大法を修煉する中で成長する
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文/アメリカの子供弟子

 【明慧日本2018年8月16日】私は2005年から父と一緒に法輪功修煉を始めた子供弟子です。13年間修煉するなかで、私は何もわからない子供から高校生に成長しました。

 法を実証することは大法弟子の責任であり、自分を修めることは大法を実証するための基礎作りです。修煉は長くて苦しい過程であることを私はよく知っています。迷いの中で自分の心性を守れば向上できますが、守ることができなければ圓満成就できません。今の社会は私にとって誘惑に満ちていて、顕示心、依頼心、嫉妬心、闘争心、恨む心、恐怖心、情、好きと嫌い等などすべてが執着心です。様々な心が私の修煉の中、巨大な障碍となっています。これらの執着心を修める過程での一部の感想をみなさんと分かち合いたいと思います。足りないところは皆さんの慈悲なるご指摘をお願いいたします。

 一、顕示心を修める

 子供の時から私は自分に強い顕示心があることを知っていました。毎回小さな成果が収めるとすぐに人に見せびらかし、他人が私を羨ましがる様子を見ると、とても嬉しかったのです。時間が経つにつれてこの執着心はますます強くなりました。人に褒められたら表面上は非常に謙虚な様子を見せますが、心の中では嬉しくてたまりません。自分が成し遂げたすべてをみんなに見せて褒められないと、とても残念な気持ちになります。私もこの心がどんなに強いかわかっていましたが、呪いのように私についていて知らないうちに自分を顕示したくなるのです。

 この心は気づいたら即座に発正念をして消滅すべきですが、毎回事後に気付きました。毎回自分のやり方に後で後悔し、次回は頑張って直そうと心に決めました。慈悲で和やかな心を保つことができれば次回の試練では関門を乗り越えることができます。先日こういうことが発生しました。師父が私を向上させるためわざと按排されたのだと思います。学校の絵画の授業で学生の描いた作品を何点か選んでニュヨークロングアイランドの展示会で展示することになりました。私が描いたのは水彩の自画像でした。二つの特殊な色を使い、先生も認めてくださいました。自分が選ばれないように望んだと言うのは嘘ですが、できる限り心を平静にさせ、特にこのことに気を使わないようにしました。ある日、美術の授業で先生が受賞者の名前を読み上げましたが、意外にも私の名前はありませんでした。私の名前に似ている同級生が選ばれました。彼女が嬉しそうに親や友だちに見せびらかす姿を見て、自分の心は急に落ち込みました。そこでこれはなくすべき人心だと意識したので、すぐ発正念をしてそれを取り除きました。

 でもこれは終わりではありませんでした。試練は次から次へ続き人心を動揺させました。私がうっとうしい気分から離れて心も軽く感じた時、先生が実は私の作品が選ばれたと話されました。ただ名前を呼ぶ時発音がはっきりできなかったため、別の人だと誤解されたということです。突然良い知らせを聞いたら自分も知らないうちに顕示心が生じました。心のなかで嬉しくてたまりません。すぐあの同級生の前で自分を実証したくなりました。やはり私のほうがすごいでしょう! と。この心は生じたらすぐ気づきました。これは私の顕示心と歓喜心をなくす時ではありませんか? これは師父が按排された試練ではありませんか? 私はすぐ冷静になり心の中で発正念をして執着心を取り除きました。数分後、ずっと体についていた腫瘍を捨てたように体が軽くなったと明らかに感じました。

 二、根本的な執着心と依頼心を修める

 常人社会は染め物がめであり、修煉の過程において、私にはよくできなかったところが多くありますし、様々な心は今でも頑張って修めている最中ですが、依頼心は私にとっては根本的な執着でした。

 師父は説法でこうおっしゃいました。「人間が世間においてこれらの心を抱いて、素晴らしい追求と願望にあこがれるのは間違いではありませんが、修煉者としては、それではいけません。ですから、あなたがこのような考えの働きかけのもとで大法の門に入ることはかまいませんが、修煉していく過程で自らを修煉者と見なし、今後、本を読み、法を学んで精進していくうちに、自分が入門した時、どういう考えで大法に入ったのかを、はっきりと見分けなければなりません。修煉してしばらく経っても、まだ当初の考えのままなのでしょうか。人間のこの心が、自らをここに留めさせているのでしょうか? もし、そうであれば、わたしの弟子とは言えません。これはすなわち、根本的な執着心が取り除かれておらず、法の上から法を認識できていない、ということです」[1]

 修煉は厳粛であるという言葉の意味が大きくなってやっと少しずつ分かるようになりました。以前大法に対する態度は師父がおっしゃった中士の、「道を聞けば、存るが若く、亡きが若し」でした。大法の修煉は父に導かれて始め、学法煉功も父の催促されて行ないました。外へ出て法を実証し、真相を伝えることや、明慧ネットの交流文章を読むことも、すべて師父が按排してくださいました。私はただ師父の按排に従う操り人形のようで、人の操りがなければ、ただの木の切れはしでした。私はずっとこれを当たり前のことと思っていました。2013年に母と一緒にアメリカに来た時このような根本的な執着心のせいで私は「自然に任せて」学法と煉功を緩めました。この状態は父が2年後私たちと一緒に生活するまで続きました。

 今も覚えていますが父が国内にいた時私に電話で伝えてくれたことですが、夢の中で巨大な建築物がドミノのように一列ずつ倒れていき、もうすぐ私の周辺まで来るところでしたが、父が走ってきて私を早く離れさせました。しかし私は自分がずっと持っていたこの執着心、依頼心を意識したことがありません。煉功と学法だけでなく、家でも学校でも社会生活でも私の依頼心は年を重ねることによって、ますます重くなりました。私によくあるのは次のようなことです。よく道を迷うこと、知らない人とは交流ができないこと、自分でお金を支払えないこと、家事をやりたくないこと、すべてを親に任せること、家のことならいつも自分と関係ないと思い、できる限りかかわらないこと等です。これらのことは大したこととは言えないかもしれませんが、決して小さなことではありません。幸いなことにこの数年間、内に向けて探すことと同修たちの助けの下で、もうずいぶん長い間私に依頼心があると言われたことがありません。私も徐々に自立できました。もちろん学法と煉功で精進しない時がありますが、毎日努力して向上しています。

 三、嫉妬心をなくす

 自分に嫉妬心があるとはっきり認識したことは一回もありません。気がついたとしても自分に言い訳をして正当化しました。修煉するにしたがって内に向かって探す過程で、やっと小さい時から心の中に埋もれていたこの心を見つけました。最初、嫉妬心とは他人に良いことがあるのを不平に思う心だと思っていましたが、この間師父の説法を読んで、人を見下すことも嫉妬心であると認識できました。これは嫉妬心に対する私の認識を変えてくれました。それでやっとわかりましたが、やはり学法が少なかったから見つけられませんでした。幸いなことに今この心を見つけました。

 学校での対人関係、学習の負担は当たり前のように私に気を晴らさせようとさせます。このようなことはちょうど嫉妬心の形で現れます。例を挙げると、私は英語が下手で、学習の負担が大きく成績も良くないのですが、他人がよい成績を取れば心の中で不快に感じます。授業の時、積極的に先生の質問に答える人には軽蔑した態度を取り、心の中では「私にもできるよ。ただあなたと争いたくないだけだよ!」と思っていました。なんて強い嫉妬心でしょう! しかしずっと気づかなかったのです。

 人を見下すこと自体が非常に強い嫉妬心で、小さい頃から今まで最大の問題は全部ここから生じたのです。毎回この良くない心が出て邪魔をしょうとすると、私はすぐ発正念をしてその心をなくします。毎回それを認めない時、自分の心が少しずつ和やかになることを明らかに感じます。私をこのように楽に向上させるために加持してくださった師父にいつも感謝しています。

 四、闘争心をなくす

 闘争心は小さい頃から私の中に隠れていた時限爆弾なようなものですが、ずっとその存在に気づきませんでした。しかし毎回トラブルが生じた時この心は明らかに現れます。最近になって自分の闘争心が非常に強いだけでなく、更に二つの異なる現れ方があることにも気づきました。一つは他人の忠告を聞かないことです。毎回トラブルが生じた時、自分が正しいという証拠があると言いながら、他人の指摘を受け入れず、毎回心性の関がやってきた時乗り越えることができず、最後に相手とは気まずい思いをして別れます。事後自分の間違いを認識しますが、毎回自分を制御することができず不平に感じ、心性を向上できませんでした。この状態は長い間続きました。最終的に心を静めて自分の問題を探すしかありません。この時こそ心性を向上させるときではありませんか? 自分が不当な扱いを受けたと思って人と論争することこそ赤裸々な闘争心ではありませんか? 人と論争することは常人の心で問題を考えることではありませんか? だからこそ毎回難がやって来た時、乗り越えることができませんでした。この心を意識した時自分の体から一つの大きな包みを捨てたように非常に軽く感じました。

 闘争心のもうひとつの現れ方は利益に対する執着です。学校では体育の授業で常に試合をやっていました。先生はみんなを4組に分けて互いに競争させますが、遊ぶ前にまずルールを決めます。毎回相手のチームのボールがアウトになりそうになると私は心の中で喜びます。よし、われわれの加点だ。しかし私のチームメートはいつもお互いに譲ります。彼らは「え~っと、アウトではないはずです」、「大丈夫です、もう一回サーブして」、「ハハ、私たちが負けました」などと言います。友だちのこのような行為に私は腹が立ち、心のなかで明らかに我々チームの得点なのに、なぜまた他人に譲るのかと怒りが募ります。今このような考え方を振り返ってみると、自分は普通の善良な常人にも及びませんでした。このことは私への影響が大きいのです。自分がこの方面で常人にも及ばないことが分かったので、確かに頑張らなければなりません。

 私の修煉過程において外の世界は私にとって誘惑に満ちたもので、影響も大きいのです。自分にいろんな執着心、例えばおしゃれが好きな心、遊びに夢中になる心など、まだ取り除かれてない心があることをよく知っていますが、これらは全部目の前の深刻な問題です。しかし、父もそばで監督し、催促してくれるし、周りの同修たちも互いに競って法を学び、修煉している良い修煉環境があるのは自分にとって幸いなことです。私も深く認識していますが、法を正す時期の大法弟子として師父が要求された三つのことをしっかり行ない、心性を制御できたらもっと高い次元へ修煉して行くことができますが、制御できず放任すれば圓満成就できません。

 自分がこれから先の修煉において慈悲で和やかな心を保ち、法を実証する道で法を正す進展に追いついて多くの人を救い、もっと多くの人が大法の真相がわかるように、自分の真の家に帰ることができるように祈ります。

 私にこのような修煉体験を交流し、向上できる機会をくださった師父に感謝し、同修に感謝します。足りないところは慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「圓満成就に向かって」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/7/2/370499.html)
 
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