明慧法会|鉱山長の服を着ている私は、一般の従業員
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文/中国の大法弟子  本人の口述により、同修が整理

 【明慧日本2017年1月15日】私は18年間大法を修煉してきました。決して平らな道ばかりを歩んでおらず、よろめきながらも懸命に歩んでまいりました。私は宇宙の中で最も誇れる生命、大法徒です。師父を助けて法を正し、大劫難の前に人を救い、この世にやってきた自分の大きな願いを実現できることを、大変光栄に思っています。私は自分の修煉中に体験したことの一部を同修の皆さんと交流し、これをもって、師父に対する尽きない感謝の気持ちを表し、同時に大法の超常さと神聖さを実証したいと思います。

 九死に一生を得る

 1979年、私は兵士になり、数カ月後、幹部に抜擢される前に行う、集団訓練に参加するよう通知を受け取りましたが、あいにく最後の当番の勤務の時、突然気を失って倒れ、それから、身体がだめになり、大量に血を吐きました。多い時は洗面器に半分くらいの血を吐き、腹痛で耐えられず、厳しい時は、死の危険すらあり、私の人生は落ち込み大難が訪れました。

 上海と天津の一流の病院に行き、検査を受けた結果、肝臓が裂けて肝臓の下部の表皮に割れ目ができ、出血が止まらず、癒合できないという不治の病でした。身長が167センチで、体重は30キロを少し超えるくらいまでガリガリに痩せました。長期にわたり、病院のベッドに横たわっていたため、背中の大半に床擦(ず)れができて、皮膚がシーツとしっかり癒着していました。しかも高熱が下がらず、今でも、当時の数年間病気で苦しんでいたことを思い出すと、涙が止まりません。

 省にある中心の病院の米国実習生2人の紹介で、米国から高蛋白と白蛋白と呼ぶハイテック薬を輸入し、服用した後、裂け目はやっと癒着しましたが完治せず、持続して薬を飲み、長期に渡り保養しなければいけませんでした。

 私は普通に訓練に参加したり、勤務することも出来ず、人に面倒をみてもらいながら、文書(役職)と一緒に同じ部屋に住んでいました。文書の父親は古い漢方医で、しかも特異功能があるらしく、省の高官も彼に病気を診てもらっていました。彼が息子に会いに訪れた時、一度私はその漢方医と一晩中話したことがあります。彼は我が家のたくさんのことを言い当て、まるで自ら見てきたようで本当に不思議に思いました。彼は私の命はここで断たれることはないが、これからも大きな災難に遭い、また私の素質が非常に高くて、40歳過ぎた時に高人から伝授を受け、従わないと命が危ないと言われ、当時、私はまだ若く、これに驚き、困惑しました。

 軍隊から復員して私は結婚し、子供が生まれました。セメント工場で電工として働いていましたが、身体はずっと非常に悪く、肝臓病以外に、数種の病気、関節炎、ひどい胃腸病なども患っていました。当時、ものを食べることが出来ず、目と顔は黄疸が現れて黄色くなり、体重は35キロを少し超えた程度で、ひと目見ると大きな病気を抱えていることが分かりました。それに、関節炎は非常に痛み、歩く時膝の関節からガーガーと音が出るほどでした。その後、立ち上がることが出来なくなり、工場の当番室で、真夏でもオンドルを熱く温め、一番熱いところを選んで寝ました。熱くて手が火傷するくらいでも熱く感じませんでした。しかし、私に関心を持つ人がなんの病気かと聞くと、病気ではないと答えました。人生の苦しみをしみじみと感じていた私は、前途が果てしなく漠然としていると感じ、行き当たりばったりで過ごすしかないと思っていました。

 1998年、私の親戚の1人法輪大法を学び、身体の病気が素早く治りましたが、それを聞いてもあまり信じませんでした。一度私がその親戚の自宅で酒を飲んでいた時、彼女は私に『轉法輪』を勧めてくれ、表紙を開けると、大法の師父の写真があり、若くて、ハンサムで、容貌が非凡でした。写真から絶えず強烈な五色の光を放つのを見た私は、自分が酒を飲みすぎて、目がおかしくなったと思い、隣の人に見てもらいました。彼は何も見えないと言いましたが、続けて『論語』を見ると、すべての文字が佛さまで、句読点までも小さな佛さまでした。この時、身体にひとしきりの強い流れが湧き出て、全身に汗をかきました。

 私はこの功法があまりにもすごいと思い、学びたいと思うと、突然、以前部隊で出会った漢方医の言葉を思い出し、そのことが本当だと思い高人を探しました。

 私が修煉しようと思っても、まだ『轉法輪』を読んでおらず、煉功点に行って動作を学んでいない時のことでした。ある日の朝、自宅で頭上抱輪をした時、突然誰かが私の腹部を強く拳で一度殴ったように感じ、痛さのあまりすぐにしゃがみ込み、両手でお腹を押さえつけました。しばらくすると、お腹がヒックリ返えったようになり、深緑の水のようなものをたくさん吐きました。吐き終わった後、なんと食べたくなり水を飲みたくなりました。私は自宅にある冷たいご飯を茶碗に半分食べ、温かい白湯(さゆ)を茶碗いっぱい飲むと、身体が熱くなり汗が出てきました。それから、暗褐色の餅のようなものを吐き出し、吐いてからまたお腹がすき、また冷たいご飯を食べ、温かい白湯を飲みました。するとまた、苦い水のようなものをひと碗くらい吐きました。吐き終わってから大変お腹が空き、またもや冷たいご飯を食べ、今度は温かい白湯がなくなり、冷たい水を飲みました。おかしい事に、吐いては食べ、食べては吐き出しましたが、吐き出した物の中に米粒が一つもなく、汗で服がびしょ濡れになりました。妻が朝ご飯を作ると、またご飯だけ2杯食べ食欲が出てきました。

 長年の胃病で、物を食べられなかったのですが、今、食欲が不思議に出てきて、冷たい水と冷たいご飯を食べても何の問題もなくなり、本当に不思議でした。その後、これは師父が私の身体を浄化して下さっていると知り、それからというもの胃病がなくなり、何を食べても美味しく、食べる量も大幅に増加し、身体がみるみるうちに丈夫になりました。学法と煉功をしてからはなお一層丈夫になり、私の身体は奇跡的に回復しました。大法に出会ったことで、私は九死に一生を得、師父にとても、とても感謝しております! 師父は私に第二の命を授けて下さいました!

 苦の中の苦を舐める

 修煉してから、私は人であることが苦であり、修煉するには苦の中の苦を舐めないといけないことが、少しずつ分かってきました。師父の洪吟』「その心志を苦しめる」の「圓満となって佛果を得る 苦を嘗めるをもって楽とす 身を労するを苦と算せず 心を修するは最も過ぎ難し 関という関は全て闖えるべし いたる処すべて是れ魔 百の苦一斉に降る 其の如何に活くかを看る 世上の苦に堪え得れば 世を出ずれば是れ佛陀」[1]が頭に浮かんできました。

 私には幼いころから大脳と小脳の発育不全で、智力が非常に低くて、自分で喋ることも自活することもできず、大小便も分からない弟がいます。以前は独身の兄が面倒をみていましたが、私が煉功をはじめて間もなくその兄が亡くなり、弟の面倒は私が見ることになりました。私は、師父が善い人になることから修煉するよう教えられたことを思い出し、弟に対して善の心で対処することを心がけ、修煉の一歩としました。夏には毎日三度のご飯を届け、冬には、毎日二度ご飯を届けましたが、村の端から端まで移動しなければいけませんでした。私は夜勤があり、また昼間には30ムーの耕作をし、またよく村の壊れたテレビを無料で修理しており、頼まれると、いつでもすぐに修理に行きましたので、大変多忙になりました。

 その後、私がテレビの修理をした多くの家庭で、あまりにも忙しい私に代わり弟に食事を用意してくれたり、私が先に弟にご飯を届けてからテレビを修理しました。弟は小便も大便もすべてベッドの上で排便し、またベッドの上に寝転んでいたため、身体や衣服に、ベッドに大小便がついていました。私は毎朝、大便をきれいに取り除き、それから温かいお湯で身体を洗いました。この持続した緊張や疲れ、苦痛に直面しても、師父の教え「忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる」[2]をしっかりと覚えており、実行しました。いつも、師父の書かれた書籍を身近に置き、暇さえあれば1ページ、2ページと読んでいましたから、当時の学法の量はそれほど多くありませんでした。

 2004年のはじめ、弟が亡くなりましたが、弟の面倒を見ることは6年間続き、村の人々はすべて目にし、私の看病に感嘆していました。もし私が大法を修めていなければ、最後までやり抜くことが出来なかったと、私自身もよく分かっています。江沢民集団による、大法に対する迫害が非常にひどい時、村の中国共産党の書記でさえも、弟が在世中、最後まで面倒をみれたのは、法輪大法を修煉しているおかげだとよく言っていました。

 迫害が酷い時期、鎮の党委員会書記や公安局の人らが上層部の要求に従い、我が村にやって来て、大法修煉者に修煉を放棄するよう強いましたが、村の中国共産党書記は数十人の前で公然と「あなたはこれほど長年病弱な弟の面倒をみ、村民のために無料でテレビを修理し、真の修煉者だ」と言ってくれました。

 2005年、私の2人の子供が相次ぎ他所に行き勉強することになり、さらに、働いていた工場が倒産し、家計が厳しくなったため、子供たちを学校に行かせるため、私は出稼ぎに出ました。人の紹介で炭鉱労働者になり、その後、炭鉱の電工者の推薦でまた電工になりました。私は基礎がよく出来ており、仕事を真面目にやっていたので、さらに、大法が智慧を啓いて下さったおかげで、自然と技術レベルも高まり、間もなくして、炭鉱のトップレベルの電工になりました。

 師父は『轉法輪』の中で「もう一つの、魔が妨害する形は、誰でも遭うもので、われわれの法門においても同じく誰でも遭うことがあります。それはつまり色魔に遭うことです。これは非常に重大なことです」[2]と説かれました。修煉の中で、私は色魔の邪魔に遭った切実な体験がありました。

 弟が在世時、一度弟にご飯を届けに村のメイン道路を歩いていると、天目で恐ろしい場面を見ました。道に狐、メスの豚とメスのロバがいっぱいで、自分が歩けるところがありませんでした。当時、これはどういうことだろうと思っていました。

 他所で数年間仕事をする中、少しずつ家計は改善し、借金をすべて返済し、子供たちは他所で学校に通っていました。予想外にも妻が順調に生活できだすと大きな問題を起こし、同じ村の常人と不正な男女関係を持ちました。このことで、私はわざと村に帰り、妻と話し合いましたが何の効果もなく、帰ってトラブルが公になり、妻はその男の家で住むことになり、仕方なく、私は再び他所に戻り仕事を続けました。

 当時、私はちょうどもう一つの炭鉱で機電副鉱山長になったばかりで、仕事で新天地を切り開いたところでした。長年苦難を共にした妻に徹底的に裏切られ、人生で最大な打撃を受け、食べることも、寝ることもろくに取れず、屈辱と恨みで心がズタズタになり、あまりにも多くの苦しみを嘗めました。正常な生活が完全に乱され、仕事も、副鉱山長をやる気持ちも全くなくなり、これから、どんな顔をして村に帰れるのか、村の人々は皆妻が他の男と一緒になったことを知っている、人にとやかく言われ隠れる場所もなく、面子もなくなり、悔しくてたまりませんでした。私達の家族はお爺さんから、お父さんまでいずれも村で有名な人物で一目置かれおり、私も良し悪しをはっきりとさせるタイプの男でした。このつらい時期は、いろんな報復の悪念が絶えず頭の中に浮かび、どうしても排除出来ず、1日中鬱々(うつうつ)として暮らしていました。

 どうしようか? 当時、私は自分が修煉者であり、どんなに辛くても、大法の評判を落とす如何なることもやってはいけないということが、はっきり分かっていました。師父は「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[2]と説かれました。師父はまた「あなたが最も面子を失いたくない人の前で、誰かがあなたに平手打ちを食らわして、恥をかかすようなことが将来起きるかも知れません。果してあなたはそれにどう対処しますか。果して耐えられるかどうか」[2]とも説かれました。師父のこれらのお話はまさに私の状況を指しているのではありませんか。修煉の中に偶然なことはありません。この関は必ず乗り越えなければいけません。師父はまた「だからこそわれわれは、こういう複雑な環境の中で修煉しようとしており、苦の中の苦に耐え、かつ大きな忍の心をもつように修煉しなければならないのです」[2]と説かれました。「人と人との間にトラブルが起きた時、そこに居合わせたわれわれがどうしても我慢できず、自分を煉功者として律することすらできないようでは、話になりません。わたしがむかし修煉していた時、多くの高人がこんなことを言ってくれました。『忍び難きは忍びうる。行ない難きも行ないうる』。実際その通りです。皆さんは帰ってからぜひ試しにやってみてください。本当の劫難に直面した時、あるいは関門を乗り越える時に、試してみてください。耐え難いものを耐えてみてください。乗り越えられそうもないと見えても、行ない難いと言われても、本当にできるかどうか試しにやってみてください。もし本当にやり遂げられれば、きっと『柳暗花明又一村』というように、眼前に新たな世界が開けることに気づくに違いありません!」[2]。

 師父は心をこめた重みのある言葉で、私に平然と直面するように正念をはっきり示してくださいました。私は邪魔を排除するには、大量に学法するしかないと悟りましたが、最初はどうしても心が静まりませんでした。この辛さを回避するには、退くことなく大量に学法するしかなく学法することで雑念が消滅されてますます少なくなると信じました。大量に学法するに従って、状況が好転して行くに連れ、私の心は少しずつ穏やかに冷静になりました。

 私が再び村に帰ると、村の親戚は私の過去の性格から、何か仕出かすのではないかと心配しました。しかし、私の穏やかな様子をみて皆安心しました。彼らに「私は正しく振る舞っているので、たとえ他人に笑われても恥ずかしくありません。恥じるのは妻の方です。人それぞれ志があり、縁は無常なものです。妻が離れたければ私も止めません。本当に可哀想なのは妻です」と言うと、親戚の者たちは私のこの言葉を、1人の修煉者としての言葉として受け取ってくれました。

 妻は家を出てからも、子供たちが家に帰ると子供たちに会いに我が家にやって来ました。最初は許せず、不自然に感じたので、自分にはまだ放下できていない人心があると認識し、その心を取り除きました。常人は名、利、情を追求しますが、私は修煉者ですから、これらの名、利、情を修めないといけません。少しずつ少しずつ穏やかになり、彼女が再び来ても、平静でいられるようになりました。

 しかし、子供たちは母親が家を離れたことを非常に不満に思い、お爺さん(妻の父親)に会いに行きたがりませんでした。その時、私は大法の中で修めた善の心を持って、子供たちを諭し彼らの不満をなくし、心からお爺さんに会いにいけるように仕向けました。

 鉱山長の服を着ている私は、一般の従業員

 私はかつて、ある炭鉱で電工を勤めたことがあります。一度、坑内で検査中に電気ドリルが故障し確認したら、電気が通っておらず、1140ボルトの石炭用電気ドリルの総合保管所に行き、回路計で電気チェックを行いました。回路計のペンを着けた途端、眼前に火花が走り大きな音がして回路計が爆発しました。私は顔全体を火傷し、衣服は燃え、服に大きな穴が数箇所あき、回路計は手に持っていた2本のペンの残骸(ざんがい)しか残りませんでした。当時、私は怖がることもなく、ただ爆発する際、頭の前で大きな手が私の顔を遮って守ってくださっていました。その指は腕くらい太く、私は師父が弟子を守ってくださったと思いました。

 炭鉱の坑内での操作規定によると、爆発事故が発生したら素早く現場から撤去し、従業員を救い保護するようにとあります。爆発後、回路計さえ気化したので、人が生存する確率は低く、例え、生存していたとしても、絶対に顔面にひどい障害が残るはずです。私は自分は大法弟子であり大丈夫だから、すぐに地上に上がらず、皆が機器の回復を待っていると思いました。私が担当する部署は他の人には出来ないし、もし上がったら、採掘機は長時間停止され、炭鉱に多大な損失をもたらすと思いました。私は現場の電気関連の仕事をすべてやり終え、生産が回復してから、その場を離れました。その時、爆発が発生してからすでに2、3時間が経過していました。

 地上に上がると、責任者と同僚は皆、私に速く病院に行くよう勧めました。「私は大法を修煉しているから、大丈夫で病院に行く必要もありません。師父が守ってくださいますので、すぐに回復します」と言いましたが、彼らは納得しませんでした。それもそのはずで、私が鏡を見ると顔が真っ黒で腫れ上がり、目は一本の細い隙間しかありません。顔の皮膚が剥がれ黄色の液が流れ出し、非常に見ると怖い形相でした。私はタオルで顔を拭きましたが、黄色の液がずっと滲み出ており、しばらくするとタオルを絞り、拭いては絞り、絞っては拭きましたが、顔全体の痛みはそれほどないものの、ただ目だけが非常に痛く、頭がガンガンと音を立てて鳴っていました。

 三日目には、早くも私の顔にかさぶたが出来はじめました。社長は労災の事故として処理し、十万元を事故の補償金としてくれました。少々の肉体的な痛みがありましたが、大きな問題がないので一元もいりませんと言って、十万元を受け取りませんでした。このことは全炭鉱に広まり、人々はいろいろと噂しました。中には、私を精神病だと言う人までいました。しかし、不思議なことに、その十万元の受領を拒むと、すぐに顔のかさぶたが音を出して破れはじめ、間もなく大部分のかさぶたが手で少し触ると取れ、新しい皮膚が現れてきました。大法は超常なものであり、弟子の心が正しければ、有り難いことに、必ず神の奇跡が起きるのです!

 三日目の夜、炭鉱の幹部らが見舞いに来ました。私の顔を見た彼らは信じられず、相次ぎ「あなたは神です!」と言いました。その後、坑内でまた問題が発生しました。他の人には手に負えず、社長は私に坑内に降りられるか聞き、だめなら一時的によそから人を呼んでくるしかないと言いました。私は「大丈夫です」と答え、すぐに坑内に降りて行きました。また数日経つと、顔の皮膚がすべて新しい皮膚に生まれ変わり、まるっきり別人のように綺麗になりました。その後、炭鉱で働く多くの人は、私が大法を修煉していることを皆知りました。

 鉱山長は以前から私を知っていましたが、よく知っているわけではありません。事故の発生前後のことは彼を大いに感動させました。数日経ったある日、鉱山長が人を連れて坑内に検査に降りようとしていた時、ちょうど私も服を着替えて、坑内に降りようとしていました。彼は大声で「私の作業服と同じものを劉さんに」と言い、また私に「劉さん、今後坑内に降りる時はこの服を着用するように」と言いました。鉱山長の着る作業服は、他の従業員のものとは異なり、赤い色で地上から見るとひと目で分かり非常に目立ちます。私は炭鉱で唯一、鉱山長の作業服を着る一般の従業員です。実際、鉱山長も私が雇われの一般従業員にすぎず、炭鉱の正社員でないことを知っています。

 善の心で大法に対処した息子が、恩恵を受ける

 息子は幼いころから大法の薫陶を受け(くんとうをうける・感化され、導かれること)、大法と大法弟子に対して正しい認識を持っていたため、たくさんの恩恵を受けました。彼は専門学校を卒業し、給料をもらいながら成人大学に通いました。息子は人に対して誠実で、教養があり、前後して、機械工場、広告会社で仕事をしました。昨年、夫婦で創業をはじめ、高いレベルの看板を制作する小さな会社を作りました。最初に、お客様を探して訪れたところが銭湯でした。ちょうど電子広告の看板が壊れており「お昼12時前までに修理できますか?」と聞かれ「絶対に修理します」と答えました。また「いくらですか」と聞かれ「60元です」と答えると「100元払うので、間に合わせるように」と銭湯の主人が言いました。この修理は順調に進み時間通りに修理出来ました。主人は思ったよりも綺麗に修理されたことを非常に喜び、息子に二十数名のお客様を紹介してくれ、息子は苦労もなく、多くの取引先を得ました。

 昨年、経済環境が大きく低迷する中、同業の多くの会社が不景気でしたが、息子の会社は作業レベルも高く、口コミで仕事がいっぱいあり、収益状況もよかったのです。開業してから稼いだお金で、十数万元の新車も購入しました。

 昨年の年末、故郷で2人の同修が江沢民を告訴したことを理由に迫害され、市留置場に拘禁されました。私は数人の同修と一緒に留置場に行き、同修に面会しました。私は息子夫婦に心配をかけたくなく、事前に彼らに教えませんでした。その後、このことを知った息子は「お父さんは当時教えるべきであり、正しいことなので私も行くべきです。1人でも多ければ、そのぶん力が大きくなります」と言われ、息子の言い分が正しいと思いました。たとえ、最もひどい迫害の時期でも、息子は終始、大法と大法弟子を支持していました。

 一度、息子はある会社に告知の看板を取り付けるため、4メートルの高さの二層の足場を作りました。彼の会社の従業員の1人が足場の上で作業をしていましたが、突然、足場が倒れ数メートル離れた道路の真ん中に投げ出され、這い上がることも出来ず、道路は往来する車が多く走っていました。しかし、彼にぶつかる車はなく、それを見た警官が車両を誘導してくれました。しばらくして、その従業員は立ち上がりましたが、身体にどこも怪我はなく、別状ありませんでした。店の主人は足場が倒れた時、6センチ離れたところに40から50万元もする高級乗用車があることに気づきました。足場がもう少し前に倒れていたら、その車の賠償をするところでしたが、人にも車にも何の問題もありませんでした。店の主人は息子に「あなたの家族は、絶対に多くの徳を積んでいるはずです。さもなければ、今日のトラブルは相当大きなものになっていたはずです」と言って感心しました。

 私の孫は今年3歳を少し越え、反応が速く、表現力もあり、智力は6、7歳レベルで、時には大人に勝ります。普段孫は同年齢の子供と遊びたがらず、いつも数歳年上の子供たちと遊んでいます。

 昨年一度私が孫を連れて外出したおり、都市の中心部の道端(みちばた)で、孫は突然「お爺さん、ここで『法輪大法はすばらしい!』と叫んでいい?」と聞きました。「大丈夫だ」と答えると孫はそこに立って、右手を高く上げ「法輪大法はすばらしい! 法輪大法はすばらしい! 法輪大法はすばらしい!……」と続けざまに叫びました。ただ、まだ幼いので発音があまりはっきりしませんでした。私は孫と一緒に外出するおり、時には孫に真相資料を道端にいる爺さんに渡すようにと頼むと、孫は喜んで小走りして渡しに行きます。

 脳性麻痺の長女の変化

 私の長女は現在30歳を少し超えていますが、幼い時、脳性麻痺になり話すことが出来ず、学校へ通ったこともありません。数年前、私が他所で働いた時、妻が家を離れ、娘を家に閉じ込めていたため、その後、状態が悪化し、オンドルに横になっているだけで、頭を持ち上げることも難しくなり、両足は小さくて曲がって変形しているため、歩くとよく転びました。

 昨年私は他所での仕事をやめ、自宅で長女の面倒をみることにしました。根本的に彼女を変えるには、病院の科学技術では無理であり、大法だけが万能であることを知っている私は、学法する時、彼女がそばで聞けるようにしました。彼女も法を聞くことが大好きで、その後、習慣になりました。私が大法の書籍を持ち出すと、彼女はそばに寄って来て静かに聞いていましたが、他の本を読むと彼女は寄ってきません。

 私は意識的に彼女の身体を多く動かせ、多く仕事をさせています。大法は確かに彼女の心と智慧を開き、1年後には、彼女にも少しずつ明らかな変化が現れてきました。現在、彼女は安定して歩くことが出来、右手に水を入れたバケツを持つことが出来、紙に買いたいものを渡すと、売店に行って買ってくることが出来ます。自分1人でご飯を食べられるようになり、テレビの音楽のリズムに合わせて身体を動かせます。一度、彼女は水を入れたポリバケツを持って歩いていたところ、取っ手に引っかかり、水を全部こぼしましたが怪我をせず、自分1人で取っ手からバケツを取り外しました。また一度、普段私はあまりライターを使わず、彼女に探して貰ったこともないのですが、ライターを探してと言うと、テーブルの引き出しから持ってきました。

 以前、長女の髪は豚の剛毛のようにゴワゴワして硬かったのですが、現在は柔らかく普通の髪になりました。以前は両眉をキツく寄せ、顔は目以外動かず、顔全体が固くこわばっており、表情の変化が見られませんでした。現在、眉間は広げられ常に笑っており、時々喉を鳴らして声を上げます。その声には喜びが溢れ、童心を感じさせます。まるで何か話そうとしているみたいです。両目は喜びに満ち生き生きとし、普通の人と変わりありません。

 この前、娘をつれて市の病院に検査に行きました。検査結果は、以前の脳性麻痺はすでに治っており、ただ言葉を学ぶ時期を逃しており、喋れないということでした。私は彼女が喋れるようになるのは時間の問題だと思っています。なぜなら、彼女はすでに法を得、人を救うことに参加しているからです。

 時には、私たちは彼女を連れて散歩するおりに、小さなスピーカを背負わせ、『普度』、『済世』を流します。大法の楽曲は村中でこだまして、邪気を追い払い人々を啓蒙(けいもう・人々に正しい知識を与え、教え導くこと)しています。

 この時期、佛光が遍く照らし、古きを取り除き、新しいものを打ち立てます。娘のこのような素晴らしい変化は、大法の不思議さや超常的な現れのほんの一部の現れです。これはまだ、はじまりであると私は信じています。

 結び

 疾風と暴雨が過ぎ去ったら、天空いっぱいに虹が現れます。大法を実証し、衆生を救い済度することは、私達がこの世にやってきた使命であり、大法弟子がやらなければならない最大のことです! 修煉は厳粛なものであり、法を正す進展は弟子に対して、さらに高い要求を提出しています。時間が迫っており、責任は重大であります。心を正しく持ち、執着心を取り除き、三つのことをしっかり行い、ただただ精進に精進を重ねるしかありません!

 弟子は師父の救い済度のご恩に感謝申しあげます! 謹んで、偉大なる師父に合掌致します。

 不適切なところにつきましては、慈悲なご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 (明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/5/337153.html )
 
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