明慧法会|子供と一緒に歩んできた修煉の道
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文/黒竜江省の大法弟子

 【明慧日本2017年12月3日】

 慈悲で偉大なる師父、こんにちは!

 全世界の同修の皆さん、こんにちは!

 年に一度の明慧ネット中国大陸の大法弟子の法会がまた盛大に開催され、この機会を借りて、私と子供の修煉物語をお話ししたいと思います。

 法を得る

 1996年9月、私は妊娠6ヵ月で、同僚が法輪功を修煉しており、それは「真・善・忍」に基づいて良い人になるものだ、と聞きましたが、その時の私の精力は未来の子供のことに向けられていました。「社会の道徳が急速に低下し、人々の観念が絶えず変化している」と感じて困惑し、次の世代の教育に対して心配に満ち、誰の言うことを聞いたらよいのかわかりませんでした。そこで、次世代にどのように教育すればいいのか、その方法を至る所で探し、自分の子供は善良で楽観的でユーモアがあり、穏やかで上品であってほしいと願いました。私は多くの資料を探し、最終的にある一つのことを選定し、胎教から実践し始めることにしました。

 1997年7月、子供が生まれてから半年が経ったので、私は仕事を始め、ある日、人生の意義について同僚と討論していると、同僚は『轉法輪』を読むように私に勧めました。『論語』の中の「真・善・忍」という3文字を読んだ時、大海原の闇の中の誘導灯のように、3本の強い光が私の心底の最も深いところを照らし、心が喜びと光明に満ち溢れ、比類ないほど心が晴れ晴れとすっきりとし同時に、大法の法理を以って子供を教育すればいいのだ、ということが明らかになりました。

 幼稚園と我が家の様子

 1999年5月、子供を姉の家から迎えに行き、迎えに行ったその当日、子供を師父の写真の前に連れていき「この方は師父ですよ」と伝えました。2歳半の子供は、胸の前で小さな手で拳をにぎり、師父の写真の目の前で喜んで、腰を90度以上に曲げてから腰を伸ばし、再び腰を曲げました。その子供の可愛いしぐさを見て私は心から感動し、子供を師父に渡したくなりました。

 子供が家に来たその日から、師父の説法の録音を流し、この日から、家に入ったらまず録音機のスイッチを入れて師父の説法を流しました。私は自分のことで忙しくし、必要以上に子供に関わる必要はなく、子供は自分が遊びたいことをやり、生活の中で現実的に結びつくことに関してだけ、人としての道理を子供に伝えました。

 ある時、子供に「あなたは子供大法弟子ですから、譲り合わなければならないよ。幼稚園で、友達が怒ったり、機嫌が悪くなった時は、友達と争ってはいけないよ。友達の機嫌がよくなるまで待ってから、一緒に遊ぼうね」と言って聞かせました。夜、子供を迎えに行った時、子供は「お母さん、今日は我慢したよ、友達が大声でわめき叫んで怒っても、僕はニコニコしながら1人で遊んで、友達の機嫌がよくなってから一緒に遊んだんだ」。「いい子だね、正解ですよ『大人物は度量が大きい』と言うからね」と言うと、子供が「もう一言あるよ」。「それは何?」と聞くと、子供は「五行に居ず、三界を出る」[1]と言いました。これを聞いた私はポカンとして、さすがに子供との距離が、天地の差ほどになってしまったことに気づきました。

 子供が幼稚園に通っていたこの2年間に、先生はかつて「この子は素晴らしい、今、子供は一家に1人なのでみな甘やかされ、わがままですが、この子には同情する心があります。先生や友達が困っていると手伝いに行くのです」と千万無量(はかり知れない)の思いで言いました。ある時、授業参観があり、先生が授業中に黒板ふきを床に落としてしまうと、我が子は席から立ち上がって歩いて行き、黒板ふきを拾って先生に渡すと、直ちに席に戻りました。すると、ある父兄が「見て、この子はどれだけ先生におべっかをつかえるんでしょうね。バカで先生の歓心を招かない私たちの子供とは違うわね」と言いました。それを聞いた私はすぐ心の中で、「うちの子は元から善良なので、どうしておべっかなんか使うはずがないわ?!」と思いました。

 1999年7月に入ってから、江沢民の邪悪ピエロの害毒の下、大法と大法弟子に対する迫害が天地を覆い隠すかのようでした。ある日の夕食時、子供を見ながらしんみりと「ねえ、実際あなたにはわからないかもしれないけど、他の子よりずっと幸せなのよ」と独り言を言いました。すると、思いもしなかったことに、子供が椅子の上から降りて私の前まで歩いて来て、小さな手を私の手に押し当て「ママ、わかってるよ『常人我を知らず 我、玄中に在りて坐る 利欲の中に我無く 百年の後我独り』[2]でしょ」と、とてもまじめな顔で言いました。その時、私は涙が流れました。なぜなら、子供が師父の『洪吟』の中のこの詩を使って答えるとは、思ってもみなかったからです。

 子供は毎晩、ベッドで寝る前に私に『洪吟』と『精進要旨』を読ませます。読み終わっても寝ない時は繰り返し読み、眠るまで読みました。2001年、信仰のために不当に労働教養を科された私は、母に頼んで子供のために『洪吟』を読んでもらい、それでやっと子供は眠りました。そして、子供はすべて暗記した、と母は教えてくれました。

 小学校での出来事

 2003年の年末、労働教養所から戻ると、子供はちょうど小学1年生に上がったばかりでした。あれから3年近くが経っており、子供は基本的にもう学法していませんでしたが、大法は子供に幸せをもたらしていました。子供の善良さはクラスメイトや先生に影響を与え、班長を選ぶ時、クラスメイトはみな我が子を選び、我が子より票が少なかった女子のクラスメートが最後まで争いました。子供は女子のクラスメイトに譲ると言ったのですが、先生はやはり我が子を班長にしました。

 子供が小学校に通って半分学期が過ぎても、先生は父兄である私に会ったことはなく、「お子さんはこんなにすばらしいのに、両親は何をしているのだろうか?」と腑に落ちずにいました。労働教養から戻った後、また子供を連れて学法と煉功を始めました。そして、かつて先生は私に「今の子供はみな独断的で、自己心が強いのですが、このお子さんは素晴らしく、とても同情する心があります」。そして、先生は子供を抱きながら、「あなたが私の子供だったら、どんなによかったでしょうに」

 子供は小学校で重い傷を負いました。一度目は、クラスメイトに股間をけられてあざになり、股間が痛くなり、1週間でやっと治りました。二度目は、縄跳びをしていたクラスメイトに、首を縛られて引っ張られ、血が出て紫黒色になりました。しかし、子供は先生に告げず、先生にも相手の父兄にも会わないようにと私に言い、そして「クラスメイトはわざとやったわけじゃないからだよ」と言いました。

 5年生の1学期に保護者会があり、先生は「子供が教室でずっと勉強しています」と言い、それはつまり「クラスメイトと外に出て遊ばない」ということでした。子供に何か特別な事情があるのではないか、と先生は心配していました。家に帰って子供に尋ねると、「どうってことはないよ、校庭が狭いのに人が多いから、他の人を傷つけたくないし、僕も傷つけられたくないから外に出ないだけで、うまくいっているよ」と話してくれました。

 子供の中学生時代

 以前は子供が小さかったために、教育に対して詰め込み式の方法を行っていました。2008年9月、子供が中学校に上がったある日、私たちはあることで意見が合わず、私は絶えず子供を批判しました。子供は泣きながら「親はいつも正しくてミスがないので、僕が何を言っても無意味なんだ」と言いました。子供の納得しないその様子と話し方から、別の角度から物事を見なければならないことに気付きました。その結果、自分の独断や自己優位性、非難、親としての自尊とメンツなどの心の様態が見え、子供をしかりつけて泣かせていた時にすっきりとしたのですが、これはすべて魔性の現れでした。

 自分が間違っていることに気付きましたが、子供に対してどのように口を開けばいいのでしょうか? そこで「自分は大法弟子で彼も大法弟子であり、ともに修煉しているのだから、子供の前で私も自分を修めなければならない」と考えました。そこで、幾分申し訳なさそうに「あの、ごめんなさい、ママが悪かったわ、ママはこのようにすべきじゃなかった、間違っていました」と子供に謝りました。これは私が初めて子供に対して、誤りを正式に認めました。すると、子供はすぐに「ママ、僕も間違ってた、だから怒らないで」と答えました。私はすぐに内に向けて探し、自分を修める素晴らしさを感じました。たとえ我が子であろうと平等に自分を修めるべきであり、親だとお高くとまって「子供が間違っている」とひたすら咎(とが)めることは二度としなくなりました。

 子供は中学校に上がると、もう私にくっついて歩かなくなり、私が出かけても子供は家で留守番をするようになりました。中学1年の2学期、私はまた不当に連行され、留置場に半月拘禁されたので、子供は同修と協力して私の引き渡しを要求しました。留置場から戻った後、出かけて行って迫害された時の暗い影が、子供の心に深く残ってしまいました。そのために、子供の状態が悪化し、それによって抑えつけられました。当時、私も子供の感情をおろそかにしたので、自分の利己心に気付きませんでした。

 出かける時、私はいつも携帯電話を切り、電源を入れるとすぐに子供に電話するのですが、すると子供は間髪を入れずに、「ママ、どこにいるの?」と聞いてくるようになりました。そういう時は私はいつも答えずに、「そういうことを聞かないでって言ってるのに、なんで聞いてくるの?」と急いで子供に言いました。プレッシャーを感じた時はいつも、子供に正念を発するようにさせていました。その後、子供はだんだんと話したがらなくなり、外に出て遊びに行きたがらなくなりました。

 今振り返ってみると、あの頃は孤独、抑圧、失意などの多くのマイナスの感覚を子供にもたらしました。私が子供の立場にたって問題を考慮していなかったために、子供の感情を理解できず、ひたすら自分の角度から物事を考えていました。幸運にも、子供はずっと学法と修煉を続けていたので、師父の法身は子供を見守ってくださり、難しい少年時代を歩み切ることができました。

 子供の高校時代

 子供が高校に上がってから、子供の話に分別がついてきたようでした。私にも同じような感覚があり、高校生の我が子と対面して、押し付けることはだんだん少なくなり、何事も相談して交流し、意見の統一をみるようになりました。子供は生活の中で法に則って自分自身を律するようになったと気づきました。ある時のこと、具体的なことはよく覚えていませんが、別のクラスメイトのことを考えて子供が行ったことです。もし子供がそのことを話さなかったら、恩恵を受けたクラスメイトでさえ、子供がそのクラスメイトのために協力したことを知らなかったはずです。しかし、子供はそのことを言い出すこともなく、いつも通りにしていました。子供からその事を聞いた後、私の心は衝撃を受けました。私は「自分の修煉には目的があり、大法の素晴らしさを、大法弟子が実証しなければならない。それで、素晴らしい表現で他人に見せなければならない。子供のように人に知らせずにうまく行うことは、おそらく私にはできない。もしそのように行ったならば、どのようにその事を言い出せばいいのか、その方法を考えただろう」ということに気付きました。そして「自分のこの状態を正さなければならないし、実際そこにあるものは私心と有為のものである」ということを認識しました。

 高校2年の1学期、子供が1枚の賞状を持って帰りました。それは市の優秀青少年を評価するもので、政治状態について書き込む時、子供は少しためらったそうです。そこで私は「この賞状について意に介しますか?」と聞くと、子供は「珍しいものではないので、どうでもいい」。そこで私は「私たちは入党していませんから、政治について書き込むことはせずに、ただ何も書かずにおけばいいだけで、共産党が優秀だ、なんて言わないことが肝心です」。しばらくして、私はこの事を振り返って「やはり間違っている、私たちは大法を学ぶ者なのだから最も素晴らしい人間であり、最も優秀であるので、常人とは誰も比べることができない。それなのに、どうしてこの証書をもらわなければならないだろうか?」と思いました。そこで「私たちは大法弟子であるから最も優秀であり、認可を受けるべきだが、認可を受けることは共青団員であるかどうかとは全く関係がない」という一念を発しようと決めました。そして、子供は賞状を学校に返すと、期末時に、賞状が戻されました。賞状を持ちながら子供は、その時は実際、少しプレッシャーがあり賞状を返した時の教務主任が、「中学校の時に入団しなかったのか」と聞いてきた、と言いました。そこで、子供は「入団していません、高校でも入団していません」と答えたということでした。

 小学校から高校まで、学習において、すべての先生の子供に対する評価は「授業中の集中力は相当なものだ」というものでした。そうです、なぜなら学法と煉功をしなければならないので、時間はいつも限られており、子供は授業の後に宿題を終わらせますが、ほとんど教科書を見ずに終わらせ、さらにいつもは宿題は学校で出来るだけ済ませ、基本的に徹夜などはしませんでした。人柄においては、先生もクラスメイトも父兄達からも評判がよく、みんなが善良で寛容だと言ってくれました。子供は1年早く高校を卒業し、理想とする大学に進学しました。先生は非常に別れを惜しみ、クラスメイトと父兄たちも、「どの子供も彼とは比べ物にならない」と言い、「彼は学習においても、人柄においても一番だ」と評価してくれました。

 大学時代

 子供は大学に通い、私から離れてしまったので、私たちは休暇の時だけしか、学法や交流ができませんでした。ある休暇の時に「車を買いましょう」と私が言うと、子供が大学に通っている場所で社会的なイベントがあり、抽選をすると乗用車が当たり、正午になって車を取りに来るようにという電話がありました。子供が「いりません」と言うと、これが詐欺なのではないか心配しているのではないか、と相手が勘違いし「弁護士の公正証書があります」と言って、安心させようとしました。しかし、子供がやはり「いりません」と言うと、今度は相手が「本当に車がいらないなら、現金に換えられますよ」と言いましたが、子供はやはり「いりません」と断りました。すると、相手が驚いて「どうしてですか?」と聞かれ、「信仰があるからです」と答えました。すると、相手は申し訳なさそうに電話を切ったというのです。子供は午後になってから、いくらか利益心が湧いてきて、長いこと邪魔されていました。一方私の方はというと、迫害されたので家計は苦しく、車を買ったり、家を買ったりするお金は全くありませんでした。ただで車がもらえるというこの利益に対しては、実に、とても、とても誘惑的で魅力的なものでした。

 それを聞いて、私の心は大いに動かされ「その車はいるでしょう、大法のために使えばいいのですから」と言うと、子供は「言うだけなら簡単ですが、その後のことが厄介です」と言い、「大法のために使うと言いますが、どのように使うのですか?」と逆に聞かれました。さらに「師父は『このような不義の財をもらうと、どれだけ徳を失うことになるだろうか?』[1]とも説かれていますよ。細かく探していけば、そこにはやはり人心があるのだと思います」と返って諭されました。私が自分の心の内に向けて探すと、実際その通りで、本当に利益心と欲張りな心が存在していました。

 私はずっと「子供は中学の時から内向的になり、表に出たがらず、私と一緒に学法したがらず、さらには、グループの同修と一緒に学法することなど言わずもがなでした。また、真相を伝え人を救うことも行っていない」と思っていました。ところが私は「自分はいつも子供に人より抜きん出て祖先の名を上げてほしいと願い、何でもできて執着心も放下できることを子供に願いました。そうすれば常人としては自分の面目が立ち、修煉者としてはとても精進していることになり、そうなれば自分の面目もとても立つようになるなどと願っていました。しかし実際、それは名を求める強烈な心が自分にあるために、それに左右されていたのです。私の願いとは裏腹に子供の怠惰な様子を見ると、向上を求めていない様子に見えたのでつい怒り出し、批難してしまい、いつも子供にクドクド言い、時には言い争ってしまうことも、しばしばあった」ということに気付かされました。

 ある時、休暇があけて学校に帰る前に子供をひどく急がせていると、私には多くの不足があり、例えば師と法を信じておらず、師と法を敬っておらず、修煉がよく出来ておらず、利己的で自分を修めておらず、自我を押し通し内に向かって探さないなどと、子供から言われました。子供が出かけた後、子供の様子を思い出し「これは師父が子供の口を借りて私に言ったのであるから、本当にしっかりと内に向けて探し、着実に修め、二度とぼんやりしてはならない」と思いました。すると明らかに子供と交流したくなり、「個人修煉の小さな枠にはまらず、使命を担わなければならない」と伝えたくなりました。その結果、本当に自分を反省するように促され、本当に内に向けて探し始め、それは落ち着いて自分を修める過程でもありました。そして、すでに青年になったこの同修に対して、私は本当に心から感激しました。

 私と我が子の間にある小さな物語はとても多く、というのも、私たちは相伴って修煉の道を歩んできたからです。私たちの間には常人の言葉は多くなく、話はほとんどが修煉中における交流でした。子供は大きくなると、私が常人の心で話をすると、二の句を告げる前に私の話を聞かなくなり、「もう話さないで」と言って、私の人心が出てきたことを明示しました。もし本当に何も話す事がない時は、静かにじっとしている方がいいと思い、何も話す必要はないと感じているようでした。以前、私は人心を以って我が子にこうあってほしいとか、ああなってほしいとか希望していましたが、今はどこにいても我が子に関わらず、何事も信じています。なぜなら、大法により立派に成長し、心の中に法があり、師父がいらっしゃるからです!!

 この同修を私に授けてくださったことに、師父に限りなく感謝申し上げ、行き届いたご加護と済度に、師父に限りなく感謝申し上げます!

 再度、師父に感謝申し上げます!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「覚者」

 (明慧ネット第14回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/15/356187.html)
 
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