明慧法会|観念を変え 真に他人のために考える
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年2月8日】私が法輪大法を修煉して、もう3年以上経ちました。はじめはただ大法が素晴らしいと感じただけでしたが、今は修煉者の基準で自分に要求することが出来るようになりました。その間、師父のご加護の下、紆余曲折を経験しながら歩んできました。今回の法会の機会をお借りして、自分の修煉体験を発表いたします。不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 真相を伝える中で、師を信じ、法を信じる

 2015年10月から、私は人に面と向かって真相を伝えはじめました。最初はいろいろな常人の心に阻まれ、恐怖心、劣等感、不安な心でいっぱいで人に会っても真相を伝えられず、もっと困ったのは、大法の素晴らしさが分かっていても、具体的にどのように説明すればいいのか分からず焦っていました。師父は「99年7月20日以降と99年7月20日以前、この二つの段階の状態はまったく違います。ですから、三つのことを全部しっかり行うことが修煉であり、三つのことの中の一つだけを行なっているのは修煉ではありません。つまりこういうことです。一つのことだけを行えば、向上することもできません。ですから、大法弟子は必ずしっかりと行うべきです」[1]とおっしゃいました。私はこの内容をしっかり覚え、三つのことをよく行い人を救うべきで、人を救わなければどうして本当の修煉者と言えるのかと思いました。

 そして私は毎日真面目に法を学ぶ以外、発正念の回数を増やしました。以前、私はいつも仕事が忙しいことを理由に、発正念を毎日1、2回しかやらず、雑念も多く、自分の発正念の効果について疑っていました。そして真相資料を配っていた時、洗脳班に強制連行されて、1カ月間洗脳(思想改造)されたことがあります。あとで同修から注意を受け、私は毎日1時間以上の時間をかけて正念しました。半年後、私の空間場はだんだんと清浄に明るくなり、恐れる心も徐々になくなりました。

 真相をよく伝えられない問題を解決するため、明慧ネットに掲載されている真相を伝えることに関する交流文章を印刷し、食事をする時や歩く時に暗唱し、夢の中でも真相を伝えていました。2カ月間で、私は真相を伝えることが怖くてやり方も分からない状態から、毎週2、3人を三退させ、それから毎日2、3人を三退させるようになりました。しかし、なぜか多くの人に三退を勧めたくさん話したにもかかわらず、最後に三退する人が少なく本当にがっかりすることが度々ありました。また毎回のように外に出る前に、人を救い済度したくない考えを排除し、とても大きな決意を下さないと口を開くことが出来ず、2、3カ月くらいこの段階で留まっていました。

 その後、私は三退が良く出来ている近くの同修たちと協力して、真相を伝えることを試みました。彼女達には不安な心や人を選ぶ心が全くなく、どんな人に会っても三退を勧めていました。私は心の中から敬服し、自分はいつになれば同等に出来るのかと思いました。そこで、なぜ自分の三退の効果がそれほど良くないのか、内に向けて探しました。なぜ人を三退させようとする願望が、それほど強くないのでしょうか? 探してみると自分が師父の説法を完全に信じておらず、疑っていることが分かりました。本当に刧難があるのか? 『藏字石』(ぞうじせき・中国貴州省で約2億7千万年前に『中国共産党亡』の文字が浮き上がっている石のこと)の予言は本当に実在するのか? 邪悪がまだこんなに猖獗(しょうけつ・悪い物事がはびこり、勢いを増し、猛威をふるうこと)しているのに本当に滅亡するのか? などなど様々な疑心を抱えていて話す時自信が無く、おどおどしていたので効果も良くありませんでした。ではなぜ、そんな状態なのでしょうか。それは、師父の法を100%信じることが出来ず、見えないものは信じないと思っていたからです。でも、私には紛れもなく見えたのです。それは、大きな目や法輪が見え、自分の前世のことを知り、別の空間の音楽も常に聞こえ、このような素晴らしいことが見えたり聞こえたのに、自分では幻覚と勘違いし、今まで一度も信じなかったからです。

 翌日学法する時、師父の次の説法に気づきました。「人類は固有の古い観念により、ある種のやり方、考え方を形作ってしまうと、新たな認識を受け入れることが難しくなります。真理が現われても、それを受け入れる勇気がなく、本能的に排斥したりします」[2]。これはまさに私のことを言っているのではありませんか。私は学校でたくさんの教育を受け、無神論の思想が根深くて揺るぎないほど深く、骨髄にまで入っており、これまで真理が現れても信じようともしませんでした。これは観念の問題ではありませんか!  

 不思議なことに私が法理を悟った後、自分を本当の修煉者と見なし、これまでの観念を変えると、真相を伝える効果が驚くほど良くなりました。

 次の日、私は仕事のために外出しました。信号を待っている間や、バスに乗っている間、外で食事をしている間に11人に真相を伝え、9人が三退しました。1人は共産党の三つの組織(党、団、隊)のどれにも入っていませんでしたが、真相が分かりました。ただ1人だけ三退しませんでした。それから私が法輪功の真相を伝えた人は、基本的に真相が分かるようになりました。しかも、自分なりの真相を伝える方法を考え出しました。それだけではなく、人を救い続けると自分の脳がすっきりとし、頭もよくなったような感じがしました。元々私はパソコンが下手で、かつ誰からも教わったことがないのに、今は『明慧週刊』のダウンロードから、真相資料の作成から印刷まで、またお守りの作成もできるようになり、自分でも不思議に思っています。師父の「大法弟子にとって、何を行っても非常に速いはずです。より多くの自我を放下することができると、法を実証する時の智慧は自然に沸いてきます」[3]と説かれた説法に対して、もっと深く理解できました。

 同修との協調の中で、私心をなくす

 私はネット上で法を得たため、別の同修と知り合う前には、自分1人で修煉していました。1人で本を読み、法を学び、真相資料を印刷し、通勤の時間を利用して真相を伝え、人を救い済度していましたので、私はこれでいいと思っていました。しかし、地元の同修と知り合い、何回か学法グループに参加すると、私の状態が正しくないことに気づきました。

 地元の多くの同修は年を取っていたので、字が読めないし、知識レベルが高くないので、パソコンでインターネットを検索することはなおさらです。本を読むときもスピードが遅く、誤字、脱字をし、地元の方言が重く、普通に話が出来ません。彼女らが読むのを聞くと、私は不快感を覚えました。これなら1人で読んで、学んだほうがいいのではないのか。私は大学を卒業し、正しく読み発音するのでそれが原因なのか、時に専念して本を読んでいるとエネルギーが強く、同修たちは私が読んでいるのを聞くことが好きでした。ある日、学法した後、あまり修煉に励んでいない1人の同修が私に会いに来ました。彼女と交流すると修煉を諦めてから、すでに何年も経っていたことが分かりました。しかし、彼女はかつて法を守るために天安門に行ったこともあり、彼女の心にある凝(しこ)りを解かすため、私は師父の『轉法輪』と『洪吟』を読み聞かせました。すると、彼女の元々痛くて曲げることができなかった足が知らないうちに組めるようになり、本を読むことを1時間続けると痛みもなくなりました。彼女は涙を流しながら師父に感謝し、その場で再び修煉する意志を表明しました。その場にいた同修たちは感心し、私も師父の経文を読む時の強大なエネルギー場を感じ取りました。

 しかし、他の年配の同修のような読み方では、どのくらいの効果があるのでしょうか? その上、私は彼女たちと知り合ってから、やるべきことが一気に増えました。本を読む時は彼女たちの読み方を直し、電子機器の操作もできないので、代わりに大法の音楽や文章をダウンロードしました。しかも彼女たちが三退させた人の名前を脱党ページにアップロードしなければなりません。修煉しなくなった古い人たちがまた修煉しようとすると、彼女たちと交流し、再び修煉するように勇気づけ、手助けをしないといけません。彼女たちは皆、師父のこの按排にとても感謝しました。

 このようなことを私は最初、楽しくやりましたが、これは後になって顕示心であることが分かりました。時間が経つにつれて、これは私が真相を伝えることを邪魔しているのではないかと、心の中でつぶやき始めました。最初にこの心が現れたときは悟れず、心の中で不快感を感じましたが、言葉には出さずやるべきことをやりました。それから何週間か過ぎると、ドラブルが激しくなりました。私は修煉時間が短いのに常にインターネットで大法に関連した仕事、例えばネット封鎖を突破することをやっていたので、地元の2人の同修が私の身分を疑いはじめました。彼女たちは私がインターネットでやっていることにはリスクがあり、もし私が警官に強制連行されたなら、自分たちにも影響されるので止めた方がいいと言い出しました。彼女たちは私が参加している学法グループだけでなく、別の学法グループでも私の顕示心が強いなどと言われ、そのことは多くの同修に知れ渡り、急にスパイ扱いをされるようになりました。

 また、2年前から知っていた他所の同修にも誤解されました。彼女は自分が困っていることで相談に来ましたが、私から見れば容易に解決できる問題なのに、彼女がずっとそこに留まって前へ進んでいなかったため、私はそれ以上言いたくなくなりました。すると彼女は自分が知っている同修の中で、私を一番利己的な人だと言いました。その間、私は食事もおいしくなければ、ぐっすり眠ることも出来ず、心の中でずっと彼女に言われたことばかり考えていました。心中穏やかでなく、新しい修煉者の私が、なぜ古い修煉者と比べられるのか。修煉時間はあなたよりずっと短い私が、なぜ利己的だと言われなければならないのかと思いました。まるで私の心の状態は「どういうわけで、突然厄介なことがこんなに多くなってきたのだろうか、と思うことがあります。まわりの人に親切にしてもらえなくなったし、上司から嫌われるようになったし、家族との関係も悪化してしまった。どうして突然こんなに多くの面倒なことが出てくるのだろうか?」[2]と師父がおっしゃったとおりの状態でした。

 でも私は自分の不足に気付かず、心の中は彼女らに対する不満ばかりでした。心の中で、1人で煉る時は修煉も調子よくできた。あなた達に出会ってたくさんの仕事をやった上に、逆に疑われ、排斥されるなんて。いっそのこと、一緒に法を勉強することを止めたらいいじゃないか。そうすると自分も楽になるし、一緒に修煉する手間も省け、そんなにありがたがる必要もないと思いました。それで私は同じ学法グループの同修に「もし皆が私をスパイだと思い、みなに悪影響をもたらすと言うのなら、これから私は1人で法を勉強します」と伝えました。

 その後、年配の同修が3人私の家に交流に来ました。彼女たちは私が知識もあり修煉もよく出来ているので、自分のことだけを考えるのではなく、地元の他の修煉者も助けるべきだと言いました。しかも真相を伝えるには、皆が協力すべきで、ぜひ地元の集団学法に続けて参加するように言われました。私は「自分が新しい修煉者で、修煉もそんなによく出来ていないし、今の学法グループの古い修煉者は逆に私を助けるべきです。どうして私が彼女らを助けないといけないのですか。しかも、私の助けなど求めていないばかりか、迷惑だと思っているので、私が学法に行かなくてもいいのではないか」と話しました。

 すると同修達は「大事なのは大法弟子は行なうべきことをしっかり行なわなければならないということです。修煉さえ精進せず、あまり修煉に力を入れず、修煉しているようで実は修煉しておらず、大法の人を救うプロジェクトでは人心に執着が入り混じり、いつも不満たらたらです。何の不満がありますか?! 何をしに来たのか分かっていないのですか?! あなたの責任がどれほど重いのか分からないのですか?!」[4]という師父の新しい説法を私に見せました。

 さらに、同修達は私に知識もあり、能力もあるのに別の同修達を助けないのは、あまりにも利己的で大法に符合してないと面と向かって指摘されました。

 同修たちの話を聞き、私はもう一度自分自身を冷静に見直してみました。今まで私は上記の説法は別の人のことを指しているので、自分とは関係ないと思っていました。その場で同修たちの話を聞いて、本当に恥ずかしくなりました。今まで自分が新しい修煉者であり、修煉状態が良くない古い修煉者を助けなかったのは、根本的には面倒を引き起こしたくない心と他人を見下す心があったからです。またずっと自分が新しい修煉者で、修煉がよくできていないと思っていたのは、劣等感に左右されて、極端になると他人を助けることさえ、自分が人を救うことを妨げていると思っていました。なんと強い利己心でしょうか。大法の要求からどれほどかけ離れているでしょうか。でも自分はあまり悪くないと思っていました。だから他の地方の同修が私を一番利己的な人だと言いました。その通りです。まさにこれは師父が同修の口を借りて、私を悟らせているのではないでしょうか。どうするべきでしょうか。師父の法に従い、同修を助けるべきだと思いました。

 私は自我を放下し、自分を本当の修煉者として扱い、難に遭った同修を新しい修煉者のように助けてあげるべきだと悟りました。そして誤解された他の地方の同修には自分の利己心が強かったことを謝り、誠心誠意に彼女らに自分の体験を伝えました。すると彼女らも私に謝り、私たちは誤解も解け、元通り仲良くなって、まるで何もなかったかのようでした。

 そして私は自我を放下し、何のうわさも気にかけず、師父の説法だけに従って、学法グループの同修たちを率いて学法するなど、自分がやるべきことを真面目にやりはじめました。

 私が再び学法グループに戻った後、しばらく私を疑い排斥し、一緒に学法することも嫌がっていた同修が、インターネットの件でわざわざ私のところに訪れました。江沢民を告訴し、法曹機関から受け取った配達証明を明慧ネットに送ってほしいとのことでした。でもそれはそんなに簡単なことではありません。メールアドレスの登録が必要だし、しかもネット封鎖を突破するため、安全の問題にも関わってくるので、内心ではやりたくなく、しぶしぶ応じました。心の底から同修を助けるつもりではなかったので、帰宅してから、不満と不平が込み上げてきて、心も重くなりました。私は心を静めてから内に向けて探しました。なぜ気持ち良く引き受けられないのか? それは、面倒な仕事を嫌がり、彼女が私を排斥していたからで、心の中で彼女に反感を覚え、手助けをしたくなかったからです。この心が現れた時、正しくないと感じました。どのようにすれば、取り除くことができるでしょうか?

 その日の夜、私は心を静めて学法していた時に、師父のおっしゃった「修煉者のように目の前のすべてに対処することができれば、何でも乗り越えることができます。もし神がこの問題に遭ったらどのように対処するのかを考えればよいのです。なかなか乗り越えられないときにこのように考えてください。神のように関を乗り越え、関に対処してみてください」 [1]という説法の一段落を思い出しました。

 私はすぐ気が楽になり、まるで重荷をおろしたような感じでした。もし自分が神ならこの同修を助けるのか助けないのか、答えはもちろん助けます。地元の古い修煉者たちは知識レベルも低く、インターネットもできません。例えば、ある同修が江沢民を告訴した配達証明を明慧ネットに送るために、多くの同修を探し回り、長い道のりを歩き回っても、大多数の同修がインターネットができないため送ることができません。インターネットができる同修も長い時間かかってこちらに訪れるため、少なくとも1カ月以内に送ることができません。私にはこの能力があり家も近くにあるので、やらなければなりません。私が新しい修煉者だとしても、同修と協力してこれらの人を救う活動に参加しないわけにはいかないでしょう。師父は常に説法の中で、同修と何事も協力するようにおっしゃっています。自分はこのような問題にぶつからないだろうと思っていましたが、今まさにこの問題に遭遇し、同修と協力すべきではないでしょうか。

 考え方が変わった後、私は1週間で中古のパソコンを買い、安全のため新たにシステムをインストールしました。そして師父の加持の下、明慧のメールアドレスを登録して、同修の江沢民を告訴した配達証明を送りました。地元のある同修は2年もかかってやっとこれらを学び、送れましたが、私は2週間しかかかりませんでした。同修は非常に感激し、それから私に対する態度も変わりました。私がどんなことに遭っても、自分を本当の修煉者として要求するようになると、トラブルがなくなり、何も起こらなくなりました。

 私心をなくし、真に人のためにする

 修煉の本質は私心をなくすことだと思います。初めて『轉法輪』の「失と得」の章節を読んで、随分惑ったことがありました。失うのは悪いもの、業力だとは分かっていましたが、何をなぜ失うべきかに対してはっきり理解できませんでした。全部放棄するとは食べないこと、飲まないことではないでしょうか? それではどうやって生きていけるでしょうか? この部分に間違った理解を抱いていたので、修煉して利益に執着する心はなくしたと感じていましたが、実はそうではありませんでした。例えば自分が迫害されて仕事がなくなった時、数日が過ぎても仕事に対する心は捨てられず、辛くてたまりませんでした。 

 辛くなった時、すぐ何かが正しくないと感じました。本当の修煉者はこんな状態がないはずです。冷静になって探すと、やはり利益の心を放下できていませんでした。では、なぜ放下できなかったのでしょうか? このような状態が数日続きましたが、ある日学法する時、次の説法に身を震わせました。「世の人々は利益を追求することを原動力に生きています。この利益は人間が最も喜びを感じたり、苦しみを感じたりするものであり、手に入れたとしても、生命にとって永遠かつ確実なものにはなりません。しかも、人間が利益のためにいくら奮闘しても、真に利益を左右することができません。なぜならば、世の人々の一生は既に定められたものであり、神は人間の一歩一歩を制御しているからです。人間がこのようになりたい、あのようになりたいと思っていても、自分でそれを決めることができません。しかし、人間の追求はかえって執着になるのです。世の人々は得られなくても、必ず利益のために行動します。これは即ち人間です。なぜならば、それを得られるかどうかに関わらず、人間は行動してしまうからです。これはつまり人間の行動なのです」[3]。

 その瞬間、私は醍醐灌頂(だいごかんじょう・最上の教えを人の頭に注ぎ込む)されたように急に悟りました。全てがこの旧宇宙の私(し)から生まれたのです。私(し)は全ての業力の源で、私心があるからこそ人は利益に執着し、個人の利益を求める過程で絶えず業を作って、様々な魔難や病と不幸を招きました。だからこの私心は人類の全ての苦痛の源で、我々は根本からこの私心を捨てるべきで、これこそが本質的な原因なのです。新宇宙の基準と要求は公のためで、無私です。これこそ本当に美しくて素晴らしいことなのです。

 法理が分かってから心身ともきれいに洗われたようで、心地よく、軽やかで素晴らしい状態になりました。その後、私は生活と修煉のなか、真相を伝えることから同修と協力すること、勤め先のことから家庭での瑣末なことまで、至る所でまず他の人を優先することを考えて私心をなくしました。そうすると周りの環境は完全に変わりました。

 他の人を優先する心が生じたら、真相を伝える時も心の中に余計な心配などなくなり、自然に話すことができました。他の人を優先するが生じたから、留置場の前で真相を伝える時も恐れる心と恨む心がなくなり、留置場の警官の私に対する態度さえ完全に変わりました。以前は留置場で迫害されている同修の食費を預ける時、彼らはいつもいい顔をしませんでした。しかし、今は意外にも、受け付けをするときから満面に笑顔をたたえ、身分証明証の提示などで意地悪しないばかりか、積極的に迫害されている同修の食費の残高まで教えてくれます。

 他の人を優先する心が生じたら、同修との間の間隔もなくなり、本当に一つの全体になりました。全ての同修や世の中の人に対して敬意の気持ちを抱き、自分の世界の衆生を救うために、この険しい世に大胆に来たことに心から敬服しました。私はどんな人に会っても真心で対応し、真相をはっきり伝えたかどうか、救われたかどうかに関わらず、慈悲と素晴らしさを相手に残しました。世の人々の中には、私の気遣いの一言で感謝する人もいました。

 もちろん修煉の過程には多くの良くない心があり、大多数は明らかに取り除いたのにもかかわらず、時にはまた湧き出てしまう事があります。例を挙げると、時々怠けることがあり、静功だけを煉り、動功を煉りたくなく、外に行って人を救うことさえやりたくなく、1回くらいは無駄話をしても構わないだろうと考えることもありました。しかし、師父の話を思い出す度に、自分を律し、学法と煉功しっかりとしなければならないし、三つのことを最後まで、しっかりと続けなければなりません! 真の修煉者の自覚を持つことができれば、私たちはどんなことでも乗り越えることができます!

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法六』「アジア太平洋地区学習者会議での説法」
 [4] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』

(明慧ネット第13回中国の大法弟子による修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/3/336981.html)
 
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