長春市の学習者孫淑英さん 何度も九死に一生を得る
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 【明慧日本2017年4月8日】私は孫淑英と言い、今年64歳で、1998年、私は法輪功を学びはじめて18日後、体の疾病がすべて完治し健康になりました。法輪功が私に再び2回目の生命を下さいました。1999年7.20、江沢民グループによる法輪功に対する迫害が始まって以来、私は何回も北京に陳情に行ったため、何度も不当に拘禁され、数回死ぬ間際まで迫害を受けたことがありました。迫害の詳細は下記の通りです。

 迫害の真実を伝え続け、何度も連行され拘禁される

 1999年7月23日、私は長春市政府へ陳情に行き、自分の心身の変化の体験を話し、法輪功の素晴らしさを実証し、政府に真相を理解させようと考えた。しかし、市政府に着いた途端に警官に連行された。もう二度と北京に行かないという保証書を書くように強制され、私が書かないため、警官は帚の持ち手が砕けるまで私を殴り、大量の血が地面に飛び散った。その後、大広留置所に18日間拘禁された。

 1999年10月、北京へ陳情に行った途中、長春駅で警官に不当に連行され、大広留置所に15日間拘禁された。

 その後、2回目上京した時、長春市八里ボ留置場に連行され、強行に採血された。保証書を書かないため、他の18人の学習者と一緒に麻薬戒毒所に送られた。戒毒所には群れをなした狂犬がおり、けたたましく鳴き声をあげていた。私は断食して迫害に抗議し、18日目にやっと解放された。

 11月、私は3回目上京し、横断幕を掲げて人々に法輪功の素晴らしさや正法であることを伝えようと決心した。私は北京の天安門広場で「法輪大法は素晴らしい」の横断幕を広げた。武装した警官らは必死に横断幕を引っ張ったり、足で私の腹を蹴ったため、私は蹴り倒され10メートル以上転がって、起きられなくなった。

拳打脚踢
拷問の実演写真:拳で殴られ、足で蹴られる

 不当に指名手配され やむを得ず放浪生活をする

 北京へ陳情に行ったため、長春公安局の人員に3万元の懸賞金をかけられ、指名手配されたので、仕方なく内モンゴルに逃げた。

 2010年6月21日、私は内モンゴルの学習者と一緒に横断幕を掛け、迫害の真相を伝える小冊子を配布したため、現地の警官に留置場へ連行された。身に持っていた7千元の現金を押収され、何度も不当に尋問され、トイレに行くことを許されず、食事も与えられず、また罵られて、顔や目を殴られた。

酷刑演示:揪头发撞墙
拷問の実演写真:髪を掴まれ壁にぶつけられる

 警官は私の髪を掴んで鉄の柱にぶつけた、その瞬間、目がちかちかした。さらに連続して8日の間、一睡も許さず、立つ姿勢を強制されたまま、ひどい暴力を受けて目の周りが黒い紫色になった。8日間寝ていないため、精一杯に目を開けてもほんの僅かな隙間しか開かなかった。

 長春公安局で鉄の靴に固定され、鉄製のチェーンをかけられる

中共酷刑示意图:开飞机
拷問の実演写真:飛行機の姿勢を強制される

 23日後、長春公安局の警官に秘密の場所に拘禁された。警官は昼夜を問わず私に対して蹴ったり殴ったりした。さらに私の両腕を突然背後に持ち上げ、飛行機の姿勢をとらせた。私は汗をびっしょりとかき、話せなくなり危険な状態に陥ったため、ようやく元へ戻されて、この警官はさっさと行ってしまい、もう1人の別の警官が来て、私を吊し上げて縄で滅多打ちした。最後に私を長春鉄北留置場に送った。

酷刑演示:悬空抽打
拷問のイメージ図:吊し上げられ滅多打ちされる

 鉄北留置場では、見学に来ていた各地の警官の前で、私は「法輪大法は素晴らしい!」と叫んだため、その場で32キロの鉄陀子を付けられ、両足は鉄の靴にくぎ付けにされ、首には鉄製のチェーンをかけられた。

 労働教養所で灌食され、電気ショックを与えられ危険な状態に陥る

 私が決して屈しないため、2年の労働教養を強いられ黒嘴子労働教養所に送られた。黒嘴子労働教養所は、もっぱら女性学習者を迫害する場所で、その残忍さは自ら経験しないと中々想像できない酷いものだった。

 10月1日、労働教養所はすべての法輪功学習者を運動場に集合させ、所長は法輪功に対して誹謗中傷する言葉を言ったので、私は「法輪大法は素晴らしい!」と叫んだ。警官は私をぐっと引っ張って阻止した。帰って来た後、私は迫害に抗議するため断食をすると、7、8人の警官らに押さえられ無理やり灌食された。管を右の鼻に挿し込まれた時、息ができず突然弾んで座りこんだ。口の中から痰を吐き出すと警官に平手打ちされた。それから、警官は九十数キロの受刑者を私の腹部に座らせ、今度は管を左の鼻に挿入しドロドロした物を注いだが、どうしても入らず、最後には諦めた。

酷刑演示:野蛮灌食(绘画)
拷問のイメージ図:野蛮に灌食される

 ある日、労役を拒否したため、事務室に呼ばれ、高圧の電気棒で電気ショックを与えられた。電気棒のバチバチする音を隣の2人の学習者が聞いて「法輪大法は素晴らしい!」と叫んだため、警官はまたその2人に向けても電撃を行った。こちらでも「法輪大法は素晴らしい!」と叫ぶと、警官らは気が狂ったように何度も行ったり来たりして電撃を行った。

 2001年旧暦の大晦日の午後、私のお腹が激しく痛み出して、我慢できないほどで転げ回ったため病院に運ばれたが、十数時間経っても痛みが止まらなかった。私は何も言えなくなり、人事不省(じんじふせい・昏睡 状態に陥り、意識を失うこと)に陥った。医者は懐中電灯で私の目を照らして「この人はもうだめだ」と言って、夜中の2時半に姉を呼びつけ家まで送らせた。

 自動車工場支局で3日間連続して暴力を振るわれた

 2005年、地元の女性学習者が迫害され、危険状態に陥った。私はインターネットを利用し迫害を暴き出したため、自宅で警官に連行された。家のプリンター、コンピュータ、書き込み用ドライブ、迫害の真相資料および自分の所持していた1万2千元を押収され、私は自動車工場支局に送られた。そこで、3日間連続してひどい暴力を受け左足が骨折した。骨折して、トイレにも行けずズボンの中は大便と尿でいっぱいになった。

 留置場で迫害されて血圧が下がり消えた

 留置場で、野蛮な灌食を強制された時、私の血圧が下がり消えた。警官は当日の夜中に私を刑務所病院に送った。しかし、病院の医者は「この人はすでに血圧が消えて、脈もなく、受け入れることはできない。死んだらあなた達が責任を取るべきだ」と言った。

酷刑演示:死人床
拷問の実演写真:死人ベッド

 仕方がなく、病院はすぐに緊急措置を取った。私が拒否したため、死人ベッドに縛り付けられて無理やり注射された。

酷刑演示:打毒针(注射不明药物)
拷問の実演写真:不明薬物を注射される

 その後、医者は柔らかい管を私の腕に挿して点滴を強制した。点滴をしてから18日目に、私は腕が激しく痛み太くなったため、自ら管を抜いた。監視役たちはこの状況を見て、皆が医者のところに行き抗議した。病院は圧力の中でようやく注射をやめた。その時から、私の全身が赤くなり腫れ上がって、比類なくかゆくなった。

 不当に懲役10年の判決を受ける

 2005年12月29日、長春市緑園区裁判所は、卓球テーブルがある部屋で裁判を行おうとして、数人の警官が私を卓球テーブルに押さえつけた。私は「迫害は犯罪だ!」と叫んだ。突然2人の警官はテープでしっかり私の口を封じたため、口の内側の肉が裂けた。

 2006年2月、園区裁判所は2回目の裁判を行った。その時の私はすでに脈がなく、顔に血色もなく、救急車の中で点滴を受けた。夜中の3時50分頃、私は法廷まで運ばれ、また興奮して叫んだ。司法官はいい加減に裁判を終わらせた。結果は、不当に懲役10年の判決が下された。

 黒嘴子刑務所で死に瀕する状態になる

 2006年6月21日、長春市黒嘴子刑務所に送られた私は、すでに13カ月断食し、非常に痩せこけていて、全身は薬物によるアレルギー反応が出て赤く腫れており、血圧が消え脈がなく、いつ死んでもおかしくない状態にあった。

 刑務所はあらゆる手を尽くして私を苦しめたが、私の真・善・忍を守り続ける意志は変わらなかった。刑務所に入所して8年6カ月経ちここから解放された。息子と息子の妻が迎えに来た時、私を抱き上げここから外へ出してくれた。

 身内を失い一家離散となる

 私は家で4カ月間煉功した後、身体がだんだんと回復し、立つことができるようになった。2014年7月17日、他の学習者と一緒に農村の借家で煉功したとの理由で、また再度不当に連行された。

 刑務所から帰って来た後、兄の話によると、母は長期に私のことを心配して眠られず、私に会えないまま苦痛の中で病死した。母が亡くなった後、さらに姉までもが悲しみの中でこの世を去った。身内は精神的にも大きなダメージを受け続けた。

 今、私がここで述べたこれらの内容はすべて、全てが真実のことです! 私が受けたこれらの虐待や拷問による人権を無視した酷い迫害も、ほんの氷山の一角に過ぎないのです!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/14/344168.html)
 
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