内モンゴルの有能な技師が迫害死し、妻子が江沢民を告訴(写真)
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 【明慧日本2017年1月19日】内モンゴルで梧桐花鉱業の技師だった法輪功学習者・陳国祥さんは、労働教養所で迫害を受けた後、肝臓に腹水、胸に胸水がたまる病を発症し、2005年に無念の中で亡くなった。陳さんの妻・賈桂琴さん、娘、次男も何度も不当に連行されて拘禁され、金品をゆすり取られた。これを逃れるため、やむおえず家族は放浪生活を余儀なくされ、苦難に満ちた生活を送った。

 中国最高裁判所は2015年5月に「告訴があれば必ず受理し、立案調査しなければならない」と公表した後、妻・賈さん(64)と娘(42)と次男(38)は、最高検察庁と最高裁判所に『刑事告訴状』を送呈し、共に法輪功を迫害する首謀者の江沢民を告訴した。

 家族は法輪功を学び、次男は好青年になった

 賈さんは、1998年、遠方の親戚のところで『轉法輪』を読んだ後、とても良いと感じたので、五式の功法も習得した。すると短期間で、長年苦しんでいた骨増殖症(脊椎関節症・関節疾患)、座骨神経痛、鼻炎などの症状が自然に消え、賈さんは本気で法輪功を学ぶ道に入った。

 法輪功を学んだ後の賈さんは、短気だった性格が穏やかになり、利益の前でも言い争わなくなり、毎日にこにこと生活していた。賈さんの変化を見て、夫の陳国祥さん、娘の陳慧敏さん、次男の陳鈺今さんは次々と法輪功を学ぶようになった。

 特に次男の陳鈺今さんは、以前にゲームセンター、ビリヤードホールにはまっていたが、法輪功と出会って以来、礼儀正しい好青年になった。一家は喜びと幸せに満ちていた。

 しかし、1999年7月、江沢民が法輪功に対して「肉体を消滅させ、経済を断ち切らせ、名誉を陥れさせる」という名目のもとに迫害政策を打ち出してから、この家族は苦難の深淵に陥った。

 以下は賈さんが『刑事告訴状』の中で陳述した内容である。

 一、二度も残酷な労働教養をさせられ、夫の陳国祥は致死した

 私の夫は陳国祥と言います。2005年12月19日に迫害によって亡くなりました。夫は内モンゴルの梧桐花鉱業の技師で、部門の技術者の主要人物でもあり、何回も部門の技術コンテストで一等賞を獲得した。


陳国祥さん

 夫は法輪功を学んで、苦労をいとわず真面目に勤務し、会社の誰もが良い人だと評判でした。ある責任者は「もし部門に1人の定員しかいらないなら、それは陳国祥さんが残ります!」と言った。

 (1)図牧吉労働教養所で3年間迫害を受けた

 夫が法輪功を放棄しないことで、2000年6月24日、国保大隊の警官に翁旗留置場に拘禁され、2001年9月に3年の労働教養を科され、内モンゴル図牧吉労働教養所に送られた。

 図牧吉労働教養所のホールに入った瞬間、夫は表情の怖い警官に螺旋状になった鋼棒で頭部を叩かれ、その場で気絶した。24時間体制で監視され、17日間連続して一睡も許されず、目を閉じると針で刺され、つねられた。そして、ひっきりなしに法輪功を中傷する邪説を聞かされた。警官はわざと夫の前で、次男を殴り(その時次男も同時に拘禁されていた)、精神面で夫を苦しめた。

 夫の両腕は背後に回され、縄で縛り付けられ、警官が縄をぐっと引っ張って持ち上げ、夫が気絶しそうになったらいったん下し(迅速に両腕を動かさなければ、両腕の機能を喪失する)、このように数回繰り返した。夫の話によると、あの時の感覚は死ぬより苦しかったそうだ。警官の指図により、たくましい体格の受刑者が、夫の顔を殴ったり蹴ったりして、夫の意識が失われる寸前まで行った。

 図牧吉労働教養所で、夫は3年近く精神と肉体を苦しめられた後、2003年の4月中旬、赤峰市610弁公室に同市の松山区思想改造施設に拘禁されました。半月ほど強制的に思想を改造された後、4月末にようやく帰宅した。家に帰った後にも関わらず、烏丹派出所、住民委員会、国保大隊などは交替で家まで来て、嫌がらせをし扉をノックせずに断りもなしに入室し、家族の生活に不安な影響を与えた。

 (2)五原労働教養所で再度3年間迫害された

 2003年6月、梧桐花派出所の警官は、夫が下宿していた会社寮に来て捜査を行い、『轉法輪』を捜し出したため、夫を翁旗留置場に拘禁した。そして、夫に対して再び不当に3年の労働教養を強いて、内モンゴル五原労働教養所に移送した。

 ある日、労働教養所の「摘発批判会」で、法輪功に対しての誹謗中傷を制止するため、夫ともう1人の学習者が立ち上がったが、その場で殴られたり蹴られて、独房に閉じ込められた。独房内で、夫は連続1カ月以上電気棒で土踏まずを電撃された。

 長期にわたりひどく迫害され、夫の体はますます悪化し、全身に力がなく、腹部が腫れて息苦しく、昼夜絶えず咳をするようになった。最後には歩く力さえなくなった状況下で、五原病院に送られ検査された。すると肝臓に腹水がたまり、胸にも胸水がたまり、、肺結核、慢性心機能不全と診断された。その上、胸部の胸水で心臓が圧迫され、心電図を取った時に心臓が見つけられず、非常に危険な状態だと言われ、背中から約2キロの水を抜き出した。

 監視役の警官は、夫の片手を手錠でベッドに固定し、トイレに行くこともできない上、「反省文」の類の書面を持ってきて、署名を強要し、非常に苦しんでいた夫をさらに苦しめた。

 労働教養所は責任を負うことを恐れ、緊急に家族に夫を迎えにこさせた。夫に会った時、昔の健康な姿と違って、顔色が悪く、骨と皮ばかりに痩せこけ、ちょっと歩くと転倒しそうな様子だった。

 家に帰った後、国保大隊と派出所および住民委員会の人員が、度々来ては嫌がらせをし、静かに生活できないため、1カ月後、一家は故郷を離れなければならなかった。放浪生活をして8カ月後、2005年12月19日、夫は苦しみながら55歳で亡くなった。

 二、次男、娘と私が受けた迫害

 (1)次男の陳鈺今に対しての迫害

 次男は2000年7月、不当に3年の労働教養を強いられ、父親と一緒に内モンゴル図牧吉労働教養所に拘禁された。2003年4月、赤峰市洗脳班に送られ、10日間後に帰宅した。2003年5月31日、次男は翁牛特旗留置場に連行され、9月上旬に家に戻った。

 2011年11月6日、次男は赤峰市松山区で5人の警官に不当に連行された。警官は何の証明書も提示せず、横暴な態度で家財を押収した。私は公安局と610弁公室の人員に息子を解放するように求めたが、それらの部門は互いに責任をなすりつけて、金銭をゆすり取ろうとした。

 2012年4月18日~2013年12月16日、次男は内モンゴル未成年労働教養管理所に1年6カ月拘禁された。

 (2)私と娘に対しての迫害

 2001年10月28日、娘は職場で不当に連行され、赤峰市松山区留置場に拘禁された。その後、2年の労働教養を強いられ、内モンゴルのフフホト女子労働教養所に拘禁された。

 2000年6月24日~2001年8月、私は1年の不当な労働教養を強いられ、内モンゴル図牧吉労働教養所に拘禁された。その期間、家にあった数千元の現金が押収されていた。

 2001年11月~2002年1月、私は翁旗烏丹黄土梁思想改造施設に64日間拘禁された。また家に置いてあった約1万元の現金が盗まれた。2003年3月、私は再度四道丈房思想改造施設に連行され、半月の迫害を受けた。

 (3)長男に対しての迫害

 長男の陳泉吏(40)は、家族で唯一、学習者ではないのに、迫害の中で巻き添えにされ、思想改造施設で法輪功に対する態度を表明するように強制された際、長男は両親に対して支持する態度を表明した後、思想改造施設で包囲され攻撃された。さらに、長男が出張した時、610弁公室の指示により、長男の勤務している学校に2人の監視役を派遣して、24時間体制で監視された。

 私の一家が放浪生活をしていた時、警官は私達の居場所が分からなければ、長男の所に行き、保証書に署名するように強要した。また、長男の舅と姑に圧力をかけ、長男の家族にも大きなプレッシャーを与えた。

 三、経済上の迫害と虚言に騙された親戚と友人

 息子と娘は人生の青春時代に、留置場、労働教養所に不当に拘禁され、精神と肉体の二重の迫害を受けて、私自身も営んでいた商売を閉店した。夫の会社が2004年から毎月180元の僅かな生活費を支給していたが、家の生活は非常に窮迫している。嘘の宣伝に騙されて、もともと親密だった親戚や友達がだんだん疎遠になった。巻き添えになることを心配し、迫害されて「貧困」になった私達を避けるようになった。

 夫の2番目の兄は、中国共産党の虚言に害毒され、留置場内で皆の前で夫に平手打ちをし「今後、この弟を認めない」と明言しました。それ以来、夫が亡くなった数年内で、一度も夫に会ったことはない。さらに、隣近所の裏の監視と親戚友人の異様な目つきの中、私達の一家は社会の中で非常に困難をきたした。

 しかし、私達は警官を恨んでおらず、理解の足りない親戚と友人を責めていない。江沢民グループの嘘の宣伝で、警官と民衆も被害者で、このすべての源は迫害の政策を作り出した江沢民であることを、私たちは知っているからだ。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/5/338539.html)
 
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