新唐人テレビ局での修煉体験
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文/ドイツの大法弟子

 【明慧日本2018年2月23日】尊敬する師父、こんにちは。同修の皆さん、こんにちは。

 周囲からの意見をどう受け止める

 私は2001年年末にドイツで法輪大法と出会いました。2004年、偶然に新唐人テレビ局に入りました。修煉する前、私は内気な性格で、口数が少なく人の多い所が好きでなく、友達もいないし、一人で静かにいるのが好きでした。新唐人テレビ局に入って、なぜか私はニュースキャスターに選ばれました。私は自分の外見に自信がなく、同修や視聴者にああだこうだと議論されるのも嫌で、テレビに映る仕事に心の底から抵抗していました。しかし管理層がそう決めた以上に、自我を放下して服従すべきと私は思いました。

 最初は経験がなく、多くの同修がいろいろな意見を寄せてきました。最初のころ、私は謙虚に意見を受け止めたのですが、しかしだんだんと困惑して、「みんな、誰もエキスパートではないのに、どうしてこんなにアドバイスや意見が多いのですか」と主人に愚痴りました。主人は冗談で「プロやエキスパートでないと、あなたに意見を言う資格がないようだね」と言いました。

 内に向けて探すと、自分の度量がまだまだ小さく、心の容量を大きくして、いろいろな意見を平然と包容することが正しいと分かりました。もう一つ、多くの意見に困惑させられた原因は、自分に自信がないからと分かりました。どうして自信がないのかというと、自我に、名に執着していろいろ考えすぎ、配慮しすぎるからだと思いました。

 今の仕事をやっているのは衆生を救い済度するためで、自分の名や私的な目的のためでないなら、基準に従って努力すれば良いので、周囲がいろいろ言ってきたのは、実は私の心性に対する一種の試練で、私の心がどう動くかを見るためだと分かりました。それを意識してから、周囲の意見に心を動かされなくなると、次第に周囲の皆さんはあまり言ってこなくなりました。

 転んでもまた這い上がる

 ある日、番組の中で人の名前を読み間違え、その後の放送を見た時に気づきました。どうしてこんなに大きなミスを犯したのか、視聴者はそのため新唐人テレビ局のレベルを低く見るのではないか、と私は自分の過ちを深く責めました。ディレクターと交流すると、意外にも彼女は私を責めたりせずに、かえって自分の不足を探して私に謝りました。実は、私のミスは彼女とは少しも関係がなく、私は彼女の修煉者の善に驚いて感動し、また自分と彼女の心性の差に気づきました。私ならきっとまずミスを犯した相手を指摘して、自分の不足を探すのを二の次に置くに違いありませんでした。

 彼女との交流を通じて、私はまた今まで意識していなかった一つの執着を見出しました。それはつまり自分の過ちを過度に責めることです。

 師父は「良く行わなくても大丈夫です。次回良く行えばいいのです。原因がどこにあるのか探してみます。皆さんは修煉の中である突出した現れがあります。つまり、何かを良く行うことができなければ、終わった後、後悔ばかりし、新たに行うことを知らないのです。後悔しすぎるとまた執着になります。間違ったら、どこが間違ったかを見て、分かれば、次回それを良く行い、新たに行えばいいのです。転んだらいつも転んだままにしています。(皆笑って) 起き上がらなければいけません」 [1]とおっしゃいました。

 私はよく小さいミス、例えば字幕を間違えたとか、或いは適当でない画像を使ったなどのために、その後、長い期間マイナスの情緒に陥りました。自分の性格が完璧主義者だと今まで思っていましたが、実はいわゆる性格も後天のもので、一種の観念に過ぎないと私は考えました。それを悟ってから、私は楽になり、以前の息が詰まりそうな感覚から解放されました。

 損得を気にかける心を除去する

 中国に関する特定のテーマのニュースは、素材(写真、画像、現場インタビューなど)がないため、作るのはたいへん苦労します。チームメンバーはヨーロッパ各地に散在するため、協調することもコミュニケーションを取ることも一苦労します。また、視聴率が計算できないし視聴者のフィード・バックももらえないので、これほど時間をかけて、本当にやる価値があるかと私は時々動揺しました。番組が大きい困難に遭ったとき、止めようか、ここを離れてほかの番組に乗り換えようかと、私は何度もぐらつきました。ほかの番組の製作も決して楽ではないと分かっていますが、しかしあれは繊細に磨いて、最後に優れた逸品を完成する感じで、やり甲斐をきっと感じるだろう、一方、ニュース部はただただ毎日時間に追われて、忙しく走り回るだけだと私はよく思いました。実はその時の考えはまるで『西遊記』の中の猪八戒と同じです。目の前の損得に心を奪われて、困難に遭ったらすぐ諦めて、故郷に帰ろうとする猪八戒と、同じではありませんか? まさか自分は猪八戒と同じレベルだろうか? 損得に執着する心を意識してから、以下に述べる出来事が起きるまで、なかなかきれいに除去できませんでした。

 ある日、休暇を取る同修Aさんの代わりに私はニュースの製作をしました。ずっと前に彼女にそのように頼まれたので、当日私は彼女に再確認をしませんでした。その日、ニュースを作り終わってアップロードをしようとしたところに、突然、休暇を取ったはずのAさんがシステムに書いた「アップロードした」というメッセージが目に入りました。おかしいと思って私は「どうしたのか? あなたは今日休むんじゃなかったですか」と聞くと、Aさんは何かを思い出したように「ごめん、用事がなくなったので今日は休まなくても済んだ、あなたに言い忘れました」と謝ってくれました。

 これは、どういうこと? 2人が同時に多くの時間をかけてダブった仕事をしたなんて・・・、これは私の貴重な時間をもてあそんだのではないかと私はとても腹が立ちました。番組の編集者もどうしたら良いか迷って、編集長に聞きに行きました。編集長は私とAさんに「誰のものを使うのですか」と聞きました。その瞬間、なんと時間が何かの力によって遅らせたと切実に感じて、その瞬間に私は多くのことを考えることができました。これは自分に対する一種の試練に違いないと私は分かっていました。誰のものを使っても番組にとって差はないのす。もし私が「Aさんのものを使ってください」と回答したら、間違いなく彼女のものを使うことになります。それなら、今日の数時間の作業は無駄になります。しかし、これは損得に対する執着ではありませんか。それを取り除くことを私は決心したのではありませんか? そこで私は「Aさんのものを使ってください」と答えました。その答えは真心から出たもので、メンツのための表向きの社交辞令ではありませんでした。それを言ったと同時に、その執着心が取り除かれたと分かり、私は嬉し涙をこぼしました。

 仕事の中で修煉を成し遂げる

 ニュース部の仕事は毎日が時間との戦いで、特に番組が放送される前の数時間は分刻みどころか、秒刻みで計算されます。私は一人で録画設備を操作するため、録画する際に、照明以外の設備が正常に作動しているかどうかが見えません。もし録画し終わってから設備の故障を発見したら、録画をやり直すしかありません。放送時間が迫ってきて私は焦ります。毎日時間に追われると同時にあれこれと心配して、とても疲れます。ある日、同修と交流するとき、私は「毎回、番組を作るのは戦場に行くのと同じく、問題が出るのをとても恐れます。仕事がすべて終わらないとほっとできません」と言うと、同修は「あなたはニュース番組の質のために心配しているのか、それともミスが自分によって起こされることを恐れていますか」と聞き返しました。

 もちろん、番組自身に間違いが起こらないことを願っており、それは最低限度の責任感です。しかしそれよりも、自分が原因でミスが発生しないようにと願う気持ちはもっと強いのではないかと気づきました。その二者にはとても大きな違いがあると今まで私はしっかり考えたことがありませんでした。同じ過ちでも、もし自分が犯したのでなければ、大したことはないだろうと思えますが、もし自分が犯したのであれば、とても落ち込みます。どうして同じ過ちに対して自分の見方はこれほど差があるのでしょうか。「責任感」の裏に、私のどんな執着が隠れているのでしょうか? じっくり考えると、それはつまり自我と名に対する執着だと分かりました。

 設備、ソフトウェアやネット接続に問題が出る場合、私は自分のせいではない、設備の原因なのだといつも思います。しかし、設備やソフトウェアやネットは私の空間場に存在するもので、それらに故障が出た場合、自分の修煉に問題がないかを今まで私は一度も考えたことがありません。

 また、同修の不足を見たら、助ける手を差し伸べますが、時々心の中で不満を感じます。他人の不足を目にしたときに自分の不足を探すことを忘れています。本当の善と慈悲は無条件なもので、それはとても自然な状態で、私はまだその状態に達していません。

 番組の製作に携わった以上、毎日常人社会の情報や映像を多く見て、関心を寄せていなければなりません。自分が何のためにそんなことをやっているかを忘れたら、仕事そのものの中に陥って、常人が仕事をすることになってしまいそうです。この原稿を書く中で、私は自分のいろいろな執着心に気づいて、とても恥ずかしくなりました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』

 (2017年ヨーロッパ法会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/10/5/355090.html)
 
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