や協調レベルを上げて、はじめて歩んで来られる修煉の過程だと認識しています。協調人として他の人ができることを望むなら、まず自分ができるようにしないといけません。人心を放下し、観念を変え、しっかりと心性を向上させ、同修に対して慈悲をもって接し、正念で問題に対処することによって、はじめて旧勢力の按排を破ることができます。
3、正念でトラブルに対処し、慈悲をもって問題を解決する
異なる意見に対して、協力できない現象に、どのように解決するかという問題は、協調人が常に遭遇している問題です。
ある日、同修と検討していた時、意見が食い違ったため、大きな癇癪(かんしゃく)を起こしました。当時何のために議論していたのか覚えていませんが、癇癪が大きすぎたことは覚えています。頭の中ではすべて相手が間違っており、そして相手が理由もなく挑発的なことを言っていると思いました。怒りで全身が震え、頭の中は議論した言葉に衝撃を受けました。
その時、相手が正しいか間違っているかに関係なく、すべて自分が間違っているという法理は分かっていましたが、本当にその執着心を取り除き、人間の観念を変えようとするその時、なかなか難しいと感じました。私は正念を発する一方で、各種の人心も溢れてきました。「彼はなぜこんなに理不尽なのか」 「私はこんな酷いことにあったことがありません」などなど。よくない考えが出てきたら、私はすぐに取り除き、絶えず自分の空間場をきれいにしていると、徐々に落ち着いてきました。その後、同修も私の怒りによって、影響を受けているのではないかと思い、お詫びのメッセージを送りました。
ここまで至ると、この関を乗り越えたと思いましたが、責任者にこのことを報告した時、人心がまた出てきていることに気づき、心から責任者の公平を求めようと思いました。責任者は話を聞くと、自分が他人に誤解された経験を私に話してくれました。その時、師父が他の同修の口を借りて悟らせたそうです。「どんなトラブルに遭っても、誰が正しいのか、誰が間違っているのか、それは私たちのために執着心を取り除く機会を提供しているのではないか。師父が彼の口を借りて私を悟らせていると心から感じました。突然、心のわだかまりが解けたと感じました。体験したことがないような、頭から足まで打ち貫かれたように、本当に全身が清らかで爽やかな感じでした。一層の人間の殻を脱ぐことができました」と責任者は話してくれました。また、最後に一言、こう言ってくれました。「協調人としては正念でトラブルに対応し、慈悲で問題を解決すべきです」 と。
自分自身のよくないものを取り除くと、以前の同修へのよくない見方も変わり、同修との仲が良くなり、仕事の面でもしっかりと協力してくれるようになりました。
この体験を他の協調の仕事をしている同修と共有できるように望みます。師父は「一人とでも協調できていなければ、責任者、プロジェクトの責任者として、それは修煉に漏れがあるということで、やり直す必要があります。やり直すことができなければ漏れがあるということで、円満成就のときに問題があります」[3]と説かれました。私は「修煉者にとって無条件で内に向けて探すということは、黄金のツールであると私たちはよく話しています。しかし、この言葉は私たちがしっかり修めることによってはじめて体験できることです。人間の観念から飛び出し、心性を向上させ、法理上で昇華することによって、自分の周りの場に巨大な変化が起こります。私たちの仕事も前進するようになります。学習者の協力は、相手が協力してくれるかどうかの問題だけではなく、私たちがいかに協力してくれる学習者にしっかりと真相を伝えることによって決まります。このすべての基礎は法からくるものであり、私たちがしっかり修めることによって出てくるものである」と悟りました。今後の仕事がより良くなるように望みます。
ここで師父の慈悲なる済度に感謝いたします! 同修たちの正念での励ましや慈悲なる協力に感謝いたします!
以上は私の修煉体験であり、妥当ではないところがあれば、皆さんに慈悲をもって指摘していただくようお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「責任者も修煉者である」
[2] 李洪志師父の経文:『二〇一五年ニューヨーク法会での説法』
[3] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
(2016年カナダ法輪大法修煉体験交流会)