明慧法会|青年大法弟子が修煉して20年、いつも師父の慈悲なるご加護を受ける
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文/山東省の大法弟子

 【明慧日本2018年2月26日】

 尊敬する師父、こんにちは!

 同修の皆さん、こんにちは!

 私は1997年12歳の時に修煉を始め、今年で32歳です。以下では、私のいくつかの修煉体験と感じたことをここに書いて、師父にご報告するとともに、同修の皆さんと分かち合いたいと思います。

 母が救われ、家族が喜びいっぱいに修煉を始める

 私は小さい頃から片親の家庭で育ち、両親は私が3歳の時に離婚したので、母親と祖母と3人で暮らしていました。その頃、母親は昼間市場で物を売ってお金を稼いで家族を養い、祖母が一手に私を育ててくれました。このように、私たち3人の暮らしは互いを頼りに生きていました。

 日一日と時が過ぎていき、母親の収入は楽観的にみると、家庭の全ての支出を維持するのには十分でした。しかし、私が8歳の年に臆病な母親は一度、仕入れに出た際にどろぼうに取り囲まれ、驚きのあまり戻ってから大病を患ってしまいました。

 医者に診てもらうと「神経性のものなので治しようがない」ということで、その後、病状がひどいと母親は寝たきりになってしまい、生活は自活できず死に瀕するところまで落ちてしまいました。母親はさらに、天命がまだ尽きていないうちから自分の葬式のことまでいいつけ、私をおじに頼み(その頃、祖母は齢を重ねていた)、私を必ず養ってくれるよう頼みました。これはまさに青天の霹靂(へきれき)のようなもので、家族全員がこの事実を受け入れることができませんでした。母親の友人はこれを聞きつけて私の家に来て、母親に気功を練習するように勧め、このようにして母親は4年間気功を学びました。その間、病状は静まりましたが一進一退で、知らない間にまた発作を起こし、病気が治ることはありませんでした。

 ある時、偶然のきっかけで大叔母が家にやって来て、母親に法輪功を勧め「法輪功は病気治療と健康保持に不思議な効果があるのよ」と言いましたが、母親はそれを聞き入れず「そんなに不思議なことはあり得ない」と思いました。そして、大叔母は母親の態度を見て、母親に「あなたのお母さんは病を患っているので、煉功動作を教えますからおばさんに煉功を教えてください」と言いました。そして、師父の説法の録音テープを一式母親に渡しました。その時、大叔母は70歳近くの人で、わざわざ私たちの家まで来てくれたので、母親はしゃくに感じましたがしぶしぶ承知し、その場で大叔母から法輪功の煉功動作を習いました。

 誰もが予想しなかったことに、母親が煉功の動作を行うと体が心地よくなり、これは師父が説かれた縁のある人かもしれません。このようにして、母親は大法修煉に入りました。始めるとすぐに煉功しながら師父の説法の録音テープを聞くようになり「私は真の修煉者の体を浄化します」のところまで聞いた時、それに対して、母親は「師父、私は師父の真の弟子になります」と言い、母親のこの一念で、7日目になって奇跡が起こり、母親の病状が全部なくなり、体が心地よいと感じ、無病で全身が軽い感じをはっきりと体得したそうです。

 そして、母親が煉功して数日後、女性向け身体検査の時、子宮に大きな腫瘍が見つかりました。しかし、不思議だったのは煉功して4カ月と1週間後、母親は子宮の大きな腫瘍が取れていることを自分の目で見て、体にも異様な感じがなくなりました。法輪功は本当に見事で、母親はうれしくて大声で泣きました。大法に対しても、師父に対しても、このご恩は本当に人間の言葉では言い表すことができません。

 このようにして、私とおばも相次いで大法修煉に入りました。修煉する前、おばの体はとても悪く、長年薬を飲んでいました。修煉を始めたばかりの頃、おばは薬を飲み続けており、薬を飲みながら功を学んでいました。おばは法を勉強してゆっくりと認識し始め、ある日突然、おばは家の中の薬を全部片付け、修煉していない人にあげました。それから以後、心臓病、関節リウマチ、高血圧、腎臓病がすべてよくなり、おばは一粒の薬も飲まなくなりました。

 私が修煉を始めた年は12歳の時で、考え方は比較的単純でした。大法を学んで何が得られるのかなど考えたこともなく、最初の印象は「この法は素晴らしいので、学んでいこう」と感じただけです。しかし、法を勉強して「自分の心性を要求して厳格に修煉しなければならず、何事にも常に真・善・忍に従って自分を厳しく律し、何事もまず人のことを優先に考えなければならない」とわかりました。そして「大法を学んだ後、成績がうなぎ上りで、クラスで『中の上』の成績から学年で2番目の成績になる」とは思いもしませんでした。さらに、私は小さい時から病気があり、朝ご飯を食べるとお腹が痛くなり、また、先天性の口臭があり、春秋の季節になると唇が荒れましたが、すべて気付かないうちに治りました。特に、遺伝的に白髪交じりの頭髪で、小学校に入学した時にすでに頭の白髪まじりの髪は特に多く、たいへん目につき、誰が見ても黒マメとクロゴマを食べさせようとし「必ず効果があるから」と言われました。しかし、大法を学んだ後、白髪は思いがけず奇跡的に消失し、これは思ってもいなかったことでした。さらに、頭が痛くなることや胃が悪いことも、大法を修めてからすべてよくなりました。そして、師父が説法の中でおっしゃった「求めずに自ずから得る」[1]を立証しました。

 正念正行で、師父が安排してくださった道を歩んで行く

 2008年のオリンピックの期間中、地元の同修が大がかりに不当に連行され、私の家の資料拠点も破壊され、母親はその場で抜け出しましたが、人質として私が警察署に連行されました。その時、私は22歳でした。すぐに私は心がグラグラし恐れる心が重くなり、警官がとても勢いをふるいました。警官たちが何を聞いても私は何も答えず、表面上はわが身を顧みていないように見えましたが、その時は自分の闘争心によるものだとは気付かず、警官たちの悪い面を引き起こしてしまいました。結果、刑務所に入れられてから2日目、警官たちは私に手錠と足かせをはめ、警察署長が自らスタンガンで私の耳や唇などの敏感な部位を感電させました。そして、私を独房に拘禁して鉄の椅子に座らせて眠らせず、両手と両足をつかまれて動きがとれませんでした。

 その間ずっと、警官たちは交代で私を取り調べ「プリンターや資料はどこから持って来たのか、いつも誰と連絡を取っているのか」と聞いてきました。しかし私は「誰のことも口に出すわけにはいかない」と思いました。そして同時に、正念を発しながら内に向けて探すと、正念が絶えず強化されていくに従って、他の空間の邪悪がとても少なくなっていくのを感じ、環境もそれに伴って改善し、警官もそんなに勢いをふるえなくなり、さらに、警官の多くがその態度を変えてきました。

 恐らく私は警官たちよりも年少で、その後、何人もの警官が、私が生死を恐れていないのでとても敬服している、と言いました。そこで私は「そうです、大法は素晴らしくて正しいので、大法を学ぶことは間違っておらず、私たちは宇宙で最も正の生命であり、師父がいて大法があるので、何も恐れないのだ」と思いました。まさに師父が説かれた「大覚は苦を畏れず 意思は金剛より鋳られる 生死に執着無く 坦坦たり正法の路」[2]のようでした。

 その時、私は本当に生死を放下しており、その期間に起きたある出来事が印象的で、ごろつきのような警官が何回も私に悪いことを行いました。最もひどい時は私を「上大掛(訳注:足が地面に着かないように吊るし上げる)」しました。両方の手首を別々に両側の壁の鉄鎖につなぎ、腕を高くあげられたので、身動きが取れませんでした。その警官は私に傷ができるのを恐れ、役に立たなくなった私のタオルを両手の腕の所に敷きましたが、そのタオルは特別に硬く針に刺されたかのようで、数分後、痛みがひどくなってきました。加えてその時、私はすでに連日連夜目を閉じて眠っていなかったので、目を閉じるとすぐに眠りましたが、体がぐらっとして目が覚めました。長時間鉄の椅子に座らされていたために、足と腿(もも)はすでにひどく腫れ上がり、靴も破れていました。時は刻一刻と過ぎ去り、どれくらい時間が過ぎ去ったかわかりませんが、その時、私に暴力をふるったこれらの警官に対し恨みは全くなく、逆にこの警官がかわいそうになり、これらの警官も中国共産党の毒害を受けた生命であるので、真心から警官のことを思いました。私がこの一念を発した時、警官の態度が180度大きく変化し、すぐに私を下ろし、さらに、高い腰掛を探して来て私の足をその上に置いて休ませました。その時、私ははじめて善の力をはっきりと感じ、その後、その警官は自分から法輪功は素晴らしいと認めるようになりました。

 警察署に不当に拘禁されていた7日7晩の間、ほとんど目を閉じて眠っていませんでした。その時、私はまだ、旧勢力の全ての按排を全面的に否定すべきであることを知りませんでした。その間、私は同修のことを口に出さず、警官に供述してすべてのことを自分が引き受け、このようにしていると、すぐにまた留置場に移されました。

 留置場に来てから多くの同修と知り合い、同修たちは多く正念を発し、多く法を暗記するように教えてもらい、これで私はピンときました。そうです、ここは私が留まる場所ではないので、正念で出て行こうと思いました。毎日、食事と睡眠の時間以外、余った大部分の時間は同修たちと集団で法を暗記し、正念を発し、煉功しました。私を驚かせたのは家で法を暗記したことがなく、留置場内では同修と法を学びながら暗記しましたが、暗記するのが特別速かったことです。特に「主意識を強くもつべし」[3]の1章節については、同修が1、2回覚えるのを聞いた後、熟練して暗記し、さらに、同修が暗記した前面の一句と後面の一句をつないで頭の中に入れました。その時、私はとても感動し、師父が私を助けてくださり、励ましてくださっているとわかりました。

 法を多く暗記するに従って、ここを出て行こうと認識し始めたので、四六時中、正念で旧勢力の按排を否定し、師父が安排してくださった道だけを歩んで行くため、私の以前の供述も含めて認めるわけにはいきませんでした。これを認識し実行するため、受刑者の要求に対して私は協力せず、朝の体操や、検査に対処するために豆腐型に布団を畳む要求さえも協力せず、なぜなら私は受刑者ではないからです。ある時、上級部門が検査に来たため、全員が囚人服を着るように要求されました。なぜなら大法弟子はふだん囚人服を着ていなかったからです。そこで、私たちは一緒に切磋琢磨し「囚人服を着ることはできない」と考え、このようにして全員が「誰も囚人服を着ない」と約束しました。しかし、検査のその日になると、監視室の責任者が少し口を開くと皆すぐに囚人服を着始めたので、私は心配になりました。最後に囚人服を着ていないのは自分だけになってしまい、すぐに矛先が私1人に向けられました。しかし、私はやはり囚人服を最後まで着ずに頑張っていましたが、結局、ほおを強く打たれました。その後、同修たちは自分の過ちを責め咎め、自分がきちんとできなかったので私1人が請け負うことになってしまった、と言いました。しかし、私は同修のことをまったく恨まず、同修たちがこれからしっかり行えることを心から願いました。そして私は「旧勢力の按排を一つ一つ否定していって、はじめて師父が按排してくださった道を歩むことができる」と悟りました。まさに私が夢の中で見たように、初めは草木が1本も生えていなかった土地がすぐに緑つややかな草地に変わり、活力に満ちあふれました。私が正しく行ったということを師父が教えてくださったのだ、とわかりました。

 さらにある時、また上級部門が検査にやって来て、私たちは臨時に監房(ふだんは重い刑罰に処された受刑者のいるところに拘禁されていた)を変わるように要求されました。しかし、私たちは同意せず、同修たちは「今回は必ずしっかりやる」と言いました。そして、皆の心が揃い誰も動かず、監房の責任者が私たちを動かそうとしましたがしばらく経っても少しも効果がないため、その後、数人の男性警官を呼んで来て、私たちを引きずり出そうとしましたので、私は心の中で師父にお願いしました。警官たちを見ると2人1組になっており、1人が私たちを引っ張りながら、もう1人が腕を持って引きずりながら歩いて行きました。私はできる限りを尽くして全力で一生懸命刃向かいましたが、男性警官の力には勝てず、引きずって行かれ床に強く投げ出されました。私が床に倒れた瞬間、その場にいた受刑者がおびえて泣き出しました。というのも、私の頭がベッドサイドテーブルの角に密着して倒れたのを見たからです。さらに、別の同修が引っ張られていた時、体が震えだしたので警官もおびえだし、この時、私たちの監房にいた女性受刑者が「早く彼女たちを戻しましょう、さもなければ、絶食して抗議しますよ」と監房の責任者に言うのが聞こえました。その時、私たちはまったく絶食のことなど考えていませんでした。そしてそれほど経たないうちに知らせが届き、私たちは元の監房に戻されました。そして私は「他の空間では正邪の大戦が始まっており、私たちが正しく歩んだので師父が私たちのために難を解消してくださったのだ」ということがわかりました。

 その後、私が濡れ衣(ぬれぎぬ)を着せられた案件は公安局と検察庁に送られ、公安局と検察庁は一つ一つ私に質問しましたが、私は全面的に否定し、さらに、公安局と検察庁に大法の真相を伝え、刑務所で受けた迫害についても伝えました。公安局と検察庁は一つ一つ記録を取り、検察庁の担当者は私の話を聞いても警察署での暴行が信じがたい様子だったので、私は本当のことを話しました。「もしこれが私の体験でなかったなら、私も信じられないと思います。大法弟子はみな善良な人たちです。だから、自分の一時の功名利禄のために悪行の限りを尽くし、自分の未来を葬り去らないようにしてください。やはり悪事を行っている刑務所の警官たちにも私はお勧めします。なぜなら、他人を大切にするということは、自分をも大切にすることだからです」と伝えました。

 留置場に拘禁されて5カ月と9日後、私は釈放されました。表面上は家族がツテを求めて私を救い出したように見えましたが、私は自分の心の中で「誰の言うことも正しくなく、すべては師父のおっしゃるとおりになるのであり、私が正しい道を歩いているのを師父がご覧になり、私を魔窟の留置場から救い出してくださったのだ」とわかっていました。

 仕事をしている中で「多様な才能を持つ人材」となり、法を実証する

 留置場から帰った後、2009年の初めに私は外に出て仕事を探し始めました。すると初めからどこでも行き詰まり、続けざまにいくつも仕事を変え、賃金がかわいそうなほど低いのは言うまでもなく、全く自分に適していませんでした。ある時、販売の仕事に応じるために、会社の社長が自ら面接を行い、面接の時にいくつか質問されました。ある質問の印象が最も深く「家には誰がいますか」と質問されたので、私は「片親の家庭で、母と一緒に生活しています」と事実を率直に話しました。すると、社長は遠慮なく「片親の家庭で育った子供はコミュニケーションを理解できず、さらに複雑な人間関係を処理できない」と言いました。明らかに社長はきっぱりと私を否決しており、私が営業の仕事に向いていないと思ったようでした。その時、その社長の言葉を聞いて、心中極めて不愉快になりました。なにしろ、出身や家庭によって自分自身が選ぶことができないからです。さらに、家に帰ると、母親も私に向かって愚痴を言い、私が仕事を探すことで悩んでいる、と言い「ツテがないのは問題ないはずだ」と言われました。突然、私のプレッシャーは特別大きくなりました。しかし、私は修煉者なので師父を思い出し、師父の写真の前で師父に香を捧げ、心の中で師父に「私の仕事はすべて師父がお決めになることです。どうか按排してください」とお願いしました。

 その後ある時、偶然のチャンスが訪れ、私は今の社長に出会い、私たちはほとんど肩をかすめて通り過ぎてしまうところでした。その日、仕事の募集の面接から出て来て、ちょうど階下に行こうとしていたのですが、正面から来た人に呼び止められ、開口一番に、仕事を探しているのか、と聞かれました。こうして順調に今の仕事が見つかり、仕事を始めてから8年近くなりましたが、大法の不思議さも仕事をする中で数多く現れてきました。

 思いがけないことに、私の今の仕事は営業で、ただ営業の仕事をしているだけでなく営業の仕事で成功しました。本当のことを話すと、最初、私が営業の仕事を始めた時は心細く、環境の影響を受けたことは確かに大きな原因でした。小さい時から内向的な人間で話をするのが好きではなく、小さい時は授業で問題に答える時も緊張して、ぜんそくで息が切れてしまうのも障害でした。しかし、大法を学んだ後は性格もとても明るくなり、話をすることも多くなりましたが、業務を行うには口上手であることが要求されるので、まったく自信がありませんでした。しかし、営業の仕事を始めてみると、普段は主に電話で得意先と連絡を取り、営業を行いました。不思議なことに、電話で話す度に私の思惟は明白になり、とても速く得意先にすらすらと応答できました。

 仕事の上で、私は真・善・忍に従って自分を厳しく律し、心からすべての得意先に対処しました。大法から私は「よい営業とは、自分がいかに多くお金を稼ぐかを考えるのではなく、得意先の立場に立ってどのように安上がりにできるのかを考えることだ」と悟りました。取引を行っていくうちに、得意先は私を信任し、取引をして私から商品を買いたがるようになりました。私が責任者となっていたのは会社の主力製品で、私が会社に行き始めたばかりの頃、2本の生産ラインはただ1本が動き始めていただけです。生産高は低かったにもかかわらず、いつも「売れ行きが悪い」現象が現れ、時には在庫品が多くてしょうがなくなり、生産を停止して休みにしなければならず、会社にとっての損害が大きかったのです。そして、私が引き継いた後は2本の生産ラインがだんだんと動き始め、生産高も前より倍近くに増加しました。そして、設備の検査と修理、および新年の休みなどの特殊な状況以外、製品の売れ行きが悪くならず、生産を停止したことはありませんでした。私はこれが大法の恩恵であったことがわかっており、もし大法を学んでいなければ、前にあの社長が言ったように、私の従来からの条件によって本当に営業の仕事に少し合わなかったかもしれません。

 私たちの会社では作業分担が不明確で、営業以外に私は部分的に証明書の仕事の責任者でもあります。ある期間、信用状の仕事が特に多く、バングラデシュに輸出する商品で、対外貿易の仕事をしている者はみな知っているのですが、バングラデシュの信用状は特別煩わしく、要求された証明書が特に多かったのです。私は初めての業務で、その間、ずっと得意先との意思疎通をはかり、やり方がわからなかったので、得意先がどのように行えば良いかを教えてくれました。そして、銀行へ信用状を持って行った時、データ審査の担当者は、「信用状をこんなにも完璧に行った人を初めて見た」と言われ、私のまじめさを褒めました。というのも、信用状の漏れがほとんどありませんでした。そして私は「これは大法から授けられた知恵だ」とわかっていました。会社では私を「多様な才能を持つ人材」と呼び、何か解けない難題があるとみんな私の所に相談に来ました。というのも、私の所に来さえすればほとんどの問題が解決されたからです。

 大法は私の性格を再生してくださり、口下手な人間をセールスの達人に変えてくださり、社長に「得難い人材」と言われるようにまでなり、仕事をしている中でどこでも大法の素晴らしさを証明しました。

 仕事をしている中で真相を伝え、衆生を救う

 私の職場は真相を伝え、三退を勧める場所でした。仕事の関係で、私が最も多く接触するのは荷物を積む運転手たちです。真相を伝える前はいつもまず「他空間からの私が真相を伝えることを妨害するすべての邪悪な生命と要素を取り除き、すべては師父にお任せします」と空間場をきれいに整理し、強い一念を発してから運転手に真相を伝えました。通常、私は積極的に進み出て運転手と話をし「車の運転は何時間ぐらいですか」と尋ね「大変でしょう」と相手をねぎらい挨拶しました。運転手との関係を近づけてから「運転手の皆さんは運転の安全が最も重要ですから、平安を保てるよい方法を教えましょう。『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』と覚えてください、神は絶対にあなたを見守りますよ」と話を続けました。私の話を聞くと多くの運転手が喜んで返答し、感謝しました。時間の長短によって、的確に「天安門焼身自殺事件」を伝え「法輪大法は世界100以上の国および地域に伝わり広まっている」ことなども伝えました。

 初めは、自分の恐れる心と不安な心のために三退を勧められず、職場で万一相手が私の話を聞いて同意せず、さらにそのことを同僚に話したら、他の同僚の大法への考え方に影響するのではないか、と感じていたからです。しかしその後、私はこの心に気づき、学法で向上するにしたがってこの心を取り除きました。私はまず先に真相を伝え、それから三退を勧めると、私が接触した運転手の大部分を三退させました。ごく少数の運転手が私の話を聞かず三退しませんでしたが、顔を合わす度に真相を伝えると、何回目かには三退に同意しました。

 またある時、師父の故郷の人に出会い真相を伝え、三退させると、その人は小さい時、師父に会ったことがあり、その頃、師父はまだ部隊にいた、と言いました。学校が終わった後、いつも走り回って師父と遊び、師父の人柄は本当に善良で正直だと感じたそうです。その話を聞いた時、私は感動し、師父はその人を私に救わせてくださっているのだとわかりました。そのため、私は大法があまねく伝えられている状況を伝え、順調にその人を三退させました。

 もちろん私にも多くの足りないところがあり、自分の状態が悪かったり、自分の仕事が忙しい関係で人を救う機会を多く見逃してしまいましたが、私がこの人を救いたいと願うと、師父は私のために按排してくださいました。その後のいつとははっきり言えませんが、必ずその人に再会するので、その時は急いで真相を伝え、たいていの場合、順調に三退させることができました。本当にしっかりと願いさえすれば、師父は助けてくださいます!!

 大法の一粒子になれたことは本当にこの上ない幸運なことで、この上ない幸福なことであり、師父の絶え間ない慈悲あるご加護に感謝申し上げます!

 ありがとうございます、師父! ありがとうございます、同修の皆さん!

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:「シドニー法会での説法」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「正念正行」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 (明慧ネット第14回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/11/17/356195.html)
 
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