文/ 中国の大法弟子・清玉
【明慧日本2017年10月21日】私は女性の大法弟子で、今年で54歳です。以前は小学校の教師をしていました。中国共産党(以下、中共)の法輪功に対する18年にわたる、残酷な迫害の中で、労働教養をさせられ、洗脳を受け、実刑を科せられ、未だに流浪生活を強いられています。
様々な環境の中で、大法の真相を理解した多くの人々と出会いました。彼らは成人した人や子供もいて、漢民族もいれば、彝族(イ族・中国の少数民族の一つで、人口は870万人で、中国政府が公認する56の民族の中の一つ)もいて、普通の市民がいれば、企業の幹部もいました。中共の天地を覆い隠すほどの虚言の宣伝と、残酷な弾圧の中で、彼らは自分達の善良さを保ち、大法弟子に対して差別することなく、大法を支持し、大法弟子を手助けして守ってくれます。
以下は、いくつかの実例をまとめてみました。
学生が私を校門まで送る
私が修煉を堅持することで、よく公安と教育委員会から迫害されていました。
2004年のある日、私は4年生に授業をしていました。県の国家保安局の数人が突然教室に押し入り、校長室に行くよう命じられました。私は彼らを無視して授業をし続けました。彼らは他の先生を呼び、私を校長室に行かせようとしました。私は、「悪いことを何もしていません。何を確認するのですか? 彼らに私の授業を妨害しないように話してください」と言いました。
その先生は私に、「清玉先生、気を付けてください。彼らは今日あなたを連行しようと相談していました」。この話は生徒にもはっきりと聞こえ、子供たちが囁(ささや)きはじめ、これでは授業が進めないので、この機会を利用して生徒に真相を伝えることにしました。(クラス全員がすでに真相を理解しており、皆が中共組織から脱退しています)中共の邪悪の本質と良い人に対する迫害を話すと、子供たちは憤慨し、私のことを心配して、このような提案をしてくれました。「先生を連れて行かせません。私たちが先生を守ります!」子供たちの純真で善良な言葉を聞いて、私は感激して涙が出ました。一言だけ皆に伝えました。「みんなありがとう!」
連行され迫害されるのを避けるため、私は一時的に地元を離れることにした
午前の授業が終わるベルが鳴り、生徒たちは私を真ん中に取り囲みました。私を推しながら教室から外に出で、校門の外まで護送し、私にもう危険がないと見て、皆が一斉に走り戻りました。
後で聞いた話によると、放課後、国家保安局の警官らと学校の責任者らが、私を見送った生徒たちを運動場に足止めして、私の行く先を教えるように強要していたそうです。子供たちは警官と学校責任者の脅迫に屈することなく、皆は口をそろえて「知りません」と言ったそうです。
2カ月後、学校に戻った時、子供たちと再会しました。私たちは長く会っていなかった身内のように、皆が私を囲み大きな声で話したり、笑ったり感涙を流したりして、私の手を取りしばらくの間、離そうとしませんでした。その感動的な場面を私は一生忘れることができません。
企業役員「早期に法が乾坤を正すよう祈ります」
2006年2月、私は生徒に真相を伝えたことで密告され、国家安全局の警官に強制連行され拘留されました。3月、県の留置場から市の留置場に移送されました。留置場に三十数人が収容されており、その中には米珍さん(匿名)という、企業の役員の方もいました。彼女はとても善良で、高学歴で、自然体で、人をいじめることもなく、刑務官とも仲良くしていて、美味しい食べ物が手に入れば、経済的に貧しい人達にも分け与えていました。
私が移送された当日、彼女は私に小声で、「ここにあなた達の師父の経文や腕時計、多くの冬用の布団などを、あなたの同修に頼まれて、後から入って来たあなた達のために保管しています。それらをすべてあなたに渡します」と言われ、私は経文と発正念するための時計があると聞いてとても嬉しくて、師父の苦心なるご按排に感謝しました。
留置場の規則として毎日無報酬の仕事をしなければならず、ここではライターを作っていました。米珍さんは仕事が早く、いつもノルマよりも多く作り、看守から食べ物や、ビールなどの飲みものを与えられていました。彼女と、彼女の身近にいる人たちは法輪功の真相を理解しており、貰った食べ物をいつも大法弟子や他の人達に分け与えていました。私たちは食べ物を買うと彼女たちにも分け与えて食べさせていました。時間があれば彼女たちに真相を伝えました。彼女は最初から中共が邪悪で良いことをしているなど、信じていなかったそうです。
ある日、皆が予定より多く働き、刑務官が厨房に料理を作ってもらい、ビールと一緒に持ってきました。私は茶碗に水を入れて皆に声を掛けました。「皆さんの健康を祈ります。無事に家に帰れますように、そして法輪大法の素晴らしさを家人と友人にもって帰ってください」。続いて米珍さんは酒が入った茶碗を手に、「私も心からあなた達の法輪功が早期に法が乾坤を正し、邪悪が全滅するよう祈ります!」と言いました。皆がこの話を聞いて、内心から愉快な笑い声を発し、そして盛大なる拍手をしました。
私は覚えていますが、留置場をそろそろ出ようとした時、20歳前後の女の子がノートに私へのメッセージを書いてくれました。「清玉おばさんが早く正果を成就するよう祈ります」
受刑者が親指を立て「法輪功は最も素晴らしい!」
2007年1月15日、私は再び強制連行され、女子刑務所に送られ迫害され続けました。受刑者の多くは少数民族の人達で、学力が低くてもほとんどの人が純朴で善良でしたが、皆長い刑期でした。彼女たちの標準語は流暢で、交流しやすかったのです。彼女たちの労働のノルマはとても多く、毎日のように長時間労働を強いられていました。監房に戻った時はとても疲労困憊した様子で、それでも監房の掃除を順番に担当させられ、心理的な圧力がとても大きいようでした。
私は邪悪の「転向」に応じないため、監房から出ることができませんでした。私は思いました。師父は私たちに他人のために考える善い人になるよう教えておられます。彼らが少しでも楽になるように、機会を見て私は出来る仕事を手伝っていました。私は毎日監房の掃除を行いました。どの民族であれ、皆に対して同じように接しました。彼女たちが戻る頃になると、私は食事を人数分に平等に分けて並べ、食事が済んだら茶碗を洗い、流し台の掃除を手伝いました。日曜日になると、彼女たちが家に送る手紙を代筆してあげて交流し、安心して刑に服するように心を配り、以後は違法をするようなことをしないよう勧め、同時に大法の法理をもって彼女たちを啓発しました。彼女たちは皆納得していました。長く接すると、皆が真相を知って理解し、中共が邪悪で悪質だと話していました。彼女たちは口をそろえて、「法輪功修煉者は善良な人たちです。あなたはここにいるべきではない」と話していました。私に監視役として服役者が2人つけられましたが、2人とも善良な人で、私を庇い一度も刑務官に報告したことがなく、むしろ法輪功学習者を手助けてして物を渡したり、渡されたりして、看守が来るのを監視して報告してくれました!
2008年、四川省汶川大地震のあと、年配の服役者と出会い、雑談を通して私が法輪功学習者であることを知った彼女は、すぐ驚喜の表情をし、親指を立てて、「法輪功は最も素晴らしい!」と言いました。
刑務官が権利を守る
ある日の午後5時から刑務官のBさんが当直となり、私はBさんに会いたいと求めました。Bさんは「事務所には私1人しかいませんので、いいでしょう」と言って、私をソファーに座らせました。私は自分の要求を率直に話しました。会話する中で彼女が善良であることが分かり、修養もあって、一般の刑務官のように法輪功学習に対して、乱暴や敵視していないことを知りました。私はどのように法輪功と出会い、修煉を始めたのかを話し、現在の中共の迫害の状況まで話しました。Bさんは何も言わず静かに聞いて、私の話を遮りませんでした。30分が過ぎたころ、Bさんは顔を上げて壁に掛けてある時計を見て、「もう話さないで、彼ら(食事に行っている刑務官のこと)がもうすぐ戻ります」と言いました。彼女は私を守るために教えてくれたのです。私は自分の権利をすぐ得られなかったのですが、しかし是非を分別できるこの刑務官Bさんは、深く印象に残りました。数回の接触を通して分かったことは、Bさんは以前法輪功の迫害する担当者に命じられたことがあったそうで、それで法輪功に対して理解が深まり、法輪功の迫害に一切参与しなかったそうです。またBさんは他の服役者に対しても言葉が優しく、服役者たちからは尊敬されていました。以後、私はBさんとの関係は良好でした。
刑務所の取り決めで、「転向」に応じた修煉者は、週に一度は電話をかけたり、買い物をすることが出来るようになりますが、「転向」に応じない修煉者は、相変わらず自由を制限されていました。食品を買うことも許されず、電話をかけることなんて論外でした。
新年が近づき、服役者の皆は正月用品を買いに行きますが、私は許されず、インスタントラーメンを食べることさえも許されず、もし持っていれば刑務官に発見されると没収されました。
ある日の夜、私を監視している服役者が、私に「B刑務官にあなたが家に電話をかけるかどうかを聞いてくるように言われました」と話してくれ、私はその話を聞いて嬉しくなり、「もちろんかけます! 4年間私は初めて家族に電話をかけることになります」と返事しました。
数日後、刑務官Bさんは他の刑務官らを指を差しながら、「この人らは全く人間性がなく、正月になっても(転向に応じていない法輪功修煉者を指さしながら)人に買い物に行かさない。清玉、あなたの権利を守るのを手伝います」と話しました。翌日、服役者が買い物に行くとき、Bさんは私の監視役に頼み正月用の食品を買ってきてくれました。
正月が過ぎ、私はやっと冤罪の刑を終了して家に帰ることになりました。私は知っていましたが「転向」に応じない修煉者は、刑期を終えても帰させてもらえず、そのまま洗脳班に送られ迫害され続けているのです。
ある日仕事を終え、私は刑務官Bさんと作業場から出て列の後ろを歩いている時、Bさんは真摯に私に話しました。「あなたはここから出て、二度とここに来ないでください。あなたはここの邪悪さをよく知っています」。私は「心に掛けていただいてありがとうございました。私はきっとここにはもう来ません」と話しました。
私が帰る日、刑務所の外まで送ってくれるのは別の刑務官になっていました。当日、刑務官Bさんを見かけたので、刑務所の外まで送っくれるようにお願いしました。Bさんは私の願いに応じて、荷物を持ってくれ、外に出ると私を迎えに来てくれた人に、「あなた達は清玉の今後を、どのように援助してあげるつもりですか?」と尋ねました。皆が「家に迎えて、帰ります」と答えると、Bさんは「清玉は転向に応じていないものの、他のことは、どの服役者よりもよく出来た人でした」と褒めてくれました。