文/米国西部の大法弟子 曦方
【明慧日本2017年10月31日】先週末、私は臓器狩りを停止させるためのパレードに参加し、途中である店の店長に出会ったとき、多くの質問をされました。彼に回答していたとき、彼は本当に真相を聞きたいのではなく、ずっと自分の見解を主張しているだけだと私は気づきました。時々、自分の言いたい言葉を差し込むために、私はやむを得ず彼の話を打ち切るしかありませんでした。それから私は思いました。もし彼がそんなに独りよがりでなく、人の言葉に耳を貸すことができたら、きっと貴重な真相を聞くことができたでしょう。しかし彼はずっと話を主導して、相手に話す機会を与えませんでした。
帰って来た後に考えたとき、私の修煉状態は彼の状態と同じではないかと突然意識しました。私は強い個性の持ち主で、普段、耳障りなことを聞いたらすぐかんしゃくを起こして相手を叱責し、年長者や上司と話すときでも礼儀をわきまえませんでした。その日、修煉の中で、向上を妨げる原因とは一体何だろうかと考えました。答えは、各種の観念と、とても強い自我、触れてはならず、変わることを拒否する自我だと思いました。ある日、そのような良くない観念や自我に対して発正念をしたとき、目の前に突然神韻公演で取り上げられた「康熙帝、政敵オボイを倒す」の中のオボイの顔が現れました。功績を鼻にかけたオボイの傲慢で専横な表情がはっきりと私の目の前に現れました。自分は彼のような人間だろうかと思い、私はとても驚きました。
周囲の同修たちも時々指摘して叱ってくれます。ある日、大紀元新聞社の営業部が朝礼をしたとき、近くに座っていた私は皆さんの発言が聞こえました。聞いているうちに、営業部のスタッフでない私が朝礼に入り込んで、あれこれと自分の意見を述べました。後日、ある同修は「よその部署が会議するときに割り込んで喋る人があなた以外にいますか? もう2回目ですよ」と注意してくれました。また、ある日の会議に私はとても厳しい口調で同修の皆さんを怒りました。事後、ある同修は私に「会議のとき、あなたの態度はまるで『社長の上の社長』のようでした。度を超えて自我が膨張しています。批判の目線を他の人にではなく、より多く自分に向けたらどうですか」と注意してくれました。
彼の言葉に私はとても驚きました。今まで自覚していないもう一つの自分に彼は気づかせてくれたからです。人間はどうして自慢が膨張するのでしょうか。それは即ち、自分を見るときには、いつも良いところを見ますが、相手を見るときには、いつも不足や欠点を見るからです。自分の「良いところ」をもって相手の「欠点」と比べ、その格差を見て自慢や傲慢さが生じ、ますます自分を持ち上げて、相手を踏みにじるのです。しかし、本当の修煉者はこうではなく、進んで自分の不足を探して、相手の良いところや善良な発想を見出すことができます。
この頃、万事においてトラブルが多いのです。例えば、職場では上司に怒られます。グループ学法をするとき、私はみんなの読み方をまるでリードするような読み方をするので、それを聞いてむかむかするという同修がいます。運転するときにエンジンの警告ライトがよく点灯します。天国楽団の練習にドラムを叩くときにリズム感を掴めなくて、自分はとても頭が悪いと思います。歩くときでさえ手が壁にぶつかります。ある種の上調子な物質が私を包んで、どんな事をしても落ち着いて専念することができない、と私は感じました。新唐人テレビ番組を制作する時、ナレーションをただ棒読みして、意味が理解できなくてストーリに溶け込むことができませんでした。職場では細かい問題点を一つ一つ着実に解決する忍耐力がなく、会話をするときに根気良く相手が話す内容を最後まで聞くことができません。ドラムの練習をするとき、いつも「だいたいで良いではないか、そこまで正確にならなくても」と思い、本当の基準に達するために努力したくありません。実は、それは即ち「自我」を変えることを拒んでおり、いつも相手や外部の環境を自分に合わせてほしいと思うことです。
それからは、喋ること、意見を出すことを控えるように自粛しました。自分が何も話さなくても、周囲の皆さんはどんな事でも支障なくうまく運営していることを私は発見しました。私が「ご意見番」をしなくなったら、かえってより多くの同修が全体の活動に参加し、それぞれの長所を発揮しています。
『轉法輪』にこのような言葉があります。「わたしの法身は直接法輪を植えつけることもできます。しかしわれわれは執着心を助長しません。あなたが人に動作を教える時、その人が突然『わたしにも法輪があった』と言えば、あなたは自分が植えつけたと思うかも知れませんが、それは違います。皆さんにこのことを話しているのは、その執着心を起こさせないためです。実はすべてわたしの法身がやっているのです。法輪大法の弟子は以上のように功を伝えるものです」。以前、ここを読むとき、ここでいう「あなた」は本当に馬鹿ものだ、どうして自分が植えつけたと思うのだろう、と私はよく思います。最近私が悟ったのは、実は多くのとき、私たちはある事の成功を自分の功労のように思っています。例えば、私が彼に〇〇を言ったから彼は〇〇のように変わったとか、私がこのように長年続けているから、事ははじめてこのような進展を遂げたとか。時には、私は同修たちに対して怒りっぽい態度になります。なぜでしょうか。その事は「この私」がやっているので、「私」が責任を持って仕切らないと誰も構ってくれないので、必ず〇〇のように進行しなければならない、と私は思っているからです。実は、すべては本当に師父がやっておられるのです。人間を根本から変えられるのは大法にほかなりません。自分はただ幸運にも大法の運行構造の中の一つの粒子にに過ぎないのです。