白血病で 大法に命を救われた呉俊徳さん 江沢民を告訴
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明慧日本2017年9月13日】

 末期の白血病が 大法を修煉してから一週間で治った

 1997年7月、私は法輪功の修煉を始めた。以前、敗血症(白血病)にかかり、血を作る機能を失い、血小板がとても少なくなり、発見した時はすでに末期症状の状態で、病院では治せなかった。当時、私は30代で死にたくないと思い、気功に望みを託した。しかし、いろいろな功法を試しても、効果があまりなかった。ある日、同僚が私に「法輪功をやってみましょう。法輪功は佛家修煉大法で、病気治療と健康保持に素晴らしい効果があります」と教えてくれた。

 初日、煉功が終わって、体がよくなったと感じたので毎日煉功して、『轉法輪』を読んだ。本を読んで、私はなぜ人間が病気にかかるのか、どのように病業を取り除くのかがわかり、さらに、宇宙の特性である真・善・忍という特性に従ってよい人になり、道徳を守り、心性を修めるという道理がわかった。もっと素晴らしいことは、私が多くの摩訶不思議なことを見て体験したことだった。1週間後、体は特に軽く感じ、すべての病症がなくなった。それから、法輪大法の教えに従った。

 真・善・忍を実行し 何度も人を救った

 もともと私は鉄道の電気工だった。師父の要求に基づいて真・善・忍に従い、きたない仕事やきつい仕事、危険な仕事を、損得を考えず積極的に行った。以前は、誰も私を指示しようとしなかった。しかし、現在はもしかが困っていれば積極的に助け、どこにでも助けに行った。特にほかの人が危険な時、私は自分の安全を顧みずに助けに行った。

 1998年、私は瀋陽の三台子にいた。私が汽車で通勤するために駅で待っていた時、学生が通学する時、よく鉄道を横断していた。鉄道に長い貨車がしばしば止まっており、なかなか動かなかった。そこで、学生が急いで家に帰って昼ご飯を食べるために、ちょくちょく汽車の下を潜り通っていた。ある日、10才ぐらいの子供が自転車を押して汽車の下をくぐったところ、汽車が動き出し、子供はびっくりして泣き出した。私は躊躇せず汽車の下に入って、「自転車を捨てて」と叫んだ。そして、子供の手を引っ張りながらゆっくり動いている汽車に従って前に進み、子供が汽車の車輪から離れた時に、汽車の下から引っ張り出した。毎日ここを通りゆっくり観察しながら通り、これまでにも数回、子供達を危険から無事に救い出したことがあった。

 1999年のある日の午後2時ごろ、私はハンド・トラクターに乗って鉄道に沿って走っていた時、橋の下に数十人が何かを野次馬根性で見物しているのに気付いた。猿回しをする人が汽車にぶつかり、橋の下の泥の中に落ちて大腿骨を骨折し、骨と肉が露出していた。朝9時ごろ、その猿回しを助ける人が誰もいなかった。私は猿回しのもぎ取れそうな腿と体をコートで包んでトラクターに乗せて、近くの光輝農場病院に運び、簡単に処置してもらい、農場病院から大病院に送って治療してもらうようにと勧めた。私はまた駅で汽車を待って大虎山鉄道病院に送り、猿回しの人の足の切断手術をしてもらい、半年ぐらいかかってようやく全快した。

 2000年6月、三台子の診療所の50代のおばさんがスクーターに乗って、道路わきの溝に突っ込んだが、通りかかった人は誰も助けようとせず、逆にゆすられることを恐れていた。おばさんが溝の中で動けないでいるのを見て、私は溝の下に入っておばさんを抱き上げた。おばさんは口と目が斜めになってしまい、言葉が話せず、急性脳梗塞の症状だった。私はワゴン車を止めておばさんを瀋陽の病院に送った。もしおばさんが溝の中に長く放っておかれたなら、もう命はなかっただろう。

 またある時、猪耳屯の出身の人が酒を飲んでバイクに乗り、橋の欄干にぶつかり、バイクごと橋の下の泥の中に落ち込んだ。私は泥の中から落ちた男性を引っ張り出し、後ろの若者が私を引っ張って、ようやくその男性を引っ張り出した。男性の顔は血だらけでショック状態で意識がなかったが、しばらくしてようやく意識が戻った。もし、もう少し遅れていれば、間に合わなかっただろう。私が1台の車を止めると、その運転手は男性と知り合いで、男性を家に送り届けた。

 私が人を救った事例はまだまだある。人が危険な状態の時、自分のことを考えずに力を尽くして人を救ってきた。師父は私たちに、無私無我で他の人のために良い人になるように説かれていた。そこで、家や職場、および社会、いかなる環境の中でも、私は「真・善・忍」という理念を実行した結果、道徳性が修煉の中で高まった。以前、誰も相手にしようとしなかったこの私は、修煉して自分の安全を考えずに他人を救う人になった。私を理解している人は、「いい人です」と誰もが褒めた。

 迫害が始まり 公職をクビになった

 1999年迫害が始まった時、私は40代になり、ちょうど働き盛りの時だった。しかし、江沢民の弾圧の下で、私の仕事や、生活、修煉は全て妨害と迫害を受けた。一夜にして、私を褒めてくれた良い人達は、職場、町、派出所に監視されて「悪い人」になった。誹謗中傷をいつも聞かされて信仰と人格が踏みにじられ、学法、煉功の集団環境も壊された。そして、心身ともに大きな打撃を受けた。自分が良い人になっても、なぜまだ、このような罪があるのかと理解することが出来なかった。心の中で、とてもやりきれない思いでいっぱいだった。自分の祖国が、再び文化大革命よりも大変な大災禍に遭って心が痛んだ!

 2000年7月から2001年7月まで、勤め先の錦州電力区のリーダーは、圧力の下に不法に職権を乱用し、一年間私を停職にし、不当に給料を止めた。

 2003年5月、瀋陽市国保大隊(法輪功迫害の実行機関)、新民市国保大隊の警官は「610弁公室」の命令を受け、何度も私の家と勤め先に嫌がらせをしたので、私はしばらく家を離れて、嫌がらせを避けようかと思った。しかし、家を出て1週間のうちに、勤め先のリーダーは、私の家に来て妻を騙し、私が自分から辞職したと言って、妻を騙しサインをさせた。その後、このことを知ってリーダーに聞くと、リーダーは私を復職させることを了解した。しかし、具体的な手続きを行う高福安は、5千元をくれれば手続をすると母に教えたが、私はお金を出さなかった。勤め先は仕事をさせず、給料を払わず生活ができず、苦し中でほそぼそと暮らした。 何かやりたいと思ったが、警官がしばしば嫌がらせをし、路頭に迷うことしかできなかった。今、定年退職の年になり、勤め先に行って定年退職の手続きを行おうとした。しかし、勤め先のリーダーはひそかに写真を撮り、私の写真を駅の警官に送り陥れようと企み、私のことについてどうのこうのと言った。私が待合室に入ると、警官に訊問された。私は理由を聞いて状況を説明し、警官の疑惑を晴らした。衆生は江沢民集団の誹謗中傷に騙されているため、是非がわからず善悪が分別できず、また、各地の「610弁公室」にそそのかされて、悪人の手助けをして悪事を働いた。江沢民は中国の国民を巻き込んでテロを行い自分の私憤を晴らし、その罪状は明白であった。

 不当に労働教養を科され、拷問に苦しめられる

 2005年1月、於洪区平羅派出所の所長・長張泰と警官は、私を派出所に連行した。所長はまた人を連れて私が住んでいる借家で家宅捜索を行い、5千元を押収した。(そのお金は家賃を払うお金であった。大家さんが所長に押収した物品の証明書を残すように言うと、所長は仮の受取を出した。後に私は十数回取り戻そうとしたが、交通費だけで1千元以上かかり、今でも取り戻せていない)。平羅派出所の警官は私に手錠を掛け、ベッドの下に押し込もうとしたが、私は協力しなかった。十数人の警官と王健や、陳少卿という警官が私を殴った。さらに警察所属の管理員までもが殴った。私の顔と体は傷だらけになった。夜9時、警官は私のコートをはぎ取り薄い服だけにして、スリッパのまま私を寒い密室に押し込め、私を鉄の椅子に座らせ鍵をかけ、鉄の椅子の上座の厚い鉄板がとても冷たかった。その時期はちょうど北方地方の真冬で、身が凍る思いだった。個室内にも刑具が取り付けてあった。夜中の1時過ぎまで凍えさせられてから、ようやく元の部屋に戻された。平羅派出所にいた3日間は食事も提供されず、水さえも飲めなかった。3日後、私を於洪留置場に送られ、留置場側は私の体が傷だらけになっているのを見て、受け入れを拒否した。そこで、警官は大北刑務所病院に私を送った。20日後、警官は根回しをして私を於洪留置場に送り、半年間不当に拘禁した。その後、瀋陽市司法局に2年間不当に労働教養を科され、沈新留置場に拘禁された。

酷刑演示:死人床
拷問の実演:死人ベッド

 沈新労働教養所に私が着いたばかりの頃、副院長の関鋒は警察に唆されて私を死人ベッドにかけ、四肢を大の字型にして手錠をかけ、7日7晩動けないように固定した。関鋒が警官に支持して強制的に灌食させ、濃度の高い食塩水を飲ませ、中に何かわからない不明薬物を入れたので、飲んだ後、私の胃が麻痺し嘔吐した。7日7晩、まったく動けず、警官の拷問に苦しめられた。心身ともに限界になり、頭がおかしくなったように感じた。

 沈新労働教養所はあらゆる残酷な手段で学習者を迫害し、信仰を放棄させた。たとえ堪えられない人が信仰を放棄しても、解放されなかった。強制的に働かせ、割りばし、つまようじ、ティッシュなどを包装させたりした。毎日の労働の任務は朝から晩まで働いてもなかなか終わらず、やり終わらないと眠らせなかった。警官たちは労働教養の人員を利用して利益を山分けした。このような状態で2年間拘禁されて、私の体重は85キロから50キロに激減した。

 家族に連座性をとり 家庭が崩壊した

 弟は法輪功を修煉したことがない。しかし、2005年1月、新民鎮郊派出所の警官が弟の家を強制捜査し、友達から預かった2台プリンターを押収した。弟は連行され、労働教養2年を科された。

 弟は不当に拘禁され、妻と離婚することになり、6歳の子供は仕方なく母が面倒を見てくれた。私の母親と弟の2人に、生活と精神にも大きな打撃と圧力を与えただけではなく、子供の幼い心にも補いきれないような大きな傷跡をもたらした。

 私の妻は長期にわたって警官に頻繁に嫌がらせを受け、時々、私の安全を心配し、精神がほとんど崩壊した状態にあった。正常であるはずの生活に、とても緊張が走った。昼間でも1人で家にいることができず、外にも出られなかった。娘も恐怖と圧力の中で成長せざるを得なかった。

 瀋陽法輪功学習者・呉俊徳さんは 江沢民を告訴する

 2015年7月2日、当時55歳の呉さんは中国最高裁判所と最高検察庁に、江沢民が法輪功を迫害している元凶であることを告訴し、その刑事責任を追及するように求めた。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/8/352176.html)
 
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