明慧法会|大法が私を必要とすれば、進んで行う
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文/黒竜江省の大法弟子(同修 代筆整理)

 【明慧日本2017年3月11日】師父は地獄から私を掬い上げてくださった上、大法は私を生き返らせてくださいました。師父のご恩に対する感謝の気持ちを言い尽くすことはできません。大法の中で限りなく恩恵を受けたので、法輪功の素晴らしさを多くの家々にもたらさなければならず、その道はどんなに険しくても、全力を尽くして衆生を救い済度しなければなりません。

 一、法輪大法は私に新しい生命を与えてくださった

 私は今年63歳で教養がなく、11歳の時からずっと畑仕事をしていました。私には3人の娘がおり、下の娘が7歳の時ぜんそくになり、朝晩は特に咳がひどく、咳をする度に尿を漏らしていました。太陽が出ている時はまだましですが、風に当たったり、運動をしたりすると息が切れ、両足がぶるぶる震えました。夜になると、セーターと毛糸のズボン下を履いて寝なければなりませんでした。他に、胆のう炎、リウマチ、心臓病、ノイローゼ、痔などがあり、痔が痛み出すと跪いてしまいました。つま先だけが痛くないだけで、あとは全身どこもかしこも痛みがありました。行政機関の所在地や市内、県内の病院にすべて行き、1日中薬を飲みましたが、病状は一向に好転しませんでした。この間は非常に苦しみもがいていました。

 1998年、修煉を始める前夜、病状が最も厳しくなり、歩く時間が長くなると息が詰まりました。知り合いの法輪功修煉者が私を連れて師父の説法DVDを見に行き、2カ月の間に4回通い、4講のDVDを見ました。そして、私も師父の説法DVDを2枚持っています。それは第1講と第2講で、この2枚のDVDを家で何回も繰り返し聞きました。すると、私の体に反応がありました。

 ある日、家で腰掛に座って野菜を刻んでいました。腰が痛いので、いつもは野菜を刻み終わってから、両手でまな板を押さえ、長いこともがいてやっと立ち上がることができるのですが、その日は、野菜を刻み終わってから、まな板を持つとすぐに立ち上がって歩き出し、数歩進んでから気が付くと、腰が痛くなく良くなっていました。また、息切れもなく、体がとても楽になりました。そして夫に「法輪功を学んで作用がありました、師父は私に関わってくださいました」と言うと、夫は「効き目があるのなら、これから続けて学んだらいい」と言いました。

 それから、正式に修煉の道を歩き始めました。しかし、修煉を始めたばかりの時、体が良くなかった時の習慣が残っていたため、すぐ怒ったり腹を立てたりし、腹を立てるとぜんそくが起こりました。師父は「修煉者が怒ってはいけない」[1]、「煉功者としては、殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さないで、常に高い基準で自分を律しなければなりません」[2]と説かれました。そこで、大法の要求に基づいて行い、法を学び続けると、心性が向上し続けました。すると間もなく、すべての病気が治療しなくても自然に治りました。法輪大法は私に新たな命を授けてくださいました。

 二、師の恩に感謝し、絶えず精進する

 私はいつも「私の命は師父が与えてくださったものなので、大法が私を必要としているなら行い、人を救うことで私を必要としているなら行い、同修が私を必要としているなら行おう」と思っています。

 パソコンを学び真相伝えの資料を作る

 悪質な江沢民政治集団が法輪功への迫害を始めて数年後、パソコンを学んで自分で真相資料を作りたいと思いました。数年間の集団学法と自分の努力を通して、大法書籍を自分で読めるようになりましたが、大法書籍から離れると、やはり字を認識できなくなり、パソコンを教えてくれる人もすぐには見つかりませんでした。これでどうやってパソコンを学べばよいのでしょうか?

 いろいろ考え、私はネット・カフェへ行って清掃婦になりました。そして、ネット・カフェの奥さんに「パソコンを学びたいので、給料は少なめで良いので、私のためにパソコンを1台立ち上げていただけないでしょうか」と言いました。すると奥さんは「いいですよ」と言いました。しかし、奥さんはパソコンのスイッチの入れ方と切り方を教えてくれただけで、それ以外は何も教えてくれませんでした。最初、パソコンを開き、マウスを動かすと、パソコンのモニターに「何をしたいですか?」と現れました。しかし、自分が何をしたいのかがわかりませんでした。そのため、びっくりして急いでパソコンをシャットダウンしました。

 ちょうどいい時に、末の娘が帰ってきました。そして、末の娘をネット・カフェに一緒に連れて行こうと思いました。しかし、末の娘は「こんなに年を取っていて、字も読めないのに、誰が教えてくれるの?」と言いました。それでも、私は末の娘を引っ張って行きました。ネット・カフェに着くと、末の娘はパソコンを開きました。そして「法輪功を中傷する内容ばかりですよ」と言いました。それを聞いて、私は末の娘に「それなら私は見ません、あなたも見てはいけません」と言いました。そして、パソコンの電源を切りました。こうして、この時は学習できませんでした。

 しかし、私はあきらめず、師父が私のこの心をご覧になり、助けてくださるかもしれない、と思いました。ある日、往来を歩いていた時、正面から歩いてくる人に出会い、県内の協調人のBさんかもしれないと思いましたが、はっきりしませんでした。そこで、歩いていってBさんの名前を呼ぶと、本当にBさんが振り返り、私の前まで歩いてきて「何か用ですか?」と聞きました。そこで私は「パソコンを学んで資料を作りたいのですが、ここでは資料が必要なのかどうかわかりません」と言いました。それを聞くと、Bさんはとても喜び、二つ返事で承諾しました。次の日、Bさんの息子が車でパソコンとプリンターを持ってきて、さらに技術担当の同修を私の家に連れてきました。技術担当の同修は私の家に1週間泊り込んで、パソコンの使い方や明慧サイトの閲覧の仕方、プリンターの使い方を教えてくれました。技術担当の同修がいる間は、何でもできるような気がしましたが、技術担当の同修が行ってしまうと、多くの事がまた出来なくなってしまいました。

 その頃、三輪車(訳注:三輪の乗り物)に乗って県内に日用品を売りに行った時に、別の同修に聞く機会がありました。それでまず、法輪大法の真相を書いた紙幣を作ることから始め、その後、明慧ネットからダウンロードすることをマスターし、カレンダーを作り始め、その後はパンフレットや『共産党についての九つの論評』の書籍、卓上カレンダー、壁掛けカレンダー、パネル資料を作りました。明慧ネットに出ている真相資料はほとんど作りました。また、真相DVDも作りました。

 魔難から抜け出す

 パソコンを学び始めた時は、ちょうど夫が地方へアルバイトへ行っていて家に帰らなかったので、昼間は資料を作り、夜は同修と一緒に自転車で近くの田舎へ行って資料とDVDを配りました。このようにやってみると、非常に便利で順調でした。

 少しすると、地方の仕事を終えて、夫が地元のスーパーのアルバイトに戻りました。資料作りを始めたと夫に話すことができなかったので、プリンターをベッドの下に隠し、夫が出勤すると資料を作り、夫が帰宅するとプリンターを隠しました。夫は「机の上のパソコンはどこから来たのか?」と聞きました。夫はBさんの夫を知っていたので「Bさんの旦那さんからもらったものです」と言いました。すると、夫は何も言いませんでした。しかし時間が経つにつれ、プリンターをベッドの下に隠して引っ張ったり押したりするのが面倒くさくていやになったので、プリンターも机の上に置きました。ある日、夫が帰って来て「それ(プリンター)は何か?」と聞きました。そこで「パソコンの補助装置で、しまってあったものです」と言いました。もしかしたら、夫は疑い、自分の目で見てみたい、と思ったのかもしれません。ある日、夫が予定より早く帰って来て、まさに私が資料をプリントしているのを見つけて叱りました。

 それからは、良い生活を送ることができませんでした。夜に資料を配りに出かけると夫が罵り、そのうちに私をぶつようになりました。ある時、地方に行って資料を配ってから帰って来ると、夫が私の首を引っ張って振り回したので、扉のところに積み上げられていたブリキの四角い箱に私の頭がぶつかり、しばらく失神しました。さらにある時、資料を配り終わって地方から帰って来ると、突然、私の頭のてっぺんに鍋を当てたので、私は鍋にぶつかって気絶しました。目が覚めると、頭のてっぺんがすでにへこんでいることに気が付きました。師父の保護がなかったら、夫に殴り殺されていました。そこで、私は夫に「私の命は師父がくださったものなので、生あるうちは資料を配って人を救いに行かなければなりません! あなたが私の足を折ったとしても、私は這いながらでも行かなければなりません」と言いました。夫は私の態度が断固としていると見たのかもしれませんが、それ以後は私をぶたなくなりました。

 その後、夫に敵対的な態度をとり、自身の修煉をおろそかにし、また、夫が恐れていることを配慮できずにいたことを反省しました。夫を普通の衆生として扱わず、きちんと真相を伝えず、さらに心の中に憎む心が生まれてしまいました。これらのことを認識した後、自分の修煉を強化し、法の中で途切れることなく自分を向上させました。

 すると、夫は次第に私が真相を伝え人を救うのを支持し始め、今は夫も修煉の道を歩き始めました。

 オートバイに乗るのを学び地方で人を救う

 自転車で資料を届けるのは骨が折れ、ある時、『九評』の書籍3箱を大きく編んだ袋に入れ、自転車の荷台に括り付けて、県内の同修の家に届けなければなりませんでした。私の家は郊外にあり、同修の家までは距離が遠く、線路を3回渡る必要がありました。線路を横断した時、荷台に乗せた荷物の重さのために自転車が立ち上がってしまいました。そこで、ぐいと力を入れて自転車のハンドルを押さえつけながら「私は大法弟子で、師がいらっしゃるから重くない、師がいらっしゃるから重くない」と心の中でつぶやきました。そして、自分の正念を強めました。同修の家に着くと、同修が驚きました。私がどうやって運んできたのか、想像できなかったようでした。

 オートバイがあかんがえましたればいいのに、と私は思いました。県内の地方はこんなに広いのだから、オートバイに乗れれば便利になります。当時、私は家政婦をしていたので「私たちは郊外に住んでいますが、県内や営林局にも仕事があり、自転車では効率が悪いので、オートバイを買いたい」と夫に相談しました。しかし、夫は安全を考慮し、その時はオートバイを買うことに同意せず、1年経ってやっと同意しました。

 自分でオートバイを買う前のある日、弟がオートバイで私の家に来たので、弟に後ろに乗ってもらい、オートバイの乗り方を教えてもらうことにしました。しかし、緊張していたため、アクセルをふかすと同時にブレーキをかけたので、オートバイが地面に激突した後再び立ち上がり、弟は転び、オートバイのバンパーも壊れてしまいました。弟は「その年で、オートバイなんて乗るなよ!」と言いました。しかし私は「あなたにはわからないでしょうけど、私は人を救わなければならなのです」と心の中で思いました。

 自分でオートバイを買った後、夫が2日間教えてくれ、何度も転びましたが、やっとのことで乗り方を覚えました。オートバイがあれば、本当に鬼に金棒でした。最初、私たちは夜に戸別に資料を届け、その後、昼に市場へ行って面と向かって資料を渡し、真相を伝えました。私は異なる同修を連れて全県の隅々まで回りました。さらに、音声電話を掛けることと、メールの一斉送信と写真付きメールを覚え、オートバイで地方へ行く時に、何台かの携帯電話をオートバイのトランクに入れ、自動的に音声電話とメール一斉送信を行いました。

 三、衆生は皆大法のためにやって来る

 地方へ行って資料を配る過程で、多くの不思議な体験にあいました。以下に、いくつかを選んで話します。

 師父は「どんなことも偶然ではなく、多くの高次元の生命が下りて転生し、大法と縁を結びたいと思っていますが、人間も輪廻転生していて、人数と人間の皮が限られており、これ以上増えると、地球が収容できなくなるため、動物や植物に転生した高次元生命がいます」[3]と説かれました。

 子猫が道案内をしてくれた

 ある夜、地方で真相資料を配った時、ある村で、半分配り終わった時、小さな三毛猫が近づいて来ました。三毛猫は私たちの前方で道案内し、前方の資料を配るべき門の前で蹲(うずくま)り「ニャーニャー」と鳴き、「ここに配れ」と教えてくれました。その家に資料を配り終えると、今度は次の門まで駆けていって、しゃがんで「ニャーニャー」と2回鳴きました。私たちと一緒に村の半分を歩き、資料を配り終えるまでずっと立ち去ろうとしませんでした。そして、私たちとずっと一緒にいて村を出ました。私は三毛猫に「帰りなさい、そうしないとご主人が慌てますよ」と勧めました。何回も勧めて、三毛猫はやっと帰りました。悔いを残してしまったのは、三毛猫に「『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』と心に刻みなさい」と伝えなかったことで、もしそうしていれば、大法と同化し救われたでしょう。しかしその時、私たちはこのようにすべきだったということがわかっていませんでした。

 知的障害者が案内に立ってくれた

 ある時、同修が車で地方まで私たちを送ってくれ、DVDを配りました。車を降りると、二十数人の若者がいて、私たちを見ると喜んでしきりに大声で叫び出しましたが、何を言っているのかはっきり聞き取れませんでした。というのも知的障害児たちだったからでした。そこで私は「ねえ、あなたの家にはDVDプレーヤーがありますか、DVDを1枚あげますから、帰ってお父さんかお母さんに渡し、一緒にDVDをかけて見てください」と言いました。その若者はうれしくて躍り上がって喜び、DVDをもらうと、両手を胸に覆い、秘宝でも得たかのように大喜びしました。私が何を言ったのかその若者にはわかったようで、私をつれて街中を歩き回り、誰の家にDVDプレーヤーがあるか教えてくれました。このことからわかるように、この知的障害児も、一面ではとてもわかっているのです。

 四、師父のご加護の下に正念で困難を克服する

 ある時、オートバイに男性同修を乗せてM町の市場に行ってDVDを配りましたが、町の警察署が市場から20メートルと離れておらず、心中では怖かったのですが、同修に影響を与えたくなかったので、同修に「中に歩いて行ってから配りましょう」と言いました。しかし、同修は聞こえなかったようで、市場に着くとすぐ配り始めました。そこで、私は1人で中へ歩いて行きました。配っているうちに、ある男性が「何を配っているのですか?」と聞いてきました。そこで、何を配っているのかを伝えると、その男性はしばらく沈思黙考した後「私と一緒に行きましょう!」と言いました。それを聞いて、私は嫌な気がしました。普段、人と配る事はないので、その日、私はなんとなく手を上げて、その男性の肩を叩いて「あなたと一緒に行くわけにはいきません。私があなたに伝えることはみな良いことです」と言いました。このように言うと、その男性を操っていた邪悪が解体され、その男性は違う人のようになり、悪いことは起こりませんでした。師父が加護してくださっていることを知ったので、その時に恐れはなく、正念も強くなりました。

 またある時、この男性同修と一緒にT町へ行きました。男性同修は東から、私は西から配りました。ある商店の入り口でDVDを配り終わった時、洋服に革靴姿の男性が歩いてきて、わきの下に袋を1つ挟んでおり、見たところ村の幹部のようで「ここで配るな! ここで配るな!」と叫んでいました。今回、恐怖心はなかったので、その男性に「私がやっていることはよいことですが、それでも配らせないのですか? あなたたちのためであり、どこへ行ったらこのようなよいことを見つけられるのでしょうか、私たちは1年に数回しか来られないのですから、ちょうど縁があったということです。ここで巡り合った人は誰でも救われます」と言いました。すると、この男性が突進してきて私をぐっとつかんで放なさず「だったらなんだ、お前が配っているのは法輪功のものではないのか? 店に入って見よう、店ではパソコンを売っているからDVDをかけてみよう、もし法輪功ならお前を捕まえるが、法輪功のでなければお前を行かせる」と言いました。そこで私は「見ればいいです、見ればあなたが救われます」と心の中で考えました。この時、店のおかみさんがゆったりと落ち着いた調子で「あらあら、うちのパソコン壊れてて、映像が出てこないわ」と言いました。すると、この人は手を放し、私を解放しました。また師父のご加護であると悟りました。

 続いて、私はこの人としゃべり始め、真相を伝える内容を挟みました。私は「姪がこの村に住んでいます」と言いました。すると 「名前は?」と聞かれ、私が姪の名前を伝えるとこの人は笑って「彼らは友人で、近所に住んでいます」と言いました。話し終わるとこの人はすぐ行こうとしたので、私は後を追い、三退を勧め、DVDを渡し、家に持ち帰って見るように勧めました。しかし、この人は「いりません、あなたの姪の家で見ます」と言いながら、急いで行ってしまいました。

 またある時、女性同修を1人オートバイに乗せてS農場へDVDを配りに行き、中から外まで配り、先に10番農場へ行き、街を歩き回って人々の家を訪ねながら配るととても順調でした。その後、9番農場へ行き、養殖場、売店、食堂でもDVDを配り真相を伝えると、みんな受け入れてくれました。私たちが帰ろうとした時、男性が1人やって来て「ここで配ってはいけません、早く行ってください」と言いました。私たちはすでに配り終わっており、もともと帰ろうとしていました。この時、同修が「彼は電話をかけているが、どうなんでしょうか」と言いました。そこで私は「電話をかけるというのはふざけていませんか?」と言いました。しかし、取るに足らないことだと判断し気にとめず、正念を発せずに邪悪を根絶し、迫害を否定しました。

 私たちが8番農場へ行くと、警察署が8番農場の出入口にあったのですが、やはり中から外まで配りたいと思いました。車を降りて、DVDを出すと、大柄な男性が警察署から出て来て(制服を着ていなかった)、私たちに向かって叫び、行く手を遮り、その男は態度が悪く「あなたたちは何を配っていたのか?」と聞きました。そこで、私はその男性に神韻公演DVDを手渡し「中華五千年の伝統文化です」と伝えました。すると、その男性は横暴に「何が五千年の文化だ? 早く言え、結局何なんだ?」と言いました。すると同修がトイレに行きたい、と言い出し 「警察署のどこにトイレがありますか?」と聞きました。すると、この男性の態度が和らぎ、どこにトイレがあるのかを伝えました。私のかばんの中にはまだDVDと資料があったので、同修に「トイレに行ったら戻って来ずにこの機会に行ってもらい、私のカバンを同修に差し出し、トイレに行く時にかばんを持って行ってもらおう」ということを匂わそうと思いました。しかし、同修はそのことがわからず、私のカバンを受け取りませんでした。

 同修はオートバイの所まで行って自分のカバンを手に取りましたが、同修のカバンはもともと空だったのです。私の心は静まっており、文句を言わず「私もついて行きます」と言いました。トイレへ行く途中で、同修は「姉さん、私はトイレに行きたいのではなく、ただ少し時間稼ぎをしたいと思ったのです。というのも、少し怖かったからです」と言いました。この時、私はすでに考えを変えており、同修に先に行かせようとは考えていませんでした。なぜなら農場は一本道で、農場の通勤バスが走っているだけで、1台のタクシーさえ拾えそうもなく、もし農場から出て行けないなら、事はさらに面倒になるからです。そこで、同修に「師がいて、法もあるのですから、恐れないでください。彼と私たちは、迫害する側と迫害される側の関係ではなく、救う側と救われる側の関係で、彼は私たちが救い済度しなければならない衆生なのです。ですから、立ち向かい、彼に真相を伝えに行きましょう」と言いました。

 私たちが戻ると、その警官はDVDを持って、オートバイのところに立ち、やはりかんかんに怒って「話せ! 結局何なんだ? 法輪功のものではないなら何なんだ?」と聞きました。そこで私たちは「あなたが知ってしまった以上、私たちもごまかしません。もし法輪功のものでなかったら、人を救う効果はありません」と言って、警官に真相を伝え始め、法輪大法が正法であることを伝え「偽りの天安門焼身自殺事件」のことを伝え、江沢民がなぜ法輪功を罪に陥れるのかを伝え「蔵字石」のことを伝え、天が中国共産党を滅ぼすことを伝え、なぜ三退すれば平安が保たれるのかを伝え、師父が私たちに衆生を救い済度させてくださっていることを伝えました。そして、その警官に大法弟子を迫害しないように勧め、それは自分に対してよくないだけでなく、子孫にまで災いが及ぶことを伝えました。

 最後に、その警官は「実際、自分から面倒をしょい込みたくないので解放するが、私の所轄地域で配ってはいけない」と言いました。オートバイに乗った後、その警官に「あなたはとても利己的です」と言うと、その警官は「お前たちを解放しているのに、どこが利己的なのか?」と言いました。そこで私は「手に持っているDVDを見れば、あなたは救われますが、あなたの管轄地域の人々は救われないからです」とその理由を言いました。

 何度も何度も危険や苦しみを経てきましたが、師父と大法の無限の威力のご加護の下、無事に危険を免れました。弟子は師父に対して限りない感謝の気持ちを持ち、ただ精進し、さらに精進いたします!

 五、同修の肩の上に立つ

 私たちの所に大きなグループの協調人がいましたが、2年前に誣告(ぶこく・事実を偽って告げること)されて罪に陥れられ、懲役3年の不当な判決を受けました。それからは、私がこの大きなグループの協調人をやりました。私たちの大きなグループには地方の同修がおり、H町には4人の同修がいて、私たちの大きなグループで法を学びました。H町には十数人の同修がおり、みな2005年以後に大法に出会い、比較的に精進していますが、本当に表に出て真相を伝え人を救っているのはこの4人だけでした。2015年10月、H町で最初に法輪功を学び始めた2人の同修が、続けてほかの県の別の場所で不当に刑事拘禁され、不当に法廷尋問を受け、その結果を宣告されないまま、今(訳注:2016年11月)も留置場に不当に拘禁されています。不当に連行された同修の舅姑が家にいない状況下で、他の県の警察と地元の警察が協力して、扉をこじ開けて部屋に入り、家の中をめちゃくちゃにひっくり返して立ち去っていきました。

 この突然の異変に、大きな揺れが小さな町にもたらされました。一時、流言飛語(確証のないうわさ話)が広がりました。たとえば、捕まった2人の同修以外にH町の同修Cさんが捕まり、H県で生まれて街に住んでいる同修のDさんも捕まり、H町のすべての法輪功修煉者がもうすぐ捕まるだろう、とか。以前、脳出血を患って麻痺した後、法を学んで立ち上がれるようになった同修のZさんは、もうすぐ半身不随になるのではないかと怖くなった、とか。以前、鼻ガンになり、その後よくなった同修のGさんは息子の妻が地方で捕まったので、Gさんの夫が「もう何も学ばせない」と言った、などなど。そして、同修たちは段々とグループで一緒に法を学ばなくなっていきました。

 この状況を考えて同修のDさんと相談し、外に出ている数人の同修と会い、一緒にH町まで行ってきました。一つ目はデマを破るため、二つ目は捕まった同修の家族を慰めるため、三つ目は集団学法を堅持し、緩めないように現地の同修と交流し、同修に少し正念を与えるためでした。その他に、帰途の路上でパネル資料をかけ、真相資料を配る準備もしました。

 夕方、6時の発正念を終えた後、私たちは乗用車で出発しました。この時、空が一面に曇っており、車に乗っている道中に正念を発し続け、時には法に則って交流しました。1時間近くの道中で、目的地に着いた時はどしゃ降りで、車の中に閉じ込められ、下りることができませんでした。そこで、車の中で正念を発し、H町の空間場を清め、雨を止めようとしました。すると、10分近く経って、雨は止みました。

 まず、捕まった同修の舅姑をお見舞いに行き、姑の焦る心を落ち着かせました。その後、現地の同修と交流し、集団学法を再び立ち上がらせました。時間の経つのは本当に早く、これらすべてをやり終えると、もう10時になっていました。

 同修の部屋を出た時、見渡す限り晴れていて、物事が順調に運び、濡れているかどうかを見るために、電柱を触ってみました。すると、少しも濡れておらず、パネル資料をかけるのに影響しませんでした。この時、Cさんがもう家路に向かおうとしていたので、呼び止め「一緒に資料を配り、パネル資料をかけに行きませんか?」と誘いました。すると、Cさんは少しもためらわず付いてきました。村の出入り口の道端に鉄製の看板があり、パネル資料をかけるのにぴったりでした。しかし、看板が高すぎて手が届きませんでした。ちょうど焦っていた時、Cさんが跪き、両手で地を支えるのが見え、「さあ、私の背中の上に立ってください」と言いました。雨が降ったばかりで、地面は泥まみれになっていました。私は自分の気持ちに逆らってCさんの背中を踏み台にしようと足をのせると「さあ、早く乗って、なんでもないわ、早く早く!」と言うのを聞き、私は涙がこみ上げてきました。Cさんの背中の上に立ち、同修のDさんが片手で私を抱え、片手でパネル資料を手渡し、私はパネル資料をきちんとていねいに鉄製の看板に貼りつけました。貼りつけたパネル資料は、遠くからでもはっきりと見え、とても体裁がよく、とてもきれいでした。私たちは満足して車で帰りました。この時「神は私にこの一地方を救わせる」[4]、「皆さんはそれぞれこの世界で大きな範囲を受け持ち、その部分の衆生を代表しているからです」[5]、「この迫害の中で衆生を救い済度するのか、これらはみな歴史が大法弟子に賦与した責任です」[6]という師父の法を思い出しました。

 私たちはぬかるんだ道を前進し続け、資料を配りに行き、パネル資料をかけに行き・・・この地方の衆生を救い済度しに行きます。全体で力を合わせれば、力は無限大です!

 六、この世で現れた奇跡

 ある日、三輪車で日用品を売りに行くと、同修が往来でネット封鎖突破ソフトを配っていましたが、うまく説明できていませんでした。そこで私は「私がやります、私が配ってあげます」と言いました。しかし、ネット封鎖突破ソフトを配っているうちに、物を売るのを忘れてしまいました。すると同修が「あなたは何をしているのですか、物は売らないのですか?」と言いました。そこで私は「物を売るのは焦っていませんが、人を救うのは焦っています」と言いました。その後、神韻のポスターを三輪車のハンドルに掛け、物を買いに来た人に神韻の事を伝え、もしポスターを欲しい人がいれば、1枚あげました。しかし、その日は確かに品物はいくらも売れませんでした。

 寒中のある日、突然、品物の売れ行きが特に多くなり、忙しくて手が回らないぐらいで、たえず卸売業者に電話して品物を届けてもらいました。しかし、卸業者が届けてくれるのを待っていたのでは販売とのタイミングが合わないので、夫に品物を取りに行ってもらいました。私は主に靴下を売っており、1足2.5元で売っていたのですが、なんと5千元以上も売ったのです。これはまるで奇跡でした! 師父がこの1日で、以前私が同修のためにネット封鎖突破ソフトを配ったために、物が売れなかった日の分までも補填してくださったのです。どのように師父に感謝申し上げればよいのか、まるでわかりませんでした。

 同修は「教養のないおばあさんが熟練してパソコンを使いこなし、インターネットでダウンロードして資料をプリントしている、これは奇跡ではありませんか? 60歳代のおばあさんがオートバイの後ろに若者を乗せている、これは全県で唯一の独特な風景ですが、これは奇跡ではありませんか? 神の道を歩んでさえいれば、師父が大法弟子を加護してくださるのです! そして、このすべてのこの世の奇跡を生み出すことができるのです!」と言いました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『長春補導員法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
 [4] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「慈悲」
 [5] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」
 [6] 李洪志師父の著作:『各地での説法四』「二〇〇三年ワシントンDC法会での説法」

 (明慧ネット第13回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/5/337151.html )
 
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