遼寧省凌源市の4人家族 父母が連行され みじめな境遇に
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 【明慧日本2017年6月22日】遼寧省凌源市の肖杖子村に入ると、1軒の壊れかけた表の門番の部屋が見え、屋上には雑草が一面に生え、屋内には数カ所が崩れ落ち、錆びている扉を開けると、中庭は人間よりも高く成長した雑草と雑木が林のように生えているが目に入った。雑草と雑木の隙間から壊れた家の建物が見え、井戸と農機具は雑草の中に半分埋まり、荒れ果てた家全体の情景は寂しげだった。周りの様子はまるで家族4人の悲惨な境遇を物語っているようであった。

 この家の主人は劉殿元さんと言い、今年80歳で、1999年9月から現在に至って、7年の冤罪を経て4年半の放浪生活を余儀なくされた。2015年11月、79歳の劉さんは再び懲役11年6カ月の判決を下され、現在、刑務所に拘禁され10年余りの刑務所生活に直面している。劉さんの妻も3年の労働教養を強いられた後、懲役4年の不当な判決を下された。

 一、法輪功を学び病気が快復

 劉さんは若い時に幹部や教師になったことがあり、それから漢方医学を独学で学び、診療所を開いたこともある。1985年から、劉さんは建築工事を請け負い金持ちになった。しかし、働きすぎた劉さんは、座骨神経痛、胃と十二指腸潰瘍、慢性肝炎、神経衰弱などの病気を患った。

 自分は医者でありながら、さらに瀋陽市の第四病院の専門医に治療してもらったが、病気が一向に好転しなかった。その後、劉さんの前妻は離婚を要求したので、お金がなくなり家は分散した。この突然にやってきた打撃で、劉さんは意気消沈し、最後に人を恨み、不平不満が生じた。1994年の夏、劉さんは2人の子供連れの劉玉芳さんと再婚した。

 1995年、劉さんは法輪功に出会い、『轉法輪』を読み終わった後、人はなぜ病気と不幸があるのか、何のために生きているのか、佛法とは何か、修煉とはどういう意味なのか等々、人生の中でずっと困惑していたすべての問題が解けた。劉さんは真・善・忍の基準で自分を律し、良い人になるようにと決心した。その時から、劉さんは他人の立場で物事を考えるようになり、長年の恨みも消え、名利に対しても淡泊になり、すべて自然に任せるようになった。間もなく、無病状態の軽やかさを実感した劉さんは、本当の幸せを体得することができた。

 二、邪悪な弾圧

 1999年7.20、中国共産党の法輪功を弾圧する運動が始まった。至る所に法輪功を誹謗中傷する宣伝があり、至る所で法輪功学習者に対する連行が行われた。昔から「しずくの恩に泉の限りで報いる」という諺があり、法輪功を学んで2度目の生命が得られ、しかも、一銭も支払ったことがなく、正直者の劉さんは良心の面でいつも本心と違うことを言うことが出来ず、法輪功を放棄しなかったために、残酷な迫害に遭った。

 1999年9月、劉さんと年配の姉が家で本を読んでいたところ、突然入ってきた小城子派出所の警官に連行された。劉さんは断食して迫害に抗議し、ようやく解放された。

 2000年6月14日、小城子派出所の警官は劉さんの家に押し入り、劉さんを連行し60日の間拘禁した。

 2001年7月31日、劉さんは内モンゴルの寧城県公安局まで連行された。その時に警官が「お前は遼寧省の者だから、7千~8千元を出せば釈放できる」と言うと、劉さんは「私の家にはお金がありません」と答えた。

 数日後、警官は「お前はまだ学ぶのか、もし法輪功を放棄し、『三書』を書いたならすぐに帰宅させる。さもなければ、判決を下す」と脅し、劉さんは「法輪功を学び続けます」と答えたため、懲役7年の判決を下され、内モンゴル自治区赤峰第4刑務所に拘禁された。

 刑務所の中で、毎日過重な労働を負わされ、しかも十数時間強制され、いかなる報酬もなかった。ある日、劉さんは他の人と会話したため、警官に平手打ちをされ、刑務所の精神病院に10カ月間拘禁された。劉さんは精神病がないのに、毎日十数種の不明な薬を2回飲まされ、300日余り無理やり飲まされた。

 7年間、劉さんは普通の人が想像できないほどの苦しみを嘗め尽くした。別人のように痩せこけた劉さんは帰宅した時、腰が曲がり、衰弱して話す力さえなく、咳が止まらず吐血し、一家は抱き合って号泣した。

 家に帰った後の劉さんは、法を学び煉功に励み、2カ月後に回復し、畑仕事もできるようになり、法輪功のおかげで再び命を取り戻した。

 2010年10月12日、地元の警官らは劉さんの家に押し入り、劉さんを連行した。12時間後、保証人を立て審問を待つという名目で一時出所したが、間もなく凌源裁判所に懲役4年6カ月の判決を下された。警官は再び連行しにやって来た時、劉さんは走って逃げた。当時73歳の劉さんは、畑仕事を放置し、アルバイトをするところもなく、非常に苦しい放浪生活を送った。

 三、交通事故に遭い、不思議に回復

 劉さんは5回連行され、7年の冤罪を経て、4年半の放浪生活を経験したが、依然として誰に対しても恨まず、相変わらず真・善・忍に従って自分を厳しく要求した。

 2015年7月、劉さんは交通事故に遭った。電動車はぶつけられて砕けて左の足を骨折し、鎖骨にはひびが入り、腰部と脊椎に損傷を負った。現場に駆けつけた救急治療の医師と交通警察官は「運転手は少なくとも30万元を弁償しなければならない」と言った。

 劉さんは長期にわたり迫害を受けたため、家はすでにひどく貧しい状況に陥っており、もしもこのお金を得れば、生活の困難を緩和できた。しかし、劉さんは、自分が法輪功学習者であることを忘れず、すぐ家に帰り、今後、何があっても運転手に一切責任を追及しないと言った。運転手は感激しながら 「私は本当にいい人に出会った、そうでなければ家産を傾けるところだった」と話した。

 当時、劉さんは78歳で、骨折は治愈しにくいはずだが、劉さんは薬を飲まず、注射もせず、毎日法を学び煉功をし、ごく短い1カ月間で不思議に回復し、また自転車に乗れるようになった。

 四、79歳の劉さんは 11年半の冤罪を着せられる

 2015年11月9日、劉さんは親戚の家で食事をしている最中、建平県と凌源市の警官に連行された。劉さんの家族は何の通知も受けておらず、多方面に尋ねてやっと建平県留置場に拘禁されたことを知った。

 昨年4月7日、肌寒さを感じる季節の中、骨と皮ばかりにやせこけた白髪の劉さんは、手錠をかけられ警官に支えられ、ふらつきながら遼寧省建平裁判所に入廷した。法廷で、劉さんは涙を流しながら 「警官が証拠を捏造したこと。親戚の家で連行されたのに、警官は法輪功の書籍真相資料がいっぱいある我が家で連行したと嘘を主張している」と家族に話した。

 迫害を受けて、劉さんの記憶力が減退したため、事前に弁護資料を書いた。しかし、裁判所は開廷する日時を教えてくれなかったため、当日に弁護資料を持って行けなかった。

 建平県裁判所は劉さんに対して懲役11年6カ月の判決を下し、劉さんを遼寧省瀋陽第1刑務所に拘禁した。現在まで、家族は未だに判決文を受け取っていない。今年の初め頃、家族は瀋陽第1刑務所に面会に行った時、劉さんの身体は非常に衰弱しており、受刑者に車椅子を押してもらい連れて来られた。

 五、奥さんの境遇

 劉さんの妻・劉玉芳さんは、今年61歳で普通の田舎の主婦で、生活のため14歳から大人達と一緒に農作業を始めた。24歳の時、れんが製造所でアルバイトをしていた時、作業現場の落下事故で、左腿の数カ所を骨折して後遺症が残った。しかし、玉芳さんは運命に負けず、裁縫を習って生活できるようになった。

 玉芳さんは28歳の時ようやく結婚ができ、2人の子供が生まれた。娘が4歳、息子が2歳の時に、夫は他の女性が好きになったために離婚を要求され、苦労して新築した家と財物が夫の所有物になった。玉芳さんは2人の幼い子供を連れて苦しい生活を送っている中、学校の授業料を支払えないなどのことで、隣近所に嘲笑されたり、社会的に差別されたが、それも負けず、畑仕事は両親と妹が手伝ってくれて支えてくれた。

 1993年の前後、両親が亡くなり、2番目の妹は夫の暴力により打ち殺され、3番目の妹はこれらの打撃に耐えられず、精神喪失した。次々と重なった心労や苦難の中、2人の子供を配慮しなければならず、玉芳さんは何回も死ぬことを考えたという。

 一連の出来事で、玉芳さんはしょっちゅう人気のない森の中で大泣きをし、天が自分に対して不公平だと思い込んだ。そして、報復心が生じて来ると、自分を裏切った夫や、離婚を支持した夫の家族、また棺を買わなかった2番目の妹の姑側や自分と子供を嘲笑した周りの人までをも、すべての者達を毒殺したいと考えるようになった。

 1994年、人の紹介で玉芳さんは劉さんと再婚した。1995年夏、親族を通じて法輪功に出会い、『轉法輪』を読んだ瞬間から親しく感じ、手放すに忍びなかった。そして、玉芳さんは『轉法輪』の本を読んで学び、人を恨む心を取り除いた。

 2000年6月30日、玉芳さんは保証書を書かないため、小城子派出所の警官に連行され、不当に45日間拘禁された。

 2001年7月31日、凌源市国保大隊(法輪功迫害の実行機関)と小城子派出所の警官らは、家に来て玉芳さんをパトカーに押し込んで、急いで発車した。

 留置所に拘禁された玉芳さんは、2001年10月1日から断食を始め、各関連部門に手紙を書き、自分を無罪で解放し、押収された法輪功書籍を返すように求めた。断食後の8日目になると、ペンを持てなくなって話すこともできず、動けなくなり、最後に考える力さえなくなった。その後、家に戻された。

 六、馬三家労働教養所で迫害を受ける

 2002年1月、旧正月の新年の前、玉芳さんは家で新年の支度をしていたところ、小城子派出所の警官に凌源留置所まで騙されて連れて行かれ、3年の労働教養を強いられて遼寧省馬三家労働教養所に送られた。当時、玉芳さんの娘も一緒に連行されたが、10日後に帰宅できた。

 14歳の息子は、学校から帰ってきて、家は寒くて誰一人もいなかった。後になって、母親と姉が連行されたことが分かった。

 玉芳さんは馬三家労働教養所で迫害され、何回も吐血し、水さえ飲めなくなり、呼ばれても応答することができなかった。2004年7月9日、息子と娘の待ち望んでいる中、玉芳さんは帰宅した。

 七、果てしなく続く、800里離れた夫を見舞う道のりで

 2004年8月5日、出所したばかりの玉芳さんは、3年余り会っていない夫の状況をよく知っており、赤峰刑務所に劉さんを見舞いに行くことに決めた。旅費がないため自転車で行き、手作りの蒸しパン、水、自転車の空気入れとわずか10元の現金を持参して出発した。400里(200キロ)道を15時間で辿り着いたが、面会日ではないという理由で、刑務所の警官はどうしても面会を許可しなかった。

 往復で800里の道のりを8月の猛暑の中、玉芳さんは休むことができず、夜の時間に荒れ野に出ると困るし、いったん休むと起き上がれない可能性があるため、歯を食いしばって耐えて自転車をこいだ。自転車から降りた時、日焼けして真っ赤な顔に汗がぽたぽたと流れ落ち、歩けなくなった。

 玉芳さんは赤峰のある宿で泊まることにした。店のオーナーは玉芳さんの話を聞いて、元来10元の宿泊料を6元にしてくれた。そして、玉芳さんは洗面所で5元のお金を見つけ、オーナーに告げると店のオーナーは感嘆した。

 20日後、玉芳さんは山で摘み取った数十キロのナツメを市場で売り、売上金は6、7元だった。このお金を持って、玉芳さんは自転車で2回目、劉さんを見舞いに行った。劉さんは妻が自転車で来たことを知って、大泣きをした。同時に、妻の行動は劉さんにとって大きな励ましとなった。

 八、警官は法を犯し、善良な人が再び迫害を受ける

 2010年10月12日、数人の警官が玉芳さんの家に押し入り、いかなる証明書も提示せず、玉芳さんを留置場まで連行し、懲役4年の判決を下した。

 留置場で、玉芳さんは毎日心臓の激しい痛みに苦しめられ、胸と背中に貫通したような激痛に見舞われ、高血圧の症状が出て、左腕は力がなく、腹が張り、17~18人が詰めている部屋で泣きながら歩き回っていた。死ぬより辛い日々の中で苦しめられて、1日が1年のように長かった。

 2011年6月14日、玉芳さんは刑務所に移送された。そこで、毎日法輪功を中傷する映像を強制的に見せられ、三書を書くように強要された。2人の監視役は「ここで私たちにはすべての権力があり、転向しなければ暴力を振るうぞ、打ち殺しても一切の責任を取らなくていい、従わなければ、あるいはこの事を他に漏らせば、お前の家の住所を知っているから、殺すぞ」と怒鳴った後、玉芳さんのお腹を蹴ったり、胸や顔を殴ったりし、汚い言葉で侮辱した。

 長期にわたり、睡眠を許さず、立つ姿勢を強制されたなどの迫害を受けたため、玉芳さんの体は衰弱し、足が腫れ、お腹が大きく膨らんだ。

 九、16歳の女の子は家の大黒柱になった

 両親が連行されたため、16歳の女の子は仕方なく学校を中退し、毎朝3時に起き、ろうそくを灯し(大人がいないので、電気が繋がれていなかった)、暗い寒い部屋で煎餅を懸命に作った。煙が立ちのぼり、冬着に霜が付いた。また、十数キロ離れた市場まで行き、作った煎餅を売り、その代金で弟を学校に行かせた。そして、16歳の娘は大人のように畑を耕作し、種撒きから収穫まで、すべて自分1人で働かなければならなかった。

 季節が移り、3年の間旅費もなく、連れて行く大人もおらず、ずっと母を見舞いに行くことができなかった。

 十、善良を選択すれば、私は前と変わらず許してあげたい

 玉芳さんの息子は、以下のように語った。

 2001年、私は14歳の時、突然多くの警官が来て両親を強制的に連行した。その時、驚いてポカンとして、泣きながら「お母さんを捕まえないで」と言ったが、誰も相手にしてくれなかった。ひっくり返された家を見て、何をするかが分からなかった。

 好意ある隣近所の人は「早く派出所へ行って、両親のどちらか1人でも家に残すようにお願いしに行かないと、これから先何を食べるの? 畑はどうするの?」と教えてくれたので、姉さんと一緒に急いで自転車で4キロ走って、派出所に駆け付けた。派出所の所長はまったく会ってくれず、他の警官にお願いしたが、警官は「お前らが飯を食えるかどうか関係ない、誰が家に来たのか、あの資料はどこから来たのか、自白しなさい」と言った。仕方がなく、姉さんと涙を流しながら家に帰った。

 いつも家族4人が一緒に食事をしたが、あの日から突然恐ろしい静けさを感じ、晩ご飯の時、姉さんと思わず涙を流した。

 家で待ち望んだ結果、父親が7年、母親が3年の判決を下された。お金がないため、父母のいる所へ連れて行ってくれる大人もいないので、お母さんの声も聞くことができず、ただ遠い所にいることだけがわかった。ある時期、お母さんに会いたくて、少しの貯金が出来てとても興奮し、必ず瀋陽に行きたいと考えた。しかし、他の大人に反対され「場所が分からない上、危険すぎる」と言われ、仕方なくこの計画を打ち消した。

 実は、私たち姉弟はほんの少ししかここで言っていない。遭遇した困難があまりにも多すぎて語り尽くせないが、遅かれ早かれ、正義は必ず邪悪に勝ち、いずれやって来ることを固く信じている! 警官の中に良い人もおり、私達はこんなに多くの苦労と苦痛と迫害を経験したが、善良を選んだ警官たちを私は前と変わらず許してあげたいと思っている。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/26/348729.html )
 
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