衆生を救う中で自分自身を良く修める
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文/米国ニュージャーシー州の大法弟子

 【明慧日本2018年5月25日】

 尊敬する師父、こんにちは。

 同修の皆さん、こんにちは。

 私は米国ニュージャーシー州に住む修煉者で、1996年9月、留学中に法輪大法と出会いました。修煉を始めてわずか2週間、幸運にも師父がヒューストンで行われた説法を聞く機会があって、そこで自分の使命、および大法との縁を悟りました。

 中国共産党の法輪功への迫害が始まってから、私はずっと法輪大法の様々な活動で警備の仕事を担当していました。中国共産党のスパイの卑劣さを極度に憎んでいるため、毎回の活動に私は強い警戒心を持って臨んで、活動中にしっかりしない同修を見れば、私はとても厳しく叱ります。

 2006年、神韻公演が始まってから、私は公演現場で警備の仕事を担当してきました。私自身はとても厳粛な表情をするほか、来場の視聴者一人一人に対しても鋭い目でチェックをしています。少し態度を変えて下さいと注意してくる同修もいますが、自分は世の中の最も正義な事をしているからと思って、私はその意見にまったく耳を貸しませんでした。公演後、警備をする私たちはなんと神韻演目の中の「凶悪な警察官」に似ているとフィード・バックする同修がいて、それを聞いて私は少し笑って、これはちょっと言い過ぎだなと思って深く考えませんでした。公演が終わって「今回、こっそり写真を撮る人を捕まえたのですか」と同修たちはいつも聞いてきて、そのとき、私はいつもとても自慢げに「今回も○○人を捕まえましたよ」と答えます。

 警備チームの同修たちが休憩時間に雑談をするとき、あるガッチリした体形をした男性同修がみんなに「警備員の中で、最も怖い人は誰ですか」と聞くと、みんなは「あなたでしょう」と答えて、彼は「いいえ、彼(私のことを指す)です」と言いました。私は「こんなに大きい体をしているあなたより、私のほうが怖いですか、あり得ません」と言って、彼はとても真剣に「あなたは眉を立てたとき、相手はあなたの前でただ震えるだけです」と答えました。私は冗談だと思って、気にしていませんでした。

 2011年、仕事がとても忙しくなって、大法の活動に使える時間が少なくなったため私は転職を考えました。ある日、運転しながら私は7歳の娘に、「パパは転職を考えている。どんな仕事が良いと思う?」と聞くと、無邪気な娘は真剣に私のために考えて、「パパ、警官学校に行って、警官になれば良いと思うわ」と答えました。驚いた私は「どうして」と聞いたら、娘は「パパは人を捕まえることが好きだから」と答えました。驚きのあまり、私は道まで間違えてしまいました。娘の中で父親に対する印象はこんな印象だと、とても意外でした。

 またある日、集団学法を終えて家に帰る途中、娘は「子供弟子の学法のところは、とてもうるさくて、男の子たちはずっとずっとがやがや騒いで、まったくそこにいられません。パパに来てほしくて、パパが彼らに少し注意してくれたら、彼らはきっと大人しくなると思う」と言いました。今回、私は完全に呆れました。娘の心の中の父親として私はなんとこのような凶悪なイメージなのでしょうか?! これは反省しなければと私は思いました。

 ふだん、自分はたくさんの物事にマイナスの評価を持っていて、(自分が)不合理と思った事に対して口にするかしないかは別として、心の中でとにかく不満に思います。私は自分に対して厳しく要求し、人に対しても同じく厳しいです。相手がもし何かを間違えたら、或いは私の思った「正しいルール」に合っていなかったら、私は激しい言葉で叱り、相手が受け入れられるかどうかをまったく配慮しません。同修である妻に対しても同じです。「私たちは真・善・忍を修めるので、あなたにどうしていつも魔性が発作しますか」と同修は注意しても、私は馬耳東風の態度をとります。今回、真剣に今までの言動を反省したら、自分は確かに大きな魔性を持っていると初めて意識しました。「どうしてこのような人間になったのだろうか」と私は自分の修煉状態にびっくりしました。

 自分を変えようと決心しました。私はしっかり学法して、「優しい人間になろう」とよく自分に言い聞かせていますが、しかし根強い魔性はいつも私の努力を打ち砕きました。

 毎回、心性の試練に遭うとき、私の喜怒哀楽は魔性によって左右されます。かんしゃくを起こしてからまた後悔します。毎回の試練は、私に自分の魔性を認識させるために師父が与えて下さった機会です。魔性を消滅する過程の中で、何か突発的な出来事が起きて私が急に善良になり優しくなったのではなく、ただ日常生活の中で、心性のぶつかりを繰り返す中で少しずつ魔性を除去していきました。

 神韻宣伝を行う中で自分自身を浄化する

 多くの海外の大法弟子と同じように、私は神韻を宣伝するための様々な活動に参加しています。以前、私はよく高級百貨店に設けた販売拠点で当番をしており、1回の当番は5時間です。5時間の間、私が配りった宣伝ビラはとても少なく、足を止めて神韻の紹介を聞いてくれる通行人も少なく、私が売ったチケットはもっと少ないのです。自分の実績が良くないため、このような宣伝方法は本当に効果があるのかと私は時々疑います。そこに立って寂しいと感じ、次の同修が早く交替に来るのを待ち望んでいます。この拠点はテレビを売っているのかと通行人に誤解されたことさえありました。

 交流するとき、ある同州は当番のときに宣伝ビラを数百枚配ることができ、また10人以上の通行人にじっくり神韻を紹介することもでき、またその場でチケットを売ることもできると話しました。それは奇跡だ、どうしてできるのかと私は思いました。次に当番をするとき、私は微笑みながら、以前より積極的に通行人に宣伝ビラを渡そうとしましたが、ほとんどの人は相変わらず受け取ってくれませんでした。

 百貨店の販売拠点で神韻を宣伝してチケットを売ることは、常人社会のボランティアと違って、ただ仕事を完成させることとも違って、私たちは衆生を救い済度しているのだ、私たちは神の使者で救える人を探しているのだ、とある日私は突然考えました。神韻も娯楽の公演ではなく、私たちは神韻公演を説明するとき、服装、音楽、演目の美しさと素晴らしさを言うだけでは足りません。人々は本能的に自分を救えるものを探しており、彼らの内心は大法弟子に救われることを待ち望んでいるのです。

 ここまで考えて、心が洗われたように透明になり、神聖な念が生じて、自分が高くて大きくなったと感じました。私はすぐ状態を整えて、本当の慈悲をもつようにと自分に言い聞かせて、通行人に心からの微笑みで接しました。すると、私の手から宣伝ビラを受け取る人が大いに増えて、多くの人は足を止めて少し時間をかけても私の神韻の紹介を聞いてくれました。その日、私の当番時間は、あっという間に5時間が過ぎて次の同修が来ましたが、私はもう少し販売拠点に残りたいと思いました。神の使者になることはこれほど幸せなのかが分かったからです。

 「更に高い次元まで到達すれば、あなたの思想がますます清らかになり、あなたの考えから現れてきたもの、口にした話が非常にきれいになります。きれいであればあるほど、単一であればあるほど、宇宙の理に適うようになります。話したことも直ちに人の心まで届き、人の思想の深いところ、その生命の更なるミクロなところまで届くのです。なんと強い力なのでしょう?! ですから、入静できるのはある境地の現れです」[1]と師父は説かれました。

 私は師父の言葉から解答を見つけました。少し話してすぐ相手に「三退」してもらえる同修や神韻を宣伝する過程で「奇跡」を作れる同修たちは、その境地まで到達して、その功力を持ったため、彼らの言い出した言葉は邪悪を取り除く力を帯びて、衆生の良知を呼び覚ますことができるのです。それは、彼らの到達した境地が現実社会に如実に現れたものです。

 それから、販売拠点に行く前に私は必ず2時間の煉功を終え、真剣に学法と発正念をして、師父にご加持を願います。販売拠点に立って、今からの時間は私の修煉状態を検証する時間です。一夜漬けして短時間に自分の修煉の次元を高めることは不可能だと私は考えました。私の慈悲を感じた通行人が宣伝ビラを自ら受け取りたくなるのか、私の説明に感動して神韻公演を観たくなるのかは、私の修煉状態の現れだと思います。

 以前、販売拠点に行くことをやむを得ない任務だと思うときもありますが、今、拠点に行く前に自分の修煉状態をしっかり整えたため、毎回自分の向上を感じられるので、そこに行く機会を私はとても大切にしています。

 ふだん、他の同修と同じように私もよく「師を助けて法を正し、衆生を救い済度する」と口にしますが、しかし神韻宣伝の活動に参加する中で、自分自身の魂が洗われて、自分自身は浄化されたと感じ、それから「師を助けて法を正す」という言葉を軽々しく口にすることができなくなりました。実は、神韻宣伝に携わる機会は、全身に業力が溢れる私に師父が下さった恩恵で、私自身を救う機会なのです。

 天国楽団の中での修煉体験

 私は2006年の末に天国楽団に加入しました。私は金を出して教室などに通っておらず、ただ同修の皆さんと一緒に練習して、また、自分なりに「レベルの向上の秘訣」を探っていました。向上するには絶対「秘訣」があって、その「秘訣」さえ見つかればきっと上手にトランペットを吹けると私は信じました。そこで、私はあちこち「秘訣」を探して、本も読み、また様々な特製のマウスピースを買って、自分自身に適合して楽に良い音色を出せるマウスピースが見つかることを願いました。私はまた特殊な方法を見つけた人は、腹式呼吸をしなくても高い音を出すことができると言っていました。私は誤って邪道に入り、数年経っても基礎技能も耐久力も全然高まっていません。ほかのトランペット演奏者は「秘訣」を持っていないのにますます演奏が成長しているのを見て、私はとても焦りました。

 学法を通じて、音楽と絵画は高い次元から現代人類に伝えられた技巧だと分かって、トランペット練習について自分の考えが偏っていたことを認識しました。大法弟子は天国楽団で練習して演奏することを通じて衆生を救うので、もし私がずる賢く何かの「コツ」を使ってトランペットを吹けば、真・善・忍を実証していると言えますか? 大法の基準によって絶えず自分を高め、同時に堅実な練習もして、初めて上手にトランペットを吹くことができる、それこそ大法弟子として楽器の演奏を通じて大法を実証する正道なのです!

 自分の過ちが分かって、邪道から正しい道に戻ろうと私は決心しました。同修たちも「トランペットを正しい方法で吹いてください」と私を励まして、約1年かけて私はやっと正しい吹奏法に戻りました。今回の教訓は厳粛なもので、どんな大法のプロジェクトにおいても、ずる賢く近道を通ろうとするやり方は結局、最後にきっと間違った道に入り、大法を実証するどころか、貴重な時間を無駄にしてしまう羽目になります。

 天国楽団の創立当初、多くのパレードをしたのですが、だんだんとパレードの回数が減ると同時に神韻宣伝の仕事が増え、私はほかの大法プロジェクトの仕事も担っているため、時間がないと感じて天国楽団を脱退することまで考えていました。天国楽団はとても重要だと言って私を止める同修もいましたが、しかしそれほど多くの時間をかけて練習して築いた技能を、1年間に僅か4、5回のパレードにしか使わなければ、天国楽団というプロジェクトは大法を実証する中で、いったいどれぐらいの効果があるのかと私は思いました。

 人間は喋るときに自分のすべての考え、もろもろな情欲と各種の人心、執着を放ちます。修煉状態の良い大法弟子は大法を読むときに、他の空間から見れば、口から一輪一輪の蓮の花を咲かせています。それでは、楽器の演奏も同じではないでしょうか。吹き出した音色は同じく演奏者のすべての思想と修煉の境地を現しているのではないかと私は突然気づきました。

 師父は説法で天国楽団のパレードに言及されたとき、「大法弟子が吹いたラッパから放出されたエネルギーは非常に強かったのです。皆さんは映画で見たと思いますが、原子爆弾が爆発したとき、大きな衝撃波が生じるでしょう? それよりも強いものです」[2]と説かれました。では、楽団のメンバーとして、その衝撃波に自分はどれぐらいの力を貢献したのかを私は考えました。もし私の修煉が良くできているなら、私が吹き出した音はきっと衆生の良知を呼び覚ませる力を帯びます。もし私の修煉状態が良くなかったら、吹き出した音はきっと間もなく空気の中で散ってしまい、衆生を救う効果をあまり果たせません。

 その道理が分かったら、この前の思惑はとても浅はかと感じました。師父が天国楽団を創建されて、大法弟子に自分を修めながら大法を実証する機会を与えて下さいました。師父が創建されたすべてのプロジェクトは大法弟子にとって皆、自らを修めて衆生を救う機会なので、人心を以ってプロジェクトの中であれこれと選り好みをする資格が私にありますか? 実は天国楽団であれ、新聞社であれ、テレビ局であれ、大法のプロジェクトは衆生を救えるかどうかは、それに参加する修煉者が真に修めるかどうかによって決まります。大法弟子として、ただただ絶えず精進するほかありません!

 協調人をする中で内に向けて探す体験

 私はメディアのプロジェクトの中で協調の仕事をやっています。2017年の年初、メディア内部、同修の間に激しい対立が起きました。情報が私のところに伝わったのは、ちょうどよその州で神韻公演当日の手伝いをやった頃です。神韻公演の手伝いに当たっては絶対的な集中が必要なので、私は心の平静を保って、マイナス方向に考えないように努力しました。しかし夜、ホテルに帰ると焦って心配してよく眠れません。「昨夜、あなたはずっと寝言を言いました」と同じ部屋に泊まった同修は教えてくれました。

 同修の間のトラブルと対立を見て、解決方法を私は一所懸命思索しました。私は師父の説法を引用して同修の問題点を指摘したら、問題を解決するどころか、同修の反感まで買いました。

 私は師父の言葉を思い出しました。「自分自身を修めてください。私は大法弟子の環境を互いに批判しあう環境にしたくありません。私はこの環境を、批評を受け入れると同時に、内に向けて探すことのできる環境にしたいのです。皆、自らを修め、すべての人が内に向けて探し、誰もがしっかりと自らを修めることができれば、衝突は少なくなるのではありませんか? この道理は、私が法を伝え始めた当初から、今日まで説き続けています。そうではありませんか? 修煉者は決して、叱責されることによって良くなるのではなく、師父である私の批評によって良くなったり、皆さんが互いに批評叱責しあうことによって良くなったりするものでもありません。皆さんが自分で自身を修めることによって、良くなるのです」 [2]

 そうです。内に向けて探すことなのです。それこそすべての問題を解決する鍵ではありませんか、すべての対立と心のわだかまりを解く「秘宝」ではありませんか? 私の役割は協調することですが、しかし私自身も今回のことの渦中にいるので、まず自分を探してみようと私は考えました。探した結果は下記のとおりです。

 すべての人の意見を聴取すると私は言ったのですが、しかし頭は最初から同修たちの情緒と態度に左右されて、激しい話し方をした同修は、その態度が私の気に入らないため、その意見も聞かずに私に否定されました。

 同修と個別交流するとき、私の話し方はとても硬直で、「要点だけを言って」と同修を催促して、会話を早く終わらせたいのです。見たところ、私は時間をかけて同修と個別交流までしたのですが、しかし話し手の心からの声を聴いてあげる気持ちを持っていません。その原因は何でしょうか? 私に善が足りず、問題を解決して相手を助けようとする優しさがなく、会話の場を設けたのは目の前のトラブルを早く解決したいだけでした。

 また、「たとえ自分が100%正しくても、冷静に話すことも必要です」と同修に注意されたこともあります。

 同修の間にトラブルが起きたとき、もし私が協調人の立場でトラブルの中に突っ込むと、対立を解消するどころか、かえって激化させるかもしれません。同修の不足を見て、少しも私心を抱かずにただ内に向けて探すなら、状況は変わるかもしれません。

 全体から見ると、今回メディアが暴露した問題は、長い間、本部は各支社に対して思いやりと助けが足りないことに原因があります。根本から解決するには、本部は率先してしっかりやらなければなりません。中国には「己が身を正しく持てば、命令しなくても皆が従う。身を正しく持たなければ、命令しても皆が従わない」という古い言い伝えがあって、その道理は個人においても組織においても同じだと思います。

 再び警備の仕事をするとき

 また、神韻芸術団が世界巡回公演する季節になり、私はもう一度劇場警備の仕事を引き受けました。現場に就いて、超満員になった劇場を見て、今日の視聴者たちはどれほど幸運なのか、師父の直接的な済度を受けているのだと考えて、私は感無量でした。満場の視聴者を見て、彼らをとても大切にしたい気持ちが胸いっぱいに溢れました。「衆生よ、大法弟子はあなたたちを救うために、ありとあらゆる苦を嘗めました。俗世間のことに邪魔されずによく公演を見て下さい。電話に出ないで携帯電話を見ないでください。さらに写真を撮らないで、公演を邪魔するような行為をしないでください」と私は心で視聴者に話しかけました。善意をもってほかの同修と一緒に礼儀正しく入場する人々に神韻公演の規定を教えると、多くの人は微笑んで協力的な態度を示してくれました。公演が終わって、また「今日、こっそり撮影する人を捕まえたのですか」と同修が聞きに来たとき、「今日はとても良くて、撮影する人は一人もいません」と私は答えました。本当の威厳は、慈悲の境地を目指して修める途中に自然に現れるものだと、私は突然その道理が分かりました。

 更なる精進を

 一時、何をやっても元気が出なくて、参加しているプロジェクトの中でいくら努力しても成長が見えず、かえって様々なトラブルに頭が悩まされました。心身ともに疲れきって、これ以上動けないと感じました。

 そのときに私は夢を見ました。夢の中で師父は大法弟子たちと一緒に自転車に乗って上り坂の道を走行しており、みんなは力いっぱいに漕いでいますが、とても難しいのです。私は師父に「上り坂はなんと難しいことでしょう。どうして平坦な道、或いは下り坂の道を選ばないのでしょうか」と聞くと、師父は「この難しさは大法弟子が救おうとする衆生の業力から由来するものです」と答えてくださいました。夢から目が覚めて、各プロジェクトに参加する中で遭った難題はなるほど、私が救うべき衆生の業力と関係するのだ、と分かりました。実は、神韻公演当日の吹雪や厳寒、天国楽団がパレードを行う日の炎天下や暴雨、メディアの仕事をする中で遭った様々な困難は、すべて我々に救われる衆生の業力と関係するのだと思います。

 師父は『洪吟』に「危難来れる前に法船を駕す 億万の艱険を重々攔む 支離破碎して乾坤を載す 一夢万年終いに岸に靠く」[3]と書かれました。師父は宇宙の衆生を救うため、何度も終わる時間を延長させて、支離滅裂した宇宙を解体しないように維持されています。大法弟子は最後の時刻に自分を修めて衆生を救い、史上かつてない機会の中で誓約を果たすために、苦労を払わないで済むでしょうか。勇気を出して責任を担わずに済むでしょうか? 同修たちよ、互いに励まして更に精進しましょう。

 師父に感謝します。同修の皆さんに感謝します。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『スイス法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [3] 李洪志師父の詩:『洪吟』「苦しく済度する」

 (2017年ニューヨーク法会の発表原稿)

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/19/348385.html )
 
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